東福寺から、Google Mapを見つつ進み、JR京浜東北線の沿線にある總持寺まで来ました。

總持寺、でかいです。
入口では、寺務所の職員さんか修行僧かわかりませんが、芝生の草むしりをしていました。
さてチャリですが、總持寺のところにある鶴見大学の駐輪場に停めておきました。
鶴見大学は總持寺の一部みたいなものなんですねぇ。
私は鶴見大学の存在自体知らなかったのですが(^_^;)
入口から50メートルほどでしょうか、

「大本山総持寺」の寺号標が立っています。
なかなかご立派な寺号標ですが、これまたなかなかご立派な並木の影に隠れて目立たないところにあります。

寺号標からさらに進むと、三松関【国指定登録文化財】という総門にあたる門へ。
新緑の並木は続き、

でっかい三門に到達したところで並木道は終わります。
その先は、宏大な總持寺の境内です。
能登国に諸嶽観音堂というお堂がありました。總持寺の由来はここから始まります。
元亨元年(1321年)、住職の定賢権律師が、永平寺(越前国)の瑩山禅師に入山を要請し、寺院を禅師に譲りました。寺伝によると、二人の夢枕に観音様が現れてお告げをしたとあります。
禅師と律師は、夢のお告げがぴったり合ったことを慶び、寺号を「仏法(真言)が満ち保たれている総府」という意味の「總持寺」と改め、山号は諸嶽観音堂にちなんで「諸嶽山」と定めました。
瑩山禅師は、後醍醐天皇の公認を得るなど、曹洞宗を日本仏教の一大宗派にした名僧でもあります。
しかし、明治31年(1898年)4月13日夜火災がおこり、伽藍の大部分を焼失してしまいました。
明治40年、貫首の石川素童禅師は、新興の港湾都市として成長していた横浜にてあらたに總持寺を創建することを決断しました。
こうして總持寺は鶴見に大いなる境内を有し、能登でも諸嶽寺として続き、現在に至っています。
ただただでかい堂宇を誇る總持寺。

三門をくぐったところにある三松閣です。
この中には総受付があるようですが、こちらに寄る必要はありません。
總持寺は無料で境内に入ることができます。

扉には菊の御紋、京都の二条城で見たような感じの門は向唐門【国指定登録文化財】といいます。
この門は普段は閉められており、通常は金鶏門という別の門を通ることになります。

向唐門の延長線上、金鶏門をくぐった先にