訪問は2015年11月19日。真っ赤に境内全域が紅葉でする事で有名な豪徳寺の見ごろには早かったのが残念で、そのまま界隈を紅葉を求めて散歩しました。
19日の紅葉散歩コースは、小田急豪徳寺駅スタートー世田谷八幡神社ー豪徳寺ー世田谷城趾公園ー世田谷線上町駅そばの天祖神社ー世田谷代官屋敷&世田谷区立郷土資料館ー浄光寺ー実相院ー馬事公苑(昼食)ー東京農大のケヤキ並木ー桜の街路樹(紅葉は見ごろ過ぎ)1、2キロー小田急線千歳船橋駅ゴールというお散歩でした。
時系列に沿って順番に紹介したい所ですが、現在紅葉散歩の紹介を優先しています。理由は紅葉が綺麗なのは期間限定だから!
昨日はこの3連休で唯一の晴れの日だからと、宮ヶ瀬ダム紅葉散歩を楽しんでました。調度山々も綺麗に色づいていて、とても綺麗でした。そっちの記事も早いとこアップしたいのですが、『豪徳寺の紅葉』の記事でお知らせした豪徳寺の近くで見つけた紅葉の綺麗なお寺を先に記事にします。そうすれば、豪徳寺の紅葉を見に行く方に合わせて紅葉が楽しめるお手軽さがいいかと思いましてね。
では何はともあれ画像を紹介します。


訪問したのは11月19日です。上の2枚の画像は、参道のもの。まだ色づく前ですが、これはモミジなのでもうすぐとてもフォトジェニックになると思う。


同じく参道です。まだ緑のモミジです。だから分かりにくのですが、石像の背後には孟宗竹がありまして、やがて赤もしくは黄色に色づくハズのモミジといい対比の色になる模様。

こちらば参道の正面。私は北口から入ったので参道を見た時の気分の盛り上がりが薄かったのが残念です。浄光寺から馬事公苑に移動していて、一番行き易い道路に面していたのは北口だったんです。つーか、歩いていて実相院さんに始めて気付いたという…。



黄色く色づいたイチョウの木が数本ありました。黄色に誘われていくとそこは墓地でした。そそくさと退散です。



説明板発見:曹洞宗 鶴松山実相禅院
寺伝によれば、当寺の開山は天永琳達大和尚、開基は、吉良左兵衛佐氏朝とも子の頼久ともいう。本尊は薬師如来。
天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡に際し、世田谷城主の吉良氏朝は白を去り、下総国生実(現千葉市)に逃れた。
徳川家康が江戸入府後、氏朝は再び世田谷に帰ったが、世田谷城は廃城となり戻ることを許されず、この地に閑居し慶長8年(1603)示寂した。
「新編武蔵国風土記稿」には、「今境内ニ氏朝夫婦ノ碑アリ。氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士、慶長八年九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鶴松殿快窓寿慶大姉トアリ」と、記されているが、現在、この墓碑は所在不明である。氏朝の位牌のみ本堂に安置せらる。
慶安元年(1648)、家光より朱印地十石二斗二升を賜っている。」
世田谷城の殿が作ったお寺だったんですね。
19日の紅葉散歩コースは、小田急豪徳寺駅スタートー世田谷八幡神社ー豪徳寺ー世田谷城趾公園ー世田谷線上町駅そばの天祖神社ー世田谷代官屋敷&世田谷区立郷土資料館ー浄光寺ー実相院ー馬事公苑(昼食)ー東京農大のケヤキ並木ー桜の街路樹(紅葉は見ごろ過ぎ)1、2キロー小田急線千歳船橋駅ゴールというお散歩でした。
時系列に沿って順番に紹介したい所ですが、現在紅葉散歩の紹介を優先しています。理由は紅葉が綺麗なのは期間限定だから!
昨日はこの3連休で唯一の晴れの日だからと、宮ヶ瀬ダム紅葉散歩を楽しんでました。調度山々も綺麗に色づいていて、とても綺麗でした。そっちの記事も早いとこアップしたいのですが、『豪徳寺の紅葉』の記事でお知らせした豪徳寺の近くで見つけた紅葉の綺麗なお寺を先に記事にします。そうすれば、豪徳寺の紅葉を見に行く方に合わせて紅葉が楽しめるお手軽さがいいかと思いましてね。
では何はともあれ画像を紹介します。


訪問したのは11月19日です。上の2枚の画像は、参道のもの。まだ色づく前ですが、これはモミジなのでもうすぐとてもフォトジェニックになると思う。


同じく参道です。まだ緑のモミジです。だから分かりにくのですが、石像の背後には孟宗竹がありまして、やがて赤もしくは黄色に色づくハズのモミジといい対比の色になる模様。

こちらば参道の正面。私は北口から入ったので参道を見た時の気分の盛り上がりが薄かったのが残念です。浄光寺から馬事公苑に移動していて、一番行き易い道路に面していたのは北口だったんです。つーか、歩いていて実相院さんに始めて気付いたという…。



黄色く色づいたイチョウの木が数本ありました。黄色に誘われていくとそこは墓地でした。そそくさと退散です。



説明板発見:曹洞宗 鶴松山実相禅院
寺伝によれば、当寺の開山は天永琳達大和尚、開基は、吉良左兵衛佐氏朝とも子の頼久ともいう。本尊は薬師如来。
天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡に際し、世田谷城主の吉良氏朝は白を去り、下総国生実(現千葉市)に逃れた。
徳川家康が江戸入府後、氏朝は再び世田谷に帰ったが、世田谷城は廃城となり戻ることを許されず、この地に閑居し慶長8年(1603)示寂した。
「新編武蔵国風土記稿」には、「今境内ニ氏朝夫婦ノ碑アリ。氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士、慶長八年九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鶴松殿快窓寿慶大姉トアリ」と、記されているが、現在、この墓碑は所在不明である。氏朝の位牌のみ本堂に安置せらる。
慶安元年(1648)、家光より朱印地十石二斗二升を賜っている。」
世田谷城の殿が作ったお寺だったんですね。