あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

箱根関所見学前編

2019年08月22日 05時27分52秒 | 歴史散歩
2019/8/3。朝一で大磯でアオバト飛来を見物。東海道線で小田原へ移動。小田急の切符売り場で箱根旧街道1号線切符(1750円)を購入。箱根登山鉄道で箱根湯本駅へ。ラッキーにも2番のりばにバスがいる!9時35分発に間に合うかも?と急いでのりばに駆けつけたものの、あれ?バス停に行列がある!?
すぐわかった〜。乗車出来るのは、座席に着席出来る人数分だけ〜。ということで、行列の最後尾に並んで9時45分発のバスに乗車しました。なぜに立ち客を乗せなかったかといえば、路線バスなので道々乗車してくる客がいるからです。箱根湯元駅から元箱根を結ぶバスはいつだって満員なのだ。箱根のお山が噴火しそうだから立ち入り制限してるから観光客が減ってるかも?と思うのは間違いだったよ。
そんなこんなで箱根神社あたりまで満員でした。ちなみに、トップ画像は道中バスの窓から精進池越しに駒ケ岳を見上げて撮影。この辺りは石仏が点在してるゾーンなんだよね。
10時20分、箱根関所跡バス停に到着。
1号線を渡ったところで撮影。ちなみに、左奥の建物はトイレです。
券売所まで食べ物屋さんや土産屋が並んでます。

箱根寄木細工の店もある。店の前に顔出し看板があった。入場料500円のところ、旧街道1号線切符があるので400円で入場。
箱根関所は昔訪問したことありますが、『ブラタモリ』で放映されたのを見て、復元したんや〜とワクワクで訪問です。
説明板発見:箱根関所 国指定史跡
箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、元和5年(1619)のことと伝えられています。箱根関所は、江戸幕府が江戸防衛のために、全国に設置した53ケ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられていたようです。
この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっています。
一般的に関所では、「入り鉄砲に出女」を取り調べたと言われていますが、この箱根席ょでは、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取り調べを行っていました。
江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所ですが、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。
箱根関所の跡地は、大正11年(1869)、「箱根関所」として国の史跡に指定されました。昭和40年(1965)には番所の建物が建設され、その後、昭和58年(1983)、江川文庫(静岡県伊豆の国市)から、慶応元年(1865)に完成した箱根関所の大規模修理についての克明な資料『相州箱根御関所御修復出来形帳』が発見され、資料の解析や跡地の発掘調査を経て、平成19年(2007)春、国土交通省、文化庁、神奈川県の補助を受けた復元整備を終え、箱根の関所は往時の姿によみがえりました」
京口御門より関所へ。門をくぐり画像左奥のおじさんに入場券を見せる。京口門手前に広場がある。これは京口千人溜(旅人たちが関所改めを待つ待機所だった広場)です。券売所のすぐ先が大きな広場でして、入場に切符が必要だと気づかなかった観光客が切符を持たずにやってきた場合のチェックなのかも?
です。説明板発見:箱根関所の厩
江戸時代、箱根関所に建てられていた厩には5頭の馬をつなぐことができるようになっていました。
しかし、実際には、2頭しかおらず、空いた場所には、関所の廻りに廻らした木柵の予備や外掃除の道具。火を消す道具などが納められていました。
厩は、納屋と兼用だったようです。」
大番所・上番休息所
関所の建物はすべて黒い。説明版発見:渋墨
関所の建物は渋墨で黒く塗っています。
この渋墨とは、柿渋と松を焼いた「すす」を混ぜたもので防腐効果とあわせ建物の化粧として用いたものです。
この黒い部分に触れますと黒い「すす」が付着しますのでご注意ください。
*特に濡れていますと付着しやすいので注意してください」
へえ〜。そこまで忠実に再現してあるのか〜。
では大番所を見学。
建物前に人見女(ひとみおんな)人形が再現してある。
説明板には「定番人の母親などで、小田原藩から雇われ、女性の旅人が箱根関所を通過する際、髪を解いたりして、取り調べをしていました」
出女のチェックみたいです。
面番所(めんばんしょ):大番所の建物の中で、面番所と呼ばれる部屋です。「次の間」「番士詰所」などとも呼ばれ、関所役人のうち番士や定番人などが詰めていました。」
隣へ。
上の間(かみのま):大番所の建物の中で、上の間と呼ばれる部屋です。この部屋は、箱根関所の中でも最も格が高く、通常は伴頭、横目付けが座り。大名や家老などの接待の間としても使われました。
また、鉄砲や弓も置かれ、旅人を威嚇していました。」
向かい合わせの足軽番所へ。
右手に建物に入れそうなところが。
台所だった。かまどでご飯を炊いている。
台所に置いてあるのは、これ、味噌樽かな?壁に草鞋と菅笠とミノがかけてある。
台所に向かい合うのは休息所。足軽が昼間控えてたり、夜は寝床としていた場所です。
台所を抜けて建物の反対側へ。
井戸があった。説明板には復活した井戸
平成13年度遺構調査で、この場所に井戸の木枠が発掘されました。
木枠を復元した所、平成19年に井戸が復活。その後、水が涸れることなく一定水位を保っています。箱根関所スタップの間では「復活の井戸」と呼んでいます。」
遠見番所への石段。石は江戸時代から使用されていたものとか。
おお!絶景〜!!箱根関所の全景と芦ノ湖が見える。訪問は2019年8月3日ですが、あちこちでヤマユリが咲いてました。NHKの『ブラタモリ』で見たこの景色が見たかったんや〜。(続く)

2019/8/25に上の画像を追加貼り付けしました。
関所に家紋があるの??
調べた。箱根関所は小田原藩の管轄なんです。で、紋は小田原藩主大久保家の家紋でした。
あれ?小田原藩って、春日局の稲葉家じゃないの?と思ったかた。wikiによりますと、
大久保家は1590(天正18)年ー1614年(慶長19)小田原藩の藩主。1614年に改易。
1619(元和5)年阿部家が小田原藩主(阿部正勝の長男)。5年で転封。
1632(寛永9)年稲葉正勝が入封。稲葉正勝は春日局の子。1685年に転封。
1686(貞享3)年に、下総佐倉藩主・大久保家が入封。初代大久保家藩主から5代目にあたり、幕末・明治初頭まで大久保家が藩主。
というふうに藩主が変わってます。ので、大久保家の家紋で正解なのだ。
2019/9/5画像追加。上の画像は小田原城の広場です。注目していただきたいのは地面に置かれた北条のミツウロコと大久保家の家紋です。関所の家紋と同じでしょ?

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アオバト初見物 | トップ | 箱根関所後編 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史散歩」カテゴリの最新記事