2018年4月21日、寛永寺の徳川将軍家御霊廟特別参拝の後、谷中霊園にある徳川慶喜のお墓に参拝した。
実は徳川慶喜のお墓については既出記事で紹介済みです。
15代将軍 徳川慶喜のお墓 谷中散歩その3(2017年11月3日)の記事
なので、新しく記事立てする必要ないかな?と思いましたが、周りのお墓と形が違う理由を、寛永寺特別参拝の葵の間(徳川慶喜が2ケ月蟄居生活を送った部屋)で説明のお坊さんが語っていたので紹介します。
武蔵野陵って?(2012年1月26日)の記事 この記事に大正天皇のお墓・多摩陵と大正天皇の奥さん。貞明皇后の墓・多摩東陵、昭和天皇、昭和天皇のお墓武蔵野陵、奥さんの香淳皇后のお墓武蔵野東陵の画像があります。
まず上の「武蔵野陵って?」の記事に掲載してある天皇陛下のお墓の形をご覧ください。そののちにトップ画像が徳川慶喜のお墓を見比べてください。トップ画像の左が慶喜、右が奥さんの美賀子さん。
「サイズは間口3、6メートル。奥行き4、9メートル。切石土留を巡らせた土壇の中央奥に径1、7メートル、高さ0、72メートルの玉石畳の基壇を築き、その上には葺石円墳状をなしている」と説明板に書いてある。
で、墓の形です。つまりだね。徳川慶喜は天皇陛下と同じ神道のお墓なのです。慶喜が生前この場所にこの形で墓を造ったんだって。
寛永寺は天台宗のお寺なんですが、キリスト教徒の外国人のお墓がお寺の墓地にあったりするのでアリなのか?まあ旧寛永寺の墓地に徳川慶喜がお墓を作りたいと希望して寛永寺が許可したものの、神道の形の墓ができて寛永寺はたまげたみたいですが。
ちなみに、なぜに徳川慶喜のお墓が寛永寺の徳川将軍家の墓所にないのか?といえば、明治になり慶喜はもう徳川宗家でないので資格がないということらしい。まあ、無理やりですよね〜。明治維新であり新政府だから旧幕府の宗主だった徳川慶喜に嫌がらせですよね〜。まあこれは私見ですが。そんなことは公には認められないだろうし。
ちなみに「神道 墓の形」で検索すると、単に横に長い長方体の墓石がヒットします。現在の神道の墓の形はこれな模様。
さて時刻は早くも16時10分です。帰らなくっちゃ!迷いたくないので分かりやすい出口の管理事務所に向かう。
谷中霊園を後にする前に最後のおまけでダンナにこのお墓を紹介。
高橋お伝の墓
わかりやすくいうと、打ち首された最後の罪人です。説明板によりますと、「嘉永3年7月(1850)上野国利根郡下牧村に生まれる。本名高橋でん。
明治9年8月(1876)借金を断れたため古物商の後藤吉藏を殺害し、金品を奪う。
明治12年1月31日(1879)市ヶ谷監獄にて処刑される。享年29歳。
遺体は小塚原回向院に葬られた。
お伝の死後、仮名垣魯文による戯作『高橋阿伝夜刃譚」(たかはしおでんやしゃものがたり)が発表される。
明治14年3回忌に仮名垣魯文の世話で谷中霊園に「お伝の墓」が建立される。
墓石には辞世の句
しばらくも望みなき世にあらんより 渡し急げや三途の河守」と刻まれている。」
調べたんだけどね。四谷怪談のお岩さんのモデルは健気な女性で人もうらやむいい夫婦でした。なのに作られたお話は怪談ですよ。ひどいですね。
で、お伝さんですが、まず結婚した最初のダンナがらい病を発病し苦労して厚く看病した。その後恋仲になった男が遊び人で、まあ借金をこしらえた訳。で、ダンナの借金の相談に行った先が古物商の後藤吉蔵。「愛人になるなら金を貸す」と言われ、まあ寝ちゃう訳だ。ところが、ことが終わると吉蔵は「金?貸せないねえ」ときたもんだ。で、怒ったお伝さんはつい吉蔵を殺してしまうと。短絡的だけどもまあありがちな展開ですね。これさ、江戸時代なら情状酌量で遠島とかで済んだんじゃないかな?哀れな。
ちなみに、谷中霊園は形だけ。お伝さんのお墓は小塚原回向院にあるので。
さて、時刻は午後16時19分。地下鉄千代田線千駄ヶ谷駅を目指そう。
実は徳川慶喜のお墓については既出記事で紹介済みです。
