2005年のモントリオール世界水泳では、男子100m平泳ぎで銀メダル獲得
(59秒53)。
50mは銅。男子400mメドレーリレーで銅メダル。
トップの座を完全にハンセンに譲ってしまった形だが、男子メドレーでは
常にメダル獲得に貢献。
日本の男子メドレーを、常に米・豪に次ぐ位置に押し上げた。
この時期は、故障に加え発熱も併発。
一時は入院する事態となったが、これは今となっては「良い休養になった」と
好転のきっかけとされている。
プロ・アスリート宣言の後、所属・コカコーラとなったものの、国際大会で
金メダルを奪えない時期が続く北島。
実際、肩身が狭かったのではなかろうか・・・。
※私なんて「他のCMに出れなくなって、味の素の
アミノバイタル貰えなくなったんじゃないか?」
なんて言ってたもんなぁ・・・
2006年、受難は続く。
日本選手権・男子200m平泳ぎで、またも4位と敗戦。
50m平泳ぎでも2位。
最後の100m平泳ぎで優勝し、パンパシフィック大会出場権を手に入れる。
まぁ、普通、調子を落としてるのなら「200でダメなら100もアウト」に
なるのだが。
またも「100を気合で泳ぎ切って」代表権を獲得した北島なのでした。
この辺、サスガと言えば流石。
そして同年のパンパシフィック水泳選手権
100m平泳ぎで3位、200m平泳ぎで2位。
もちろん、トップは世界記録を叩き出したハンセンで。
北島は身体ひとつ分を離されての敗戦。
しかし、この屈辱が発奮材料となり、本人をして「苦しい状況だったが、
出場して良かった」と
ハンセンと同レースで泳いだ意義を語らせる事となった。
なお、男子メドレーリレーでは、日本は米国に次ぐ2位。
森田智己・北島康介・高安亮・小島貴光のメンバーで豪州を抑えた。
2006年下旬の、カタール・ドーハで行われたアジア大会50m平泳ぎで銀、
100m平泳ぎで金、200m平泳ぎで金獲得。
アジア大会とは云え、旧ロシア勢も参加する中、男子メドレーリレーで
「金メダル」獲得は明るいニュースだった。
(メンバーは、宮下純・北島・山本貴・細川)
なにより、「表彰台の中央に立つ感触」を北島が久々に味わった事は意義が
あったと言える。
ただし、50m2位で「北島、負けた」と書き立てるメディアには閉口。
(本来、ピッチの速い50mは専門外だってのに・・・)