履 歴 稿 紫 影子
北海道似湾編
私の弟と烏 5の2
当時、似湾村としての一般的な食生活は、米と麦或は稲黍・粟・稗・馬鈴薯・南瓜等を混合したものが主食であって、馬鈴薯・生唐黍・南瓜の類は、その季節ともなれば塩煮にして、一食は必ず食したものであった。
私の家もこの二種類混合の主食と、代用食の馬鈴薯・生唐黍・南瓜等の塩煮を食べて生活をした家庭であったが、住宅の周辺に割当られた家庭菜園の収穫だけでは補い得なかったので、他に二反歩の借地をすることになった。
借地は、私達の住んで居た吏員住宅から道路(私は鵡川から生べつそして似湾へ移住をするまでも、それから以後も自分達が歩いたこの道を、本稿では今まで道路と書いて居るが、胆振の国の鵡川から十勝の国へ抜けて居る道であったから、或いは当時の国道と称するものであったやも知れんと思うので、爾後は此の道路を国道と書くことにする)をT字路から左へ曲って一粁程を行った所の左側に、その家の造作はあまり立派では無かったが、当時の似湾村としては、家構えの広い小出さんと言う人の土地であって、前年開墾したばかりの新地であった。
現在では、苫小牧の王子製紙山林部は冬期間に鵡川川の上流地域に在る、会社の所有林から造材をした原料丸太を、柳芽が告げる北海道の春の水に乗せて国鉄富内線の穂別駅までを流送搬出をして、其処から鉄道輸送をして居るのであるが、当時は、太平洋へ注ぐ川口の在る鵡川村の本村までを、流送することによって搬出をして、其処から専用線であった軽便鉄道によって苫小牧まで運んだものであった。
従って、上流地域から川口までの要所要所に、流送の作業をする人夫の宿泊所が必要であった。
併し、その流送搬出は、六十日程度の短期間であったので、その流送作業の過程に於て、終点の鵡川までの途中に於て似湾村が一泊をする地点であったのだが、数隊に分れたその流送人夫の人達が一日間隔で川を原木と共に下って来て似湾に一泊をするのであった。
併し、そうした人達の人数が、時としては百人に近い人数となることもあるので、一般の旅館営業をして居る人達としては、そうした季節的な多人数を収容する設備は、とても出来なかったので、小出さんのような大きな構をした家を借りて居たようであった。
私の家で借りた畑は、その小出さんの家から更に北へ百米程行った所に幅が二米程の小沢があって、その小沢の土橋を渡ると左へ曲る小路があった。
小沢の流れは、この小路に添って十米程行った所から左へ曲って居て、私達の借地の畑はその右側に在った。
畑は昨年開墾したばかりの処女地であったので、その直径が五十糎程の物から八十糎程もある樹木の切株が、此処や彼処に十数本点在して居て、切り倒して枝を払った直径六十糎内外と言う桂の丸太が、其処此処に集積されてあった。
私達の家が、下似湾から市街地の吏員住宅へ引越たので、兄は郵便局へ遠くなったのだが、私は学校の授業が終わった足をその儘郵便局へ立寄って、開函用の鍵と鞄を持って帰えることを許されたので、翌朝の八時に開函した郵便函の郵便物を局に引継いで登校をすれば良かったので、寧ろ都合が良くなった。
併し、日曜日と祭日には、引継を了えた空鞄を持って帰らなければならなかったので、以前とは反対の行程ではあったが、市街地と下似湾間を、矢張り往復をしなければならなかった。
またその頃は、勤務の馴れた兄が、一人で配達をして午后の五時頃には毎日帰って来て居たので、私の手伝はもう必要が無くなって居た。