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履歴稿 北海道似湾編 吹雪 10の3

2024-11-09 20:58:47 | 履歴稿
IMGR081-13
 
履 歴 稿  紫 影子

北海道似湾編 
 吹雪 10の3 
 
 兄の発令は、十月二十日付であったが、月末までの十日間は見習として前任者に同行して集配区域を覚えた。
 
 兄が担当した集配区域は、郵便局を境にした似湾村の南部一帯と、隣村の生べつ村全村であって、その往復の道程が約四十粁と言う広い区域を歩かなければならなかった。
 
 母は兄の就職問題には何んの意見も挟まなかったが、その就職が決定すると、早速兄の作業衣として、裾が膝小僧から十糎程下がる綿入れを裁縫した。
 
 郵便集配人とし出勤をする見習第一日の日の兄は、母が仕立てたこの綿入を着て、メリヤスのズボン下に巻きゲートル、そして草鞋履と言う身仕度で、私と同じ時刻に郵便局へ出勤をした。
 
 
 
IMGR081-19
 
 前任者に教わりながら郵便物の区分をして居る兄に、「兄さん元気でネ。」と言って、私は一足先に郵便局を出たのだが、「ウン」と頷いて私を見送った兄の顔は、何となく淋しそうに見えた。
 
 第一日目の見習を終えた兄は午後の六時頃に帰って来たが、「只今」と言う声には何となく元気が無かった。
 
 「兄さんどうだった。」と私が尋ねても、只「ウン」と言ったきりで、夕食もそこそこに寝床へ潜ってしまった。
 
 そうした兄の様子に「兄さんは辛かったんだな。」と思うと、私も何となく物寂しい気持になったので、早々に寝床へ潜り込んだのだが、「無理も無いなぁ。坊チャン坊チャンと皆からチャホチャホされて勝手気儘に暮して来た兄貴だもんな。それが郵便配達をやるんだもんな。屹度内地の生活が恋しいんだろう。俺だって丸亀が恋しいもんなぁ。」と思うと、ひしひしと慕郷の執念が胸に迫って、容易に私を睡らせなかった。
 
 
 
IMGR081-24
 
 大正元年十一月一日。
 それは兄が愈々一本立ちの郵便配達になった日であったが、その朝も私は兄と連れだって家を出た。
 私の家から郵便局までは、五十歩足らずの距離であったが、玄関から十歩程歩いた所で、突然立止った兄は、「義章、すまんが今日一日俺を手伝ってくれんか。俺には未だ自信が無いんだ、それに途中の道がとても淋しいんだ。」と沈痛な面持で言ったのだが、その一瞬私は返事に惑ってしまった。
 と言うことは、兄を手伝うとすれば当然学校を休まなければならないことと、臨時集配人の私は市街地を往復をする朝の函開けで学校を毎日三十分遅刻をして居るのであったから、欠席をすると言うことは実に苦しいことであったからであった。
 
 併し、私が手伝わなければ兄はどうなるのかと言うことを考えると、私は右すべきか、それとも左すべきかと、その去就に迷ったものであった。
 


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履歴稿 北海道似湾編  吹 雪 10の2

2024-11-07 21:11:27 | 履歴稿
IMGR081-05
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編 
 吹 雪 10の2 
 
 そして、保君の話が真実となって、私に身近な体験をさした。
 
 保君が言ったように、風も確かに音を立てて唸った、そして深夜に大木の幹が、バリバリと言う音を響かせて裂る音もしばしば私は聞いたのであった。
 
 郵便函を開函するために、市街地へ毎日往復して居た私は、幾度か吹雪の猛威にも遭遇をした。
 
 積雪と言う物を、生れて始めて踏む私は学校で授業の休憩時間中に保君はもとよりのこと、高学年の男、女生徒の少年少女が、下駄スケートを履いて学校の坂をとても面白そうに滑って居たのだが、そうしたことに経験の無い私は、低学年の橇を借りて「オイ、これは下まで滑って行っても大丈夫か」と言って、その操縦方法を教わってギコチ無く滑るのが、精一パイの者であった。
 
 また、あの時の保君が沢山の人が吹雪で死ぬと言ったが、そのことを真実であることをも、私は身を以て体験させられる日が待って居た。
 
 
 
IMGR081-04
 
 私の兄は、似湾へ移住をした四月からずうっと自宅でぶらぶらして居たのだが、それは十月中旬の或夜のことであったが、父が役場を退宅をして夕食をすました所へ、突然郵便局長が訪れて来て、「義章さんが毎朝市街地へ往復をして元気に函開けの仕事をやって居るのに、その兄さんが毎日ぶらぶらして居るのは、あまり外見の良いものではないですぞ、それでですな、今私の局では、生べつ方面の集配を担当して居る集配人が、今月限りで辞めるんですよ、それでどうです、その後を兄さんに一つやらして見ませんか、日給は四十銭ですが、多少は生活の足しになりますよ。」と、兄の集配人就職を父に勧誘をした。
 
