たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

祈り

2013年09月16日 20時23分49秒 | 祈り
明日で父との突然のお別れから3年になります。早いものです。
突然、自分を守ってくれていた大きな柱がなくなってしまったような、なんとも足元がおぼつかない、心もとない思いで気がつけば3年がたちました。

手帳で振り返ってみると、3年前の今日(16日)は木曜日で、週末近くへロヘロになっていた頃(朝は電車で熟睡)、いつもどおりお昼を食べ終わって午後の仕事が始まったばかりの1時頃だったと思います。父が入院中の病院から携帯に電話が入って、今日か明日で危ないと言われて意味がわからず信じられず、どきどきしながら派遣会社の有給休暇は半休がないので丸一日休暇扱いにしてもらい、新幹線に乗る用意をするため急ぎ職場を後にしました。とても蒸し暑い日だったことをいまでもおぼえています。

酷暑と言われた2010年夏、私自身はホットフラッシュに悩まされ、職場も電車も冷房がきつくて体が冷え切り、外に出れば熱風、びしょびしょのくさい汗が出て、仕事は相変わらず忙しく、きつい日々が続いていました。

今振り返れば80代後半で入院中、いつ何が起こってもおかしくなかったのに、危機感がほとんどなかった。自分の親がいなくなってしまうなんて考えられなかった。

8月の第四週目の日曜日、父が会いたがっているという弟からの連絡にようやく重い腰をあげて
日帰りで帰省しました。日曜日はお休みの地域包括支援センターのワーカーさんに無理を言って家にきてもらい、父と母の今後のことを相談してから、入院中の父に会いに行きました。「バイバイ、また10月に会いに来るからね」、手を振って帰ろうとしている私を見つめる父の瞳はとてもさみしそうでした。私は本気で考えていました。涼しくなったらまとめて休みをとってまたあらためて帰省しよう、母を往診してくれるお医者さんをみつけなければ・・・なんとかしなければ・・・、ひとりよがりだったのかもしれませんが、その時は必死にそう考えていました。

お別れの5日前の日曜日、病院から電話が入っていました。
父がベッドから落ちたけれど、弟と連絡がつかない。ワーカーさんに連絡して無理を承知で家に様子を見に行ってもらい、最悪のことを考えてしまって新幹線に乗る準備をしようとしていたところへ、弟と連絡がついたとワーカーさんから連絡が入ってほっとしていました。
後から考えればこの時からざわざわしていたのに、危機感はもてなかった。

駆けつけた時は酸素マスクをつけていて意識はもうなかった。でもほんの一瞬うっと声をあげて必死に目を開けて私を見つめた。私を認識できていることがわかりました。その一瞬がなかったら、私はまた後悔で自分を責めることになったかもしれません。
若い頃大きな病気をしていたことを、レントゲン写真で先生から説明されるまで知らなかった。長い間親子だったのに知らなかった・・・、気力で生きてきたんだ・・・。

翌17日(金)、母の往診のことで町医者に行っていて、でも待ち時間が長くって気になるから抜け出して病院に行ったら、私と弟を待っていたかのように、だんだん脈が落ちていって、静かにお別れとなりました。涙を流して最後まで一生懸命にがんばり続けた姿を弟と二人で見届けました。よくがんばったね、よくがんばったね。なんどもなんども顔をなでてあげました。



子煩悩な人でした。幼い頃、本当に大事に育ててもらいました。
なにがどこで間違っていて妹と母のことがあったのか、その答を探し求めてもどこにもない。
まだあまり考えたくはないけれど私の人生にも終わりはいつかやってくる。その時まで一生懸命生きていこうと思います。

妹とのお別れの日もまもなくやってきます。

父と母と妹と、三人で見守っていてね、幸せになれるようにみまもっていてね。

今はただ静かに祈りたいと思います。