たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

秋のプリンス・エドワード島への旅_2日目

2013年10月20日 14時06分04秒 | プリンスエドワード島への旅
2012年10月14日(日)

さかのぼって書いている。
4時頃薬で眠ったが、6時頃一度さめて8時過ぎには目ざめてしまった。
移動の長さと時差、日頃の疲れの疲れに上塗りでかなりつらい。
薬のせいもあり、かなりだるい。かなり辛い。
口の中は渇き切っている。朝食はおいしかった。
ワッフルおいしくって食べ過ぎちゃった。

雨、ひどく寒い。
ほんとに寒い。骨の髄から寒い。
北海岸、ケンジントン駅舎はパブができていた。

銀の森屋敷、せっかくなので中に入る。
Pamさんが変わらずにいてくださった。来場者に説明し、本にサインを書き、上品で素敵だ。
私のことを覚えている(Pamさんとお会いするのは三回目だったので)といってくださったのは
本当かわからないがまた夏にくることを約束。

フレンチリバー、変わらない穏やかさ。
ケープ・トライオン。雨で赤土がぬかるんでいる。
曇り空の下、灯りがともっているのを始めてみた。
(たぶん、始めて気がついたということだったんだと思います。)

昼食が消化しきれなくて、胃薬も飲んでいなくて、水も飲まないままで辛くなってくる。
結局、キンドレットに着いた時吐いてしまった。みじめな気分。
体調悪すぎ。せっかくの赤土の景色の良い所もあまり入ってこないでテンションがあがらない。

おっと、インディアンリバー教会にも行った。
2年前屋根を修理中だったのでみたかった。
木造のあったかさ、12使徒が尖塔に彫られている。
紅葉も美しいがとにかく寒い。北の国の寒さだ。半端ではない。

そんなわけで、7時台にレトルトのカレーとごはん、わかめスープを本を読みながら時間をかけて流しこんでいく。
寒さと乾燥にやられている。
お風呂でどうにかあったまって10時45分頃ベッドに入る。

キンドレット泊
2回目がさめながら、7時間睡眠。

写真は、この日行った銀の森屋敷からの眺め、モンゴメリさんも大好きだったそうです。


銀の森屋敷のなかの展示品。
モンゴメリさんゆかりの写真です。
ナイアガラの滝の写真は合成だそうです。



同じものですが・・・。



フレンチ・リバー



おだやかでした





サマーサイドの駅舎、モンゴメリさんも利用したそうです。
今は島に鉄道は走っていないので使われていません。




キンドレット・スピリットのスイートルーム
お庭に面しているので、翌朝はカナダ・ギ―スの鳴き声を聞きました。




先に載せている三日目の旅日記から間隔があいてしまいましたが、翌日以降は体調も戻ってきて幸せ感に満ちた楽しい時間を過ごしました。ほんとに心の底から楽しく幸せでした。
島での幸せ感を思い出すと涙がにじんできます。心の宝物です。ほしいものはなにもない。
ただ旅がしたい。また島に行きたい。

4日目の旅日記は長くなります。
プリンス地区を走り、モンゴメリさんの赴任地3か所も通りました。
また載せていきたいと思います。

震災ボランティア

2013年10月20日 13時30分29秒 | 東日本大震災
2011年8月20日から21日にかけて石巻市に行きました。
作業は側溝の泥だしのお手伝い。
体力に自信がなくて行こうかどうしようかずいぶん迷いましたが、思い切って行きました。
ボランティアバスを利用して、車中一泊の日程。
ほとんど眠れず、他の人に迷惑をかけることにならないようにと必死でした。
軽登山靴・排気弁付き防塵マスク・保冷バッグに食料・凍らせたペットボトルなど色々と準備しました。

21日の午後帰る頃に陽が出て暑くなってきましたが、作業中は幸いなことに雲が隠してくれていて心配したほどの暑さではありませんでした。
私は土のう袋の口を開けてもっていて、他の方がスコップで泥(ヘドロ)を袋に入れるのを手伝い、満杯になったら引きずって運ぶという作業をしました。ほんとにささやかですが、こういう作業の積み重ねなんだと思いました。

簡単には終わらないと思います。
私自身の大切な記録として、そこに行かなければわからなかった空気感・匂い・感覚を忘れたくない、忘れてはいけないという思いをこめて、ようやく携帯の写真を取り込みました。

なかなか直視するのはきついですが、よろしかったらご覧ください。

東北は20歳前後の頃よくユースホステルに泊まりながら一人旅をしていました。
東北新幹線に乗って仙台・盛岡には何度も行っており、岩手県の沿岸部に泊まったこともあります。
リアス式海岸の三陸鉄道にも乗りました。

もう少し先自分自身の心の中が落ち着いてきたらまた旅してみようと思っています。





ボランティア活動の拠点となっていた小学校の校庭で、その頃は被災された方々が生活して
いらっしゃいました。
この小学校の校舎の時計は、3時50分ぐらいで針が止ったままでした。