東京カテドラルから西へ。椿山荘側の道路沿いに講談社野間記念館がある。
非常に興味あるのですが、訪問した6月5日は、休館日でした。野間記念館は月曜・火曜が休館日。初代講談社社長が収集した作品の野間コレクションが公開されています。いつか訪問したいな。
そして野間記念館の敷地にそって南下…。
って何このむちゃくちゃな急坂っ!!あり得んわっ!!
そんな急坂の途中に、永青文庫があります。それがトップ画像。
説明文発見:永青文庫のある地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡です。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、新江戸川公園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。
永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家25代の間に収集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が収集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以て昭和25年に設立された。
昭和47年に登録博物館となり一般に展示公開されている。
永青文庫は火曜日開館しています。入るかどうか迷ったのですが…。パスしちゃいました。
ちなみに、永青文庫に隣接するのは、和敬塾です。和敬塾は男子大学生の学生寮なのですが、昭和11年(1936)に建てられた本館は、旧細川侯爵邸でした。原則、非公開なので立ち寄れませんでした。(月に1・2回程度、ガイド付きで一般公開をしています。<見学料1050円>)。
そしてまたまた急坂を下る。
関口芭蕉庵が壁の向こうにあります。
ここに入館するつもりだったのに…。ま~さ~か~の!!火曜日休館でした!マジかぁ~。
関口芭蕉庵は江戸時代を代表する松尾芭蕉(1644-1694)が、二度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んだ。
当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場が水番屋に住んだといわれる。
後に芭蕉を慕う人びとにより「龍隠庵」という家を建てたが、これが現在の芭蕉庵。その後焼失し、現在のものは第二次大戦後の建築。ちなみに休園日:月曜・火曜。年末年始。 入園料:無料
ちっ!予定が狂っちゃったぜ~。
がっくりと肩を落としてたら、向かいに小さな神社がありました。
水神社です。
小さな神社ですが、おそらくこれは神田上水に関連ある神社かな?
何が驚いたって、坂の途中に社があったから坂から立ち寄ったのですが、視界の向こうに鳥居の先が見えたのですが…。何この視界って!!どんだけ急な坂なんじゃっ!!
呆れつつ坂を降りきると…。坂に名前がついていた。その名も胸突坂
何その名前っ!!あり得んわっ!!
説明板発見:目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
坂が険しく、自分の胸を突くようにしなければ上がれないことから、江戸の人が急坂によくつけた名前。
ぬかるんだ雨の日や凍り付いた冬の日に上り下りした往時の人びとの難儀した姿がしのばれる。(文京区教育委員会)
田中光顕の名前に覚えが…。もしかして、小田原の文学館の建物がソレ??
龍馬暗殺現場に駆けつけた?(2011年11月8日)の記事 こちらの記事で小田原市文学館の建物の画像を確認出来ます。また。隣接する和館は、現在北原白秋の記念館として使用されています。
う~む。さて本日最後の訪問地は新江戸川公園です。
幕末・明治(日本史) ブログランキングへ
まだまだ暑いですねえ。私、最近、極力氷入りで飲料を飲まないようにしてます。暑いからと調子に乗って水分補給をし過ぎてるのか、お腹を壊しがち。これはいかん!と、熱い飲み物をちびちび飲んでます。もう、腹を壊したくないんじゃ。皆さんも冷たい飲み物一気飲みはイカンよ~。
非常に興味あるのですが、訪問した6月5日は、休館日でした。野間記念館は月曜・火曜が休館日。初代講談社社長が収集した作品の野間コレクションが公開されています。いつか訪問したいな。
そして野間記念館の敷地にそって南下…。
って何このむちゃくちゃな急坂っ!!あり得んわっ!!
そんな急坂の途中に、永青文庫があります。それがトップ画像。
説明文発見:永青文庫のある地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡です。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、新江戸川公園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。
永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家25代の間に収集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が収集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以て昭和25年に設立された。
昭和47年に登録博物館となり一般に展示公開されている。
永青文庫は火曜日開館しています。入るかどうか迷ったのですが…。パスしちゃいました。
ちなみに、永青文庫に隣接するのは、和敬塾です。和敬塾は男子大学生の学生寮なのですが、昭和11年(1936)に建てられた本館は、旧細川侯爵邸でした。原則、非公開なので立ち寄れませんでした。(月に1・2回程度、ガイド付きで一般公開をしています。<見学料1050円>)。
そしてまたまた急坂を下る。
関口芭蕉庵が壁の向こうにあります。
ここに入館するつもりだったのに…。ま~さ~か~の!!火曜日休館でした!マジかぁ~。
関口芭蕉庵は江戸時代を代表する松尾芭蕉(1644-1694)が、二度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んだ。
当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場が水番屋に住んだといわれる。
後に芭蕉を慕う人びとにより「龍隠庵」という家を建てたが、これが現在の芭蕉庵。その後焼失し、現在のものは第二次大戦後の建築。ちなみに休園日:月曜・火曜。年末年始。 入園料:無料
ちっ!予定が狂っちゃったぜ~。
がっくりと肩を落としてたら、向かいに小さな神社がありました。
水神社です。
小さな神社ですが、おそらくこれは神田上水に関連ある神社かな?
何が驚いたって、坂の途中に社があったから坂から立ち寄ったのですが、視界の向こうに鳥居の先が見えたのですが…。何この視界って!!どんだけ急な坂なんじゃっ!!
呆れつつ坂を降りきると…。坂に名前がついていた。その名も胸突坂
何その名前っ!!あり得んわっ!!
説明板発見:目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
坂が険しく、自分の胸を突くようにしなければ上がれないことから、江戸の人が急坂によくつけた名前。
ぬかるんだ雨の日や凍り付いた冬の日に上り下りした往時の人びとの難儀した姿がしのばれる。(文京区教育委員会)
田中光顕の名前に覚えが…。もしかして、小田原の文学館の建物がソレ??
龍馬暗殺現場に駆けつけた?(2011年11月8日)の記事 こちらの記事で小田原市文学館の建物の画像を確認出来ます。また。隣接する和館は、現在北原白秋の記念館として使用されています。
う~む。さて本日最後の訪問地は新江戸川公園です。
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まだまだ暑いですねえ。私、最近、極力氷入りで飲料を飲まないようにしてます。暑いからと調子に乗って水分補給をし過ぎてるのか、お腹を壊しがち。これはいかん!と、熱い飲み物をちびちび飲んでます。もう、腹を壊したくないんじゃ。皆さんも冷たい飲み物一気飲みはイカンよ~。
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