あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

寛永寺、徳川慶喜謹慎の葵の間

2018年05月11日 05時36分10秒 | 歴史散歩
根本中堂で説明を聞いた後、葵の間に移動。
狭いです。正確ではないけど、十畳二間ほどの小さな建物が慶喜公の謹慎部屋です。トップ画像の左手が寛永寺根本中堂。中央が移動通路の橋で右手に葵の間があります。

こちらが外観。
パンフレットによりますと、葵の間はもともとは東叡山寛永寺に36あった子院の一つ「大慈院」の一室でした。大慈院は五代将軍徳川綱吉が寛永寺に埋葬された際に、綱吉公のために新たに建立された寺院です。そのため歴代の住職は、主に綱吉公の供養を行ってきました。
ところが慶応4年(明治元年・1868)2月12日より、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜公が2ケ月にわたって謹慎されたことで、「葵の間」は歴史の舞台になりました
説明のお坊さん登場。先ほど根本中堂で説明してくださった同じ方です。
さて、ここで昨日紹介した安政3年当時の寛永寺の山内図をごらんください。

山内図に上下2つに分ける折れ目がありますね。折れ目のすぐ下、左右の中央に根本中堂があります。現在の寛永寺の根本中堂と所在地が違います。
かつての根本中堂は、現在の国立博物館前の道路を挟んだところにある大噴水にありました。それが上野戦争で寛永寺は丸焼けになり、上の山内図中央上辺りの大慈院に現在寛永寺の根本中堂があります。現在の根本中堂の建物は、川越の喜多院から明治に入って移築されました。ということで、葵の間も本来は大慈院のもう少し奥にあったそうです。それを根本中堂ができたあと、前に移築したそうです。

こちらが現在の葵の間。撮影禁止につきパンフレットより転載しました。
この部屋で慶喜公は1868年2月12日より4月11日まで2ケ月の間蟄居生活を送っていました。上の写真の奥に写ってる障子をよく見ると、桟の骨と障子の枠が不自然ですね。慶喜公がこの部屋で謹慎を送った時はもう一回り大きかったけど、現在の場所に移築する時に今の一回り小さくなったんだって。
ちなみに、障子を開けると廊下をぐるりと回してあって、開けて左手にトイレがありました。障子の外には小さな石庭がありましたが、この庭を慶喜公が見てたかどうかはわかりません。どの程度の再現率やら。
ちなみに、上の葵の間の中央奥が慶喜公が謹慎していた場所。紫の座布団を置いてある場所です。
あと、説明してくださったお坊さんが障子の上の掲げてある手紙について紹介してくださいました。
書いたのは寛永寺最後の輪王寺宮です。寛永寺は代々皇族が住職になることで格式高い寺院になりました。
最後の輪王寺宮に就任したのは伏見宮邦家親王の第9王子、北白川宮能久親王です。わかりやすくかくと明治天皇の義理のおじさんです。
安政5年(1858)に得度して公現(こうげん)と称すようになり、慶応3年(1867)5月に寛永寺の住職に就任しました。
もう大概ヤバイ感じ。日本史が激動する時代です。え〜と?5月頭のNHKの大河ドラマ「西郷どん」の放送内容もちょうど安政5年のこと。あれだ。殿の島津斉彬が死んだのが7月27日で、西郷さんと月照さんが入水自殺を図ったのが11月16日ですからヤバさがほんのりわかりますよね?
ちなみに大政奉還が慶応3年(1867)10月14日。翌年慶応4年(1868)1月3日に戊辰戦争が始まり、鳥羽伏見の戦い。2月に徳川慶喜がここ寛永寺で謹慎生活に入る。で、公現さんこと寛永寺輪王寺宮は執りなしを依頼され新政府に慶喜の助命と東征(江戸攻め)中止を嘆願。その後上野戦争(5月15日)で彰義隊に祭り上げられ巻き込まれ敗北しする。で、榎本武揚率いる幕府の海軍の船で仙台へ。
そして皇族具体的には公現のお兄さんに「帰ってこい」と言われて「帰ります」と寛永寺あてに書いた手紙がさんに掲げてあるこの手紙です。
つまりだね。4月に寛永寺の蟄居生活を終えて水戸へ移動した慶喜公はこの手紙見てないね。ってか、上野戦争が起きた時にはすでに慶喜公は寛永寺にはいなかったという〜。彰義隊哀れだのう。そもそも彰義隊は慶喜の警護隊だったのにねえ。でも上野戦争がなければ寛永寺の大半が焼失することもなかったんだろうなあ〜。
彰義隊、余計なことをっ!とか思ってたら。説明のお坊さんが「上野戦争では焼けてません」と。
あれ?そうなの??と混乱していたら、お坊さんが「後で、管理が大変なので焼き払われた」と。つまり犯人は短慮を起こしたアホです。どこのアホだったのか!そいつこそ許せんのじゃ!
しかし考えると、慶喜公は江戸城が無血開城されるのを見届けて寛永寺を去ってますね。慶喜もまた歴史に翻弄された人ですね。慶喜公が寛永寺で蟄居生活を送っていた時は32歳でした。
ちなみに、上の写真では分かり難いのですが、この手紙は手紙の作法としてはおかしいんだって。後ろの方に「現」と自分の名前をでかでかと書いてあります。普通は自分の名前は最後に書くのですが、そこは皇族だから。上から文章になってるのも仕方ない。