 
 
IMGR081-03
 
 結局「皆と良く相談をして、明朝必ずお伺いしてご返事を致します。」と言って、局長さんを送り出してから、「義潔、お前も傍で聞いて居たんだから、お父さんと局長さんとの話しの内容は判ったと思うが、お前ももう十五歳だ、昔なら元服をして大人の仲間入りをする歳だ、義章も働いて居るんだから、お前も一つやって見ないか。」と言って、兄の説得に努めたのだが、「郵便配達になるのなんか嫌だ。」と兄は、再三拒否をしたが、「義章が毎朝市街地まで行って函開けをやって働いて居るのに、大きいお前がぶらぶら毎日遊んで居て体裁が悪いとは思わ無いのか。」と言われて、「仕方ない、やるよ。」と、吐き出すように答えて、渋々ながら就職を承諾したので、父は翌朝出勤の途中に局長さんと逢って、兄の集配人就職の手続を済ませた。



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履歴稿 北海道似湾編  吹 雪 10の1

2024-11-03 19:00:55 | 履歴稿
IMGR081-12
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹 雪 10の1
 
 四方の山々が黄褐色に、或は紅に色づき始めた頃のことであったが、春のあの日と同じように、校長先生に引率をされて、全校の生徒が裏山へ椎茸狩りに行った。
 
 その日は、日本晴の空が高く澄きって、山頂は丈伸した草に息切れがする程に暖かくて、小鳥の群が春のそれと同じように枝から枝へと囀って居た。
 
 私は保君と二人で、楢の木の倒木を次から次と椎茸を探し求めて歩いたのだが、椎茸が春と同じ木に生えて居るので、その日は私にも容易に取れた。
 
 そうした私と保君の左の手には、椎茸を数珠なりに突刺した笹が、次々と数を増していって、校長先生の集れの号令を聞いた時には、お互の手には十本程を持って居た。
 
 
 
IMGR081-11
 
 それは、春の時と同じであったが、全生徒が校長先生の声に合して唱歌を歌いながら、老樹の枝でキョトンとした恰好でそうした私達の列へ愛嬌を振蒔いて居る剽軽者の栗鼠や、枝から枝を、囀りながら飛び廻って居る小鳥の群を楽しみながら山を降ったのであったが、その途中で「オイ保君よ、俺なあ春の時よりも今日の椎茸狩がとても面白かったわ。」と私は言ったのであったが、その時の保君は、「俺はなぁ、毎年のことだから、春でも秋でも同じよ、だからそんなに面白いとは思わないよ、それでもよ、義章さんにしてみれば珍らしいんだから可成り面白いんだべな、たがなぁ、もうすぐ冬が来るぞ、暖かい所から来たんだから義章さんは屹度吃驚するぞ。へこたれるなよ。雪はなぁ、毎日のようにどんどん降るぜ、そして山の大木がバリバリ音を立てて裂ける程にきつく凍れるぞ。それからなぁ、おっかない吹雪があるぞ、ピュッピュッと唸る風に吹雪いて一寸先が見えなくなるぜ、そうしてなぁ、北海道では吹雪で死ぬ人が沢山あるんだぞ。」と、身振り手振りで冬の厳しさを私に教えてくれた。
 
 
 
IMGR081-10
 
 併しその時の私は「ウンそうか。」と、尤もらしく頷いて聞いて居たのであったが、内心では「何を言って居るんだい、大袈裟な、おどかすのもほどほどにしろよ、そうだろう、お前達がそうした冬を何年も越て来てるじゃないか、だから俺だって平気だい」とうそぶいて居たものであったが、やがって保君が言ったように、その厳しい冬が足早にやって来て、白鷗が乱舞をするような降雪の日が続いて、一米に近い積雪が四辺の山野を白一色に塗り潰してしまった。
 


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履 歴 稿 北海道似湾編  函開け大将4の4

2024-10-30 19:26:39 | 履歴稿
IMGR081-17
 
履歴稿  紫 影子 
 
北海道似湾編
 函開け大将4の4
 
 現在では既に姿を消してその影すらも無いと思うが、当時の郵便函と言うのは、その高さが五十糎程そして幅が四十糎程であって厚さが三十糎程の函を柱に取付けてあったものであった。
 
 山岸さんの店の前の柱に取付て在った、郵便函の開函を、閑一さんの指示どおりにすまして第一日を無事に終った私は、その翌日から、雨の日も、そして風の日も、染飛白の和服姿に下駄履で大きな鞄を右の肩から左の腰にぶら下げて市街地へ通ったものであった。
 
 私が郵便函の開函で市街地へ往復をする時が、時間的には全校生徒の登校中と言う時刻であったので、当然途中で逢うのであったが、それ等の生徒と行き逢うのが一寸気恥しい思いをしたのだが、そうしたことも、一週間程で私は平気になった。
 
 
 
IMGR081-14
 
 やがて、初の給料日が来た。
 
 「それ、義章さん。」と六枚の五十銭銀貨を閑一さんから手渡された時には、とても筆舌には尽せない程に、私は嬉しかった。
 
閑一さんから貰った、六枚の五十銭銀貨をしっかと握って、家に駈け戻った私は、「お母さん、給料貰って来たよ。」と、玄関から叫んだものであったが、母は私が手渡した六枚の五十銭銀貨を、しばらく見つめて居たが、やがて母が、「ホー、義章沢山貰って来てくれたネェ、どうも有難うよ。」と、とても喜んでくれた時の笑顔が、未だに私の印象に残って居る。
 
 私はこの開函を専問とした臨時集配人を、尋常科の六年を卒業するまで続けたが、いつとはなしに、市街地の人々から”箱分け大将”と言う、愛称で呼ばれるようになって居た。
 
 
 
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履 歴 稿 北海道似湾編  函開け大将 4の3

2024-10-30 19:23:03 | 履歴稿
IMGR081-22
 
履歴稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 函開け大将 4の3
 
 雨の中を家に駆け込んだ私が、このことを母に話をすると、「義章、お前それをやれるか、なかなか辛いと思うぞ。」と母は言ったのだが、私には自信が持てたので、「お母さん大丈夫だよ、俺はやるから。」と私が言うと、「そうか、そんならおやり、それにしてもお前に三円も月給をくれるのかネエ。」と言って、母は喜んで居た。
 
 やがて、臨時集配人としての第一日を迎えた。その日朝食をすました私は、「ご苦労じゃな。」と言って、玄関まで見送ってくれた母へ、「行ってきます。」と元気な声を残して、郵便局へ初の出勤をした。
 
 「お早うご座居ます。」と、窓口から挨拶をすると、「ヤアお早う」と笑顔で迎えてくれた閑一さんが、開函用の鍵と朱で、〒のマークを表に表示をした大きい革製の黒い鞄を私に渡して「鍵を落とすと大変だから、鞄の中へ入れて行けよ。」と注意をしてくれた。
 
 
 
IMGR081-20
 
 教わったように、開函用の鍵を鞄に入れて、「行って来ます」と郵便局を出た私は、郵便函のある市街地へ急いだ。
似湾村(現在は穂別町の一部になって居る)は、北方の十勝方面から、南の太平洋岸へ走って居る東西二つの山脈の間を、悠久瀲灔と流れて居る、鵡川川の流域に在って和人六に対する愛奴四という割合で構成をして居る、畑作主体の純農村であった。
 似湾村を流れて居る鵡川川は、その突端が、紙の都・苫小牧市の沼ノ端まで走って居る西側の山脈に添ってその山裾を隣村の生べつ村へ流れ込んで居た。そして郵便局や市街地は、その突端が太平洋岸まで走って居る東側の山脈添に在って、その山裾までは五十米とは離れて居なかった。
 
 私の行かんとする市街への道は、学校の坂を降って直線の道を行くのであったが、この道路は遠く十勝地方にまで延びて居る道であった、そして学校の坂を降ってからは、右側に太平洋岸まで走って居る山脈の山裾が二十米程の所に在った。
 市街地と言っても、似湾沢へ曲がる丁字路の所から、北方へ三百米程の区間に、三十戸程の家屋が、道路の両側に建って居るに過ぎなかった。従って、軒を並べた家もあればポツンと一戸建の家も在って、所々に野菜畑があった。
 
 
 
IMGR081-18
 
 この市街地と称した所には、商店が六軒、旅館業者が三軒(内一軒は駅逓所であった)、戸長役場の仮庁舎(仏教の説教所を賃貸して改造をしたもの)、病院(村医であった)、巡査駐在所、理髪店等があった。そして商店は、東側に雑貨を売る店が二軒と菓子を造って売る店が一軒あった。また西側には魚屋と薬屋が各一軒と荒物・雑貨・呉服と言ったように大きく商って居た山岸さんの店があった。
 
 旅館は3軒が共に西側に在って、神社前に一軒、そして市街地の略中央に在った病院の北隣りに一軒在って、残る一軒の駅逓所は、山岸さんの店の隣りに、巡査駐在所と向合って市街地の最北端に在った。
 
 

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