たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『東北学/文化と震災からの復興』=3回目

2013年10月26日 13時16分56秒 | 東日本大震災
2012年9月29日の3時限目、赤坂憲雄「東北学、新たなステージへ」のレジメより引用。
3回目です。

<3>

瓦礫のなかで、くりかえし生き残った神社に遭遇した。

 三・一一から四週間ほどが過ぎていた。はじめていわき市に入り、津波に洗われた海岸をひたすら南下した。塩谷岬をめざしたが、辿り着くことはできず、その手前の薄磯という地区で茫然と立ち尽くすことになった。住宅街は津波に舐め尽され、火災も起こり、ほとんど壊滅状態だった。まだ瓦礫の処理はほとんど行われておらず、かろうじて緊急車両の移動を可能にするために道路から瓦礫が撤去されているだけだった。一面の瓦礫の海が眼の前に拡がっていた。言葉はなかった。ただ黙々と、破壊の跡を眺め、手を合わせ、カメラのシャッターを押し続けた。

 ふと、瓦礫のなかに、鳥居がぽつりと立っているのに気付いた。焼け焦げたビルを迂回し、瓦礫を掻き分けながら、近づいてゆく。石の鳥居が瓦礫に埋もれたままに、かろうじて立ち尽くしていた。狛犬は片方だけ、鳥居の向こうに身をよじるように立っている。かたわらに参道の坂道があり、高台に薄井神社が建っていた。そこから眺めると、海がすぐそこにあって、津波が低い堤防を越えて一気に住宅街を押し流した情景が思われた。神社は避難所として使われていたらしい。この地区で津波の難を無傷で免れたのは、この神社だけだったかもしれない。

 思えば、瓦礫の海のなかに、かろうじて鳥居や神社が生き残っている姿を見かけた。それがはじまりとなった。津波に舐められて跡形もない風景のなかに、気がつくと、鳥居と森と神社が孤高に立ち尽くしているのだった。高台にある神社に逃れて助かった人々の話にも、くりかえし出会った。五メートルぐらいの高さまで、参道の階段が流されたが、神殿に上がった人たちは助かったとか、集落のもっとも奥まったところに鎮座する神社の鳥居のを下まで津波が届いたが、狭い境内に逃れた人々はそこに焚き火をたき、一夜を明かした・・・といった話に耳を傾けた。

 津波の難を逃れた神社の姿は、多くの人によって語られてきた。神憑りの霊験譚を語りたいのではない。ある工学部の大学院生の研究によれば、同じくらいの数の神社が流されており、そこに特別な意味合いは存在しないともいう。きちんとした調査と研究が必要だが、私自身はそこには何らかの社会文化的な背景が隠されていると想像しているが、今は措く。


私自身の受講メモより

「東北学 
 
 ぼかしの地帯、あいまいさ。北と西の文化がつながりあう。
 その姿を浮き彫りにするのが東北学。
 ・北につながる東北ー縄文文化_東北の出土品の中に生きている。
  30万人の80%は北に住んでいた。
  ブナ林があったことによる。豊かな資源・狩猟。
   アイヌ・エゾ
  平泉、北につながる濃い文化。
  弥生、古墳文化は存在しない。
  東北に立つと北につながる文化がみえる。

 ・西につながる東北ー弥生文化、大和、稲作農耕


 遠野物語。120年前に書かれた。
 そのさらに150年前に、会津でキツネにばかされた物語などがあり、
 下地となっている。
 似ている物語が多い。」


1986年9月に岩手県遠野市内で撮った一枚です。
旅日記の記録によると「北川家、オシラサマ」



遠野市内、佐々木喜善の生家・水車小屋



旅日記の中で、「遠野市は全国で4番目に広い市だけれど人口密度の低さは3番目ぐらいだそうです」と私は書いています。

一連の講義の中で他の日時に他の講師の先生から遠野物語の話も聴きました。
若い頃は意味がほとんど意味がわかっていなかった。
もう一度読み返してみたいと思っています。


昨夜は2時10分に福島県沖で地震、揺れは長く続きました。
原発は大丈夫なんだろうか、不安になります。
原発はコントロールできているって世界に向かって言ってしまってよかったのだろうか。
何か違う方向に引っ張られてしまっているように思えてなりません。


26号の台風で行方不明の方々がいらっしゃいます。
神奈川県の海で行方がわからない男の子の捜索も続いています。
なんともせつなくてたまりません。
早く見つかりますように、今通過中の27号で大きな被害が出ませんように・・・。

日本列島に生きる私たちは大きな自然災害と背中合わせ。
3.11で思い知らされました。

東北学はまだ続きます。