15代将軍 徳川慶喜のお墓 谷中散歩その3(2017年11月3日)の記事
なので、新しく記事立てする必要ないかな?と思いましたが、周りのお墓と形が違う理由を、寛永寺特別参拝の葵の間(徳川慶喜が2ケ月蟄居生活を送った部屋)で説明のお坊さんが語っていたので紹介します。
武蔵野陵って?(2012年1月26日)の記事 この記事に大正天皇のお墓・多摩陵と大正天皇の奥さん。貞明皇后の墓・多摩東陵、昭和天皇、昭和天皇のお墓武蔵野陵、奥さんの香淳皇后のお墓武蔵野東陵の画像があります。
まず上の「武蔵野陵って?」の記事に掲載してある天皇陛下のお墓の形をご覧ください。そののちにトップ画像が徳川慶喜のお墓を見比べてください。トップ画像の左が慶喜、右が奥さんの美賀子さん。
「サイズは間口3、6メートル。奥行き4、9メートル。切石土留を巡らせた土壇の中央奥に径1、7メートル、高さ0、72メートルの玉石畳の基壇を築き、その上には葺石円墳状をなしている」と説明板に書いてある。
で、墓の形です。つまりだね。徳川慶喜は天皇陛下と同じ神道のお墓なのです。慶喜が生前この場所にこの形で墓を造ったんだって。
寛永寺は天台宗のお寺なんですが、キリスト教徒の外国人のお墓がお寺の墓地にあったりするのでアリなのか?まあ旧寛永寺の墓地に徳川慶喜がお墓を作りたいと希望して寛永寺が許可したものの、神道の形の墓ができて寛永寺はたまげたみたいですが。
ちなみに、なぜに徳川慶喜のお墓が寛永寺の徳川将軍家の墓所にないのか?といえば、明治になり慶喜はもう徳川宗家でないので資格がないということらしい。まあ、無理やりですよね〜。明治維新であり新政府だから旧幕府の宗主だった徳川慶喜に嫌がらせですよね〜。まあこれは私見ですが。そんなことは公には認められないだろうし。
ちなみに「神道 墓の形」で検索すると、単に横に長い長方体の墓石がヒットします。現在の神道の墓の形はこれな模様。
さて時刻は早くも16時10分です。帰らなくっちゃ!迷いたくないので分かりやすい出口の管理事務所に向かう。
谷中霊園を後にする前に最後のおまけでダンナにこのお墓を紹介。
高橋お伝の墓
わかりやすくいうと、打ち首された最後の罪人です。説明板によりますと、「嘉永3年7月(1850)上野国利根郡下牧村に生まれる。本名高橋でん。
明治9年8月(1876)借金を断れたため古物商の後藤吉藏を殺害し、金品を奪う。
明治12年1月31日(1879)市ヶ谷監獄にて処刑される。享年29歳。
遺体は小塚原回向院に葬られた。
お伝の死後、仮名垣魯文による戯作『高橋阿伝夜刃譚」(たかはしおでんやしゃものがたり)が発表される。
明治14年3回忌に仮名垣魯文の世話で谷中霊園に「お伝の墓」が建立される。
墓石には辞世の句
しばらくも望みなき世にあらんより 渡し急げや三途の河守」と刻まれている。」
調べたんだけどね。四谷怪談のお岩さんのモデルは健気な女性で人もうらやむいい夫婦でした。なのに作られたお話は怪談ですよ。ひどいですね。
で、お伝さんですが、まず結婚した最初のダンナがらい病を発病し苦労して厚く看病した。その後恋仲になった男が遊び人で、まあ借金をこしらえた訳。で、ダンナの借金の相談に行った先が古物商の後藤吉蔵。「愛人になるなら金を貸す」と言われ、まあ寝ちゃう訳だ。ところが、ことが終わると吉蔵は「金?貸せないねえ」ときたもんだ。で、怒ったお伝さんはつい吉蔵を殺してしまうと。短絡的だけどもまあありがちな展開ですね。これさ、江戸時代なら情状酌量で遠島とかで済んだんじゃないかな?哀れな。
ちなみに、谷中霊園は形だけ。お伝さんのお墓は小塚原回向院にあるので。
さて、時刻は午後16時19分。地下鉄千代田線千駄ヶ谷駅を目指そう。
間もなく、エゼキエル書38章に書かれている通り、ロシア・トルコ・イランがイスラエルを攻撃します。そして、マタイの福音書24章に書かれている通り、世界中からクリスチャンが消えます。その前に、キリストに悔い改めてください。