あっちこっちに話が飛び飛びですが、慶喜はそもそも水戸藩9代藩主徳川斉昭らの7男として天保8年(1837)に生まれました。
弘化4年(1847)8月、老中阿部正弘から水戸藩に御三卿の一橋家の世嗣ぎとしたいと12代将軍徳川家慶の意向が伝えられ一橋家を相続。
で、14代将軍家世嗣ぎ問題が起こるのです。
簡略化するとこう。
老中阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬(一橋派)VS紀州藩主徳川慶福、彦根藩主井伊直弼、家定の生母本寿院(南紀派)
で、桜田門外の変が安政7年(1860)3月3日に起ります。襲撃方に水戸藩の人が多かったのはこのため。因縁だよね〜。

慶喜公蟄居の間の隣に似た大きさの部屋があり、そこに画像の慶喜公着用の陣羽織が展示されていました。撮影禁止だったので、いただいたパンフレットからの転載です。幕末なので、慶喜公の晩年の白黒写真がありました。
説明のお坊さんの話は面白く、この時書き留めたメモによりますと、現在は寛永寺の根本中堂があるこの場所は、そもそも5代将軍綱吉が寛永寺に埋葬された時に作られたお寺なので、綱吉の命日にはかつては寛永寺と30あった子院の住職が法要をおこなっていたけども、現在子院の数は19になり寛永寺を合わせ20人で法要をやっている。
あとは、記事を書こうとwikiの北白川宮能久親王の記事を読み進めると、仙台から京都へ戻り蟄居生活を送り、明治3年(1870)に還俗。還俗した2ヶ月後にはプロイセン(ドイツ)に留学。で、ドイツ貴族の未亡人と婚約。で、明治政府に帰国させられる。が、岩倉具視の説得で婚約を破棄。またまた京都で謹慎生活、でもってなぜか陸軍に入る。明治26年(1893)台湾に近衛師団長として出征。が、マラリアにかかり死亡。
とまあ、なかなかの破天荒人生でした。なんか、思い出した。確か北白川能久親王の騎馬像が皇居北の丸の旧近衛司館の建物の前にあった気がする〜。
でだ。説明を聞いたのち、順番に移動する。最後はメインイベント、将軍家のお墓に特別参拝するのです。
うっ!!
根本中堂に引き続き葵の間で正座したのですが、右足が〜。痛い〜〜〜っ。最近ぼやきっぱなしですが、右足の筋肉が痛いんです。筋肉が痛すぎてしびれもしないんだよね〜。ビリビリが収まるのを待って靴を脱いだ根本中堂のへ戻ります。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 寛永寺特別参拝・根本中堂 | トップ | 徳川歴代将軍御霊廟特別参拝 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史散歩」カテゴリの最新記事