履歴稿 紫 影子
北海道似湾編
吹雪 10の6
私達が郵便局へ帰ったのは、午后の八時を三十分程過ぎた時であったが、早速各所の郵便函から集めて来た郵便物を、事務の閑一さんに引継いで家へ帰ったのは、それから三十分程後のことであった。
「今日は、昨日より遅かったな。」と、父に言われて、「今日は郵便物が多かったから。」と兄は答えたが、その事実は遠道に馴れて居ない私の足が遅かった結果であった。
私はこの日から、「兄さんが慣れるまで。」と言う母の意思に従って、向う一週間を毎日生べつへ往復をした。
その結果、どうにか兄が一人で行けるようになったので、私は通学するようになったのだが、勉強の遅れが可成り私を苦しめた。
併しその後も、郵便物の多い日や兄の体調の悪い日には、私が学校休んで手伝ったので、週間、二、三日位しか登校することが出来なかった。
やがて、雪は降り積もり、河川は凍結して、人馬が対岸と氷上を往来すると言う厳冬期に這入って、学校は冬休みになったのだが、私の生べつ往復は、この冬休み中を一日も欠かさずに毎日続いた。
やがてその年も暮れて、大正二年の元旦を迎えたのだが、私達兄弟にはお正月の喜びは無かった。
その頃の私は、川向のキキンニから芭呂沢までの三部落と、芭呂沢を渡って畔道から道路へ出たその道路の右側の配達をキリカチまで受持って居た。
また兄は、似湾村の部分を受持って、其処の配達が終ると峠を越えて中杵臼の部落を配達するのであった。そして生べつの本村へ這入ってからは、私の受持以外の道路から左側を配達しながらキリカチへ歩いて、郵便函の在る大久保商店で二人が落合うのであった。
このように手分けをして配達をするようになって居たので、時間的には相当短縮して居たのだが、何んと言ってもお正月であった、十日頃までと言うものは、殆ど戸毎へ配る年賀郵便で、私達兄弟が家に帰り着くのは、毎日午后の八時以後と言う時刻であった。
こうした私達兄弟が、ある猛吹雪の日に、「北海道では吹雪で人は死ぬ。」と言った、保君の言葉をそのままに、危く遭難をしかかることがあった。
その当時私は、その状況を記録しておいたのであったが、長い年月のいつの日にか忘失してしまって、正確な日時が判らなくなってしまったのだが、年賀郵便も、小包も、特に多い日のことであった
その日の朝は、明方から降り出した粉雪が、猛烈に降って居て積雪も既に三十糎程になって居たのだが、風はさして強くは無かった。