あられの日記

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新撰組・近藤勇の墓

2019年05月02日 05時01分53秒 | 墓所巡り
2019年4月6日のさんぽ。青梅駅8時56分着→しだれ桜の梅岩寺→青梅街道のレトロ建築→金剛寺→釜の淵公園の桜とレトロ建築→青梅駅11時6分発→国分寺乗換武蔵小金井駅11時49分着。 小金井街道から野川へ12時6分着→武蔵野公園→野川公園でエノキの巨木と桜→道を間違え14時6分、近藤勇の墓がある龍源寺到着。今ここです。
到着したらまず目に入るのは門前の近藤勇の胸像です。私たちが一番目にする写真を写した模様。
門前にあったあれこれを写す。
分かりますか?史蹟近藤勇墓所・近藤勇と天然理心流の石碑です。文章紹介。
「近藤勇と天然理心流 この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修行した近藤内蔵助長裕が創始した。天然理心流の4代目を継いだ剣豪です。その真髄は「誠の剣」であり「力の剣」であると言われています。
古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産であります。『天然理心流』の木刀5本と柄砕3組の演舞のフィルムが日本武道館の古武道協会に永久保存されています。
三鷹市剣道連盟では、近藤勇先生慰霊剣道大会を毎年開催しています。 昭和63年3月吉日 三鷹市剣道連盟」となってます。
石碑に並び仏様の像。

山門をくぐる。
まず目に入ったのは石灯籠。
ど〜みても寛永寺か増上寺の石灯篭に見える。え〜と?
厳有院殿 尊前 延宝8年5月8日と刻んであります。ということは、徳川4代将軍家綱の墓所に奉献された石灯籠ですね。
で、延宝8年5月8日とは、家綱の死没した日です。延宝8年は西暦で1680年。
もうすっかり慣れた作業です。本当は右端に東叡山寛永寺と刻まれるのですが、なぜかない。んで、左端に奉献した人の役職と冠位と名前がくるのですが、これは大概磨耗して読めないんだよね。
お墓は本堂裏手にあります。が、その前に巨木です。
上の方が刈り込まれ悲しい状態ですが、本堂前に並ぶ2本は樹齢300年に達するんだって!とてもそれ程年を経てるとは見えませんが。
鑑賞してまずは参拝。
龍源寺さんです。
そして裏手の墓所に向かう。見つかるかどうか不安だったけど、一番手前にあった。
近藤一族のお墓です。上の画像右から2基目の古い墓が近藤勇のもの。
傍に興味深い石碑がある。
昭和32年に建てられた近藤勇の辞世です。
説明板発見:近藤勇の墓 東京都指定文化財
天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の宮川久次郎の3男として生まれ、15歳で天然理心流近藤周助に入門、近藤家の養子となって28歳で天然理心流4代目を襲名した。
文久3年(1863)土方歳三と京都に上り、慶応3年(1867)大政奉還までの4年間、新撰組として活躍した。
京都、鳥羽伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を組織し山梨県勝沼で官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。
慶応4年(明治元年)4月25日、板橋宿で処刑された。享年35歳。
法名は貫天院純義誠忠大居士。 平成5年10月31日 三鷹市教育委員会」
14時13分、龍源寺さんを後に。すぐ近くに近藤勇の生家跡があるのだ。そもそも野川公園のマップを読み間違えなければ、そっちが先に訪問してたんだ。だって野川公園の正門前にあるんだもの。

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