履歴稿 紫 影子
北海道似湾編
吹雪 10の5
元来、キキンニ部落の人達は、学童の通学も、そして日常の所用も、渡船場を利用して対岸の似湾村と往来をして居たので、この山道を利用する者は、郵便配達以外の者は至極稀だと兄は言って居たが、私は淋しくて嫌な道だなと思った。
クウナイの次は芭呂沢と言う部落であって、川から西側の集配は此処が終点であったが、クウナイから此の芭呂沢への道程は約二粁程あって、部落と言っても、パロノ沢と言う小沢の流域に、愛奴の家が三戸程在ったに過ぎなかった。
この芭呂沢も、キキンニと同じように、郵送の新聞を沢の一番奥に住っていた本田バロカトクと言う人の所へ配達しなければならないので、毎日来なければならないのだ、と兄は言って居た。
そしてバロカトクと言う人の家は、昔は酋長であった家柄であって、当時のバロカトクは、熊討の名人なのだとも言って居た。
私達兄弟は、そのバロカトクと言う人の所へ郵便物を届けると川岸に在った渡船場へ戻って其処から対岸の生べつ村の本村へ渡った。
生べつの本村へ渡った私達は、畔道を急いで嘗て私達の家族が鵡川の市街地から生べつへ歩いた道路へ出た。そして其処から鵡川方面へ約二粁程あるキリカチと言う所まで、郵便物を配達しながら南下したのであった。
私達がそれまで歩いて来た、川向のキキンニ、クウナイ、芭呂沢と言った三部落とは異って、生ベツの本村は、矢張り本村としての風格を備えて居た。
それは地理的条件が備わって居たからではあったが、鵡川川が西側の山脈添に流れて居る関係で、小沢の流域を畑地とした狭い農耕地で生活をして居る川向の三部落とは異なって、農耕面積の広い、立派な農村風景であった。
キリカチと言う所は、行べつと鵡川の村界に在って、此処までが兄の担当区域であった。
私達がキリカチへ着いたのは、午后の二時を少々過ぎた時刻であったが、郵便函の在った大久保と言う店の火鉢に暖をとりながら、私達兄弟は昼食の握飯を食った。そうした私達は其処から折返して途中の配達をしながら、嘗て四月に私達が一週間ほど寄寓をした、生べつ小学校まで帰った時には、既に夜の帷りが四辺を包んだ午后の六時頃であった。
生べつ小学校の在る所から、似湾との村境に在る峠を超すまでには、約五粁程の道程があったのであったが、その中間に在って字の名を中杵臼と呼ぶ所へ行くまでは、道の両側が密林になって居て、人家と言うものは全く無かった。
その日の郵便配達は、この中杵臼にあった人家の戸数が二十戸程と言う小部落で全部終るのであったが、この中杵臼から一粁程を歩くと、その水源地に冷泉が湧いて居ると言うことから、湯の沢と呼ばれて居た幅が二米程の小沢が流れて居た。そして其処には土橋が架橋されて在った。
湯の沢の土橋を渡った私達は、間も無く村界の峠にさしかかったのであったが、嘗て似湾沢で聞いた時のそれと同じような無気味な梟の啼声と、スタスタスタと何者かが私達の後を追っているように聞える自分達の足音の他は、只闇黒寂然とした峠であったので、此の峠が一番淋しい所だなと私は思った。