「12月の初め、大使館へ新しいパスポートの申請に行く。盗まれたパスポートはもう出てこないものと、諦めたのである。私の友人の夫人は、「かつてウィーンでカメラを亡くしたが、ホテルまで戻ってきた」と話をしていた。もちろん、いまはそういう時代ではない。クルトが言った。
「君のパスポートは国際マフィアに利用されているのではないか。以前、捕まった人の中に中国レストランの従業員がいた。東側からの人で、盗難が増えている。用心すべきだ。パスポートや現金はしっかり隠すべきだ。ここは昔のウィーンではない。日本でもない。フィリピンでも南米でも盗まれる。僕は一一度はフィリピンでお金、一度は南米でパスポートを盗まれて困った」。
数日後、国立図書館へ行く。昔の王宮の一部がそれである。本の閲覧を申し込むが、翌日ではないと出てこない。次の日にも行ったが、注文した本はパスポートがないので閲覧できず、借り出さないでコピーだけした。パスポートがないと、ユダヤ博物館、カジノへ行けない。ロシア語クラスの友人イーベル氏は、パスポートのない人は人間ではない、というハンガリーの諺を教えてくれたものである。」
(倉田稔『ウィーンの森の物語-中央の人々と生活』NHKブックス、1997年4月25日第一刷発行、138頁より)