あられの日記

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近藤勇生家跡

2019年05月03日 05時38分27秒 | 歴史散歩
2019.4.6訪問。野川公園正門前にあります。
説明板発見:近藤勇生家跡 市史跡 指定:昭和52年4月25日
この地は新撰組局長近藤勇の生家跡である。
近藤勇は、天保5年(1834)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。
15歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。
当時、宮川家の屋敷は面積約7000メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシそのほか大木や竹林が茂っていた。
現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和18年に家が取り壊されるまで使用していた井戸を残すのみである 平成12年12月1日 調布市教育委員会」
あれ?こっちは調布市なんだ。龍源寺さんは三鷹市だったよな。
近藤勇産湯の井戸
宮川家(近藤勇の生家)の見取図と写真。
この説明板には近藤勇の少し詳しい生涯が書かれていた。最後のあたりを抜粋する。
「近藤勇、板橋で死す。
慶応4年3月、甲陽鎮撫隊が甲州街道を甲府へ向かう途中大久保剛と名を変えた勇は、上石原村の鎮守である上石原若宮八幡宮を遥拝して戦勝祈願、西光寺向かいの名主中村勘六家で歓待を受けたと伝えられている。甲州柏尾山で官軍に敗れ、その後、新たに隊士を募集して下総流山に陣をしいた。しかし、そこで官軍に包囲されて出頭、慶応4年4月25日に板橋において刑死した。勇の甥宮川勇五郎は、板橋の刑場で肩の鉄砲傷(慶応3年12月伏見墨染付近で負傷)を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、上石原村の生家近くにある龍源寺へ埋葬した。勇の無言の帰還を一族の人々は野川にかかる相曽浦橋で迎えたと伝えられている。
龍源寺の近藤家墓所には、勇の一人娘瓊(たま)と結婚して近藤家を継いだ勇五郎やその息子の久太郎も眠っている。また、近くには勇のいとこで新撰組隊士だった宮川信吉(勇の父久次郎の妹の子)の墓もある。」
YHAOO!の地図には、近藤勇生家跡には近藤神社と書かれている。ちっさいです。敷地も現在では小さい。14時21分、次へ向かう。
前回、大國魂神社→東京競馬場→東郷寺さんのしだれ桜→多摩霊園で坂の上の雲の登場人物の墓所巡り→武蔵野森公園の桜と桜並木を追いかけて飛田給駅という桜散歩をしました。その時探しきれず見れなかったものがあるのだ。まずは探さねばっ!
丘の上でのんびりしてる人。あの丘の向こう側は調布飛行場になっている。この近くにあるハズなんだけども?

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