たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

急に寒くなった12月の夜に思う

2015年12月17日 23時30分16秒 | 祈り
このようなブログへの訪問、ありがとうございます。
人気記事を自分で読み返したりするのが好きだったりします。
12月だから、年末だから、もうすぐクリスマスだから忙しいということはなく私の日々は過ぎていきます。

 昨日は二回目の病院ボランティアでした。交通費いただいて実習に行かせていただいているようなものでありがたいことです。疲弊していて、仕事から一年半も離れてしまっている私がまたお金をいただく私になるにはまだまだ時間が必要です。なんか目がチカチカ、頭くらくらで集中力がまだちゃんとなくって自信がありません。一年余りの労働紛争は私をずたずたにしました。擦り切れてしまいました。そこから回復して行くのは容易ではありません。怒りと悔しさの声を社会に対して出していくこともまだ続いていきます。同時にまずは体を動かしていくこと、新しい環境になれていくことを少しずつやっていくしかないのだと思います。

昨日はデイケアを見学し、少しプログラムに参加もさせていただきました。担当のスタッフのケースワーカーさんは私の到着を待ってくださっていたようです。研修(ケースワーカー)として、利用者さんたちに紹介してくださいました。一人一人が大切な存在。細かく書くことは控えますが色々と考えさせられました。母と同じ疾患の方がほとんどだそうです。夜一人になってから母との関係が私の中でフラッシュバックするところがありました。母からせめられた時の辛さ、苦しさ、なぜ自分の家族なんだろうという答えのない問いかけを続けてきたことなど思い出されてしまいました。3時間足らずその場で過ごしただけですが、狭いスペースに人がひしめきあっていて、なんともいいようのないものが自分の中にこみ上げてきました。好きで疾患になっている人はいないだろうけれど、100人に一人か、60人に一人か羅漢してしまいます。

なぜこんな疾患があるのか。心を病むことの深さを母に教えられました。利用者さん一人一人がおしえてくれることきっとたくさんあるだろうと思います。ただまず自分の健康度を守っていくために巻き込まれていかないことが大切。やはりかなりきつい仕事です。どうしていきたいのか、ケースワーカーとしてやっていきたいのか、自分でもまだわかりません。わずかながらでも稼ぐ手段を見つけても行かなければなりませんが、できるだけ迷惑にならないようにもう少し続けてみようと思います。

 今日は地裁の裁判を始めて傍聴しました。話にきいていたとおり5分ぐらいで終わりでした。裁判長が原告側に対して、準備書面の内容をさらにつめていき証拠となるものを裁判所を通してさらに会社に求めていくことを語りかけていました。そして次回の日程の調整をして終わりました。被告席の3人はひとことも喋りませんでした。裁判長が何を語りかけていたのか、自分の経験値から察することができました。こうして原告側は根拠となるものを持っていないので会社に出させるほかありません。弱い立場の原告側がそれをそろえていかなければならないのは本当に大変なことです。会社が出さなかったら裁判所を拠り所として出させるほか手立てはありません。そのために法廷はわずか5分でも、弁護士と裁判所との書面のやりとりは連綿と続いています。いつ終わるのかわからないプロセスを続けていくのはかなりきついことです。争うというのは本当にエネルギーが必要で私は一年余りでボロボロになりました。ペースも裁判より早かったので、妥協せざるを得ませんでしたが一年余りでの終結は早い方だったのだとあらためてわかりました。裁判に進んでいたとしてもいたずらに時間だけかかって、実りはほとんどなかっただろうなという感じがしています。弱者にばかり負荷がかかる仕組み、なんとかなっていかないものでしょうか。なんだか様々に考えさせられます。

 ストレスをためながら働いていた頃の自分に立ち返ってみたいと思っていましたがまた時間がなくなったので明日追記します。夜更かしして早起きはしんどいのでいい加減にしないといけません。なんか少しでも次の見通しをもって今年を終えたいですがかなうでしょうか。もうつまらないところには近寄らないようにしながら次への道をみつけていきたいです。ヘンな天気が続いていて落ち着きませんがこれで終わりです。おやすみなさい。

また誤解されることを承知で追記します。会社で働くことが苦しくて苦しくてたまらず、ストレスをためこんでいる自分が惨めに思えてどうしようもなかった日々を思い出すと今もまだ辛くなります。

「2012年4月14日(土) 雨and寒い


アン・セミナーで3章を読み終えて帰ってきたところだ。一年前と比べるとけっこう原文を読めるようになってきている。最近はインターネットからダウンロードした朗読も聞いている。読めば読むほど、きけばきくほど奥が深く、アンへの心の旅は果てしない。こうしてもうすぐ○○才になろうというシングルのおばさんが、赤毛のアンに夢中になっているなんて人からみれば気持ち悪いんだろうな。でも、人がどう思うかなんてどうでもいい。大切なのは自分の感性だ。何が大切かだ。モノを書きたいという漠然とした思い。怒り、母のこと、妹のこと、大学を通信教育で卒業したこと、国家試験に受かったこと等、今はばらばらにみえるビーズをつなぎあわせられないだろうか。
 
組織の意味のわからない都合に振り回されている場合ではない。どうしたら組織に属さないで食っていけるのだろうか。今の職場環境は私の感性ではこれ以上無理だ。あり得ない。さっぱりついていけない。自分を生かしきれていない気がする。意味不明なことに徒に消耗するばかりでその先の展望はない。これからの時間でやりたいこと。本を書きたい、哲学を勉強したい、旅で出たい、自死遺族に少し関われたらいいかな。自分の経験値の中から発信していきたいし、なにかそうしていかなければならないような気がする。

誰かに求められているわけではないし、必要とされているわけではない。ただ自分で勝手にそう思い込んでいるだけだ。人はどこかの組織に属して生きているものだが、属さないでは生きていけないものだが、それにしても組織に働く力ってなんなのだろう。得体の知れない何か。
私が感じている気持ち悪さ、違和感を共有できる人があると少し違うのかな、という気もする。それにしても、それにしても、中井先生の『つながりの精神病理』に書かれていることがしみじみと実感できるこの頃だ。母と妹がおしえてくれたことを還元していく、発信していく。今ここで留まっている場合ではない。ここは自分の場所ではない。何ができるのか、何をすべきなのか。誰が何といおうと自分の感性を信じるしかない。おかしいものはおかしい。気持ち悪いものは悪いんだ、なにかがおかしい。日々いろんなことを感じる。考える。何がおかしいのか、ねじれているのか。民間レベルでがんばっている人たちがたくさんいるのもまた時日だ。でも、国としてどこに向かっていくのか。みんなどうやって生きていくのか。一人一人がちゃんと考えないでどうする。怒り、一人怒ってたってしようがないという人もいるが、怒りはおさまらない。このままでいいはずがない。”怒り”についてこれからも考えていこう。」