あられの日記

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谷中霊園墓所巡り 谷中散歩その4

2017年11月04日 05時50分45秒 | 墓所巡り
谷中霊園訪問の目的は徳川15代将軍徳川慶喜のお墓でした。谷中霊園は広く6000基ものお墓があります。明治期の著名人のお墓も多いとか?今回街歩きに持参したのは数年前根津神社のつつじ祭りでいただいた根津権現かいわい浪漫ちっくマップです。これに載ってた谷中霊園にある著名人のお墓は横山大観・鳩山一郎・長谷川一夫・阿部正弘・渋沢栄一・佐々木信綱・上田敏・高橋お伝です。何しろ墓域が広いものだから、すべて探しまわるのは無理!ともかく横山大観と鳩山一郎だけは所在地の番地をWEB検索してからの墓参です。
の前に、徳川慶喜のお墓を探してた時に思いがけず見つけてしまった歴史上の著名人のお墓を紹介します。
まずはトップ画像のお墓から。
1)東京都指定旧跡大原重徳のお墓
幕末・明治維新期の公卿で、大原重尹(しげのぶ)の五男として享和元年(1801)10月16日京都に生まれた。天保9年(1838)兄重成の死去により大原家6代の当主となった。嘉永6年(1853)ペリー来航以来攘夷論を主張し、安政5年 (1858)日米修好通商条約の勅許に反対して、水戸藩前藩主徳川斉昭の許に赴こうと密かに出京したが失敗した。文久2年(1862)勅使として江戸に下り、辰口伝奏屋敷から江戸城に臨み、将軍家茂に幕政を改革し攘夷の方策を整うべしとの勅諭を伝達した。これによって一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永(春岳)の政治総裁職就任が実現した。王政復古派の公卿の一人として活躍し、慶応3年(1867)12月9日の夜小御所で開かれた御前会議(小御所会議)では山内豊信(容堂)、松平慶永ら公議政体派と論争し、この会議で徳川慶喜の辞官(内大臣の辞退)、納地(所領の返上)が決定した。(後略)
明治12年(1879)4月1日、79歳で死去した。」
なかなかの歴史上の人物ですね。
2)楠本正隆のお墓 乙7号1側 1838-1902

政治家。天保9年、肥前大村藩上士として生まれ、号西州。維新の際は尊王攘夷に奔走し、藩論を統一して薩長二藩の統合を策し、島原半に赴き、尊王派を応援した。大村藩中老として藩主を助ける。維新後の廃藩置県の際、藩政を整理して藩債を残さなかった。(後略)
明治29年男爵。35年2月7日没。67歳。
正隆の子正敏(男爵1938.2没)も同所に眠る」これらは説明板がお墓のそばにありました。
さてと?横山大観のお墓はどこかな?調べでは乙8 4側に所在してるハズ何だけど?

乙8は細いアスファルト道、通称ひょうたん横丁に面した場所です。タクシーの運転手の休憩所でもあります。
少し迷ったけども。見つかりました。
3)横山大観のお墓

大観のお墓には墓碑もある。どう書いてあるのかじっくり読みたいけども時間が惜しい。時刻はすでに午後3時になろうとしてるのです。上野の科学博物館を出たのが午後2時だったから、濃い1時間です。

横山大観は日本画の大家です。ちなみに、住居跡が横山大観記念館として、不忍の池を挟んだ向かいに残ってます。大観が制作してた2階の部屋は大観の絵を見たことある方には必見の場所かも?
根津界隈散策(2009.11/15)の記事 こちらが横山大観記念館の見取り図などの記事です。
続きまして、同じくひょうたん横丁に面してある鳩山一郎のお墓を探します。
4)鳩山一郎のお墓

すぐ見つかりました〜。江戸時代の墓石だと表に戒名しか書いてない場合があるから、分かりやすい名前が墓石にあると探すのがとても楽です。

よく見ると、鳩山会館でも見た3羽の鳩が羽を向かい合わせに輪に成ってる模様が彫ってありますね。これは鳩山家の家紋かしら?
ちなみに、鳩山会館訪問の記事はこちら。
鳩山会館外観(2012.8/21)の記事。 こちらの記事に鳩山会館の画像があります。お庭のバラが有名ですが、さつきが咲くとさらにゴージャスです。
鳩山会館内観(2012.8/20)の記事 こちらの記事は建物の中の画像です。
満足したので、お土産に夕焼けだんだんにあるやなかしっぽやさんで猫のしっぽドーナツを買って帰ろう!と夕焼けだんだんへ向かいます。でもせっかくだから、幸田露伴の小説に登場する五重塔跡地がみたいなあ。桜の季節に池上本門寺さんで幸田露伴のお墓詣りしたのがね。ゆかりの地がそこにあるんだから見たいじゃない。
ってなことで、跡地のある谷中五重塔跡桜通りを進みます。

春には桜の名所ですね。
ん?なんか不思議なフォルムなんだけど?これは何??

5)川上音二郎のお墓
説明板発見:川上音二郎 1864-1911
新派俳優。壮士劇の卒先者。福岡県の人。福岡藩主黒田氏の御用商人川上専蔵の子。玄洋社に入り、自由党壮士の群に投じ、自由童子と称し各地を浪遊し政談演説をする。過激な民権論を試み。政府を攻撃し法に触れ獄にとうぜられること数々あり。(中略) 外国演劇視察のため渡仏。帰国後、書生芝居を組織。浅草にて新作を演じオッペケペ節を歌い大いに喝采を得る。日清戰争劇でも満都の好評を博す。衆議院議員の選挙運動に失敗。一座で渡航米国にて興行大好評を得る。英・仏を巡回し名声を上げる。独・伊・露巡演好評。(中略)
妻定奴は近代日本最初の女優です。銅像は戦時中金属の拠出で取り外され、台座のみ残る。」
つまり、もともとは円柱の上に川上音二郎の銅像があったんですね。それがなくなったから不思議なフォルムに見えたんです。
あ。五重塔跡の碑を見つけた!ここにあったのか〜。(続きは明日)

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