あられの日記

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掩体壕1号・2号

2019年05月04日 06時18分50秒 | 歴史散歩
2019年4月6日の散歩です。近藤勇のお墓と生家跡を見学後、調布飛行場方面へ。目的は掩体壕です。
トップ画像が正面から見た掩体壕。何かよくわからないと思うので、横から撮影する。
説明板発見:掩体壕大沢2号
調布飛行場は、昭和13年(1938)に、東京府北多摩郡調布町・三鷹村・多摩村(現在の府中市)にまたがる約50万坪の土地に計画され、畑・家屋・寺・墓地などを半強制的に買収して造られました。工事は、昭和14年(1939)に東京府と逓信省航空局・陸軍省の予算で着工しました。基礎工事には府中刑務所の受刑者や中学生が動員されました。16年4月には、南北方向に1000メートルと東西方向に700メートルの2本の滑走路と格納庫が完成しました。初め、呼び国際飛行場と航空試験飛行場・陸軍訓練飛行場として使用するはずでしたが、陸軍が全面的に利用することになり、首都防衛のため、戦闘機『飛燕』を中心とした陸軍飛行部隊が配置されました。太平洋戦争の戦況が悪化する昭和20年(1945)頃には、日本本土空襲のため飛来する米軍のB29爆撃機や艦載機の空襲で、飛行場近くの高射砲陣地が爆撃され死傷者が出ました。またこのころには、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地にもなりました。戦後、飛行場の西側の一部には「進駐軍』(アメリカ占領軍)が消費する野菜を栽培する(水耕農場)が建設されました。
現在では、伊豆大島・新島・神津島への空の玄関口として小型機が運行されています。調布府工場の周辺には、戦時中に利用していた門柱・掩体壕・高射砲台座などが、市民団体の努力で残されています。」
興味深い地図があった。
戦時中と現在の地図が二重写しになっている。ちなみに、地図中央下の赤い三角が現在地です。
掩体壕のそばにあった物見櫓?かな?たぶん足元の石は当時のものだと思う。疲れてて登らなかったけど、登れば滑走路が一望出来るハズ。
実は残存する掩体壕は2個あった。
裏手はフェンスがあるので向こう側に行ってみる。
ふおおおおお〜〜!!飛燕が描かれてる!これやった人よく分かってる。
分かってる人は他にもいたようだ。
掩体壕に格納された飛燕戦闘機のミニチュアがあった。
こんな風に掩体壕一つにつき1機収められていたようだ。
残存する掩体壕の断面を確認。なんか質の悪いコンクリートに見えるんだけども。
想像を掻き立てられる絵だよな〜。
2つめの掩体壕にも説明板がある。
掩体壕大沢1号:掩体壕とは、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、目的は「本土決戦」に備えて、残り少なく貴重な飛行機を温存するためでした。
太平洋戦争における戦況が悪化する昭和19年(1944)頃から、コンクリート製掩体壕約30基(有蓋)と土塁で造ったコの字型の掩体壕(無蓋)約30基の約60基が短期間に造られました。建設は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生も大勢動員されました。
掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で運びました。調布飛行場周辺には、武蔵野の森公園内の2基と府中市に2基の掩体壕が残っています。武蔵野の森公園の掩体壕は戦争の記憶を残す証拠とし、「平和の語り部」として保存しています。」
何気に昔の飛行機が好きなダンナに聞いて見る。「飛燕て知ってる?」と。無茶苦茶専門的なことを語り出した。イカン!押してはいけないボタンだった模様。
説明板にも軽く説明がなされていた。
掩体壕に格納されていた戦闘機「飛燕」
「飛燕」は川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術をもとに、国産化した液冷エンジンを搭載した戦闘機です。
エンジン出力は1100馬力で、最高時速590km/hで飛行でき、高空能力に優れ昭和18年(1943)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。調布飛行場には、首都防衛のため「飛行第244戦隊」に「飛燕」が配備されました。昭和20年(1945)、B29爆撃機による本土空襲が激しくなるなか果敢に迎撃しましたが、物量に勝る圧倒的なB29爆撃機の攻撃で戦死者が出て、あまり戦果を挙げることができませんでした。最後は「体当たり」戦術で抵抗しました。戦況がますます悪化するなか、「本土決戦」のため貴重な飛行機を温存するため「掩体壕」に格納されるようになりました。
また、鹿児島県知覧町の「特攻平和記念館」には、当時の飛燕が保存されています。」とある。当時の掩体壕の前で、飛燕の絵が描かれたものを見ながら説明文を読むと、WIKIで読むのとは違った感慨がありますね。
時刻は14時35分。この後だけども。当初は国際基督教大学の正門前の桜並木を見物するか、もしくは国立天文台を見物するか?状況次第だと思い計画してたのですが、野川公園の出口を間違えプラス1kmほど余計に歩いてまして、だいぶん足にきてるんだ。国際基督教大学は諦めて、国立天文台へ行くとしよう。
あ。また野川に出た。やはり綺麗な桜が視界の奥(下流)まで続いてる。こんなに綺麗なのに、散策してる人が少ないのが好印象。来年は野川を追いかけるんだ〜。
時刻は14時41分、この後は登りです。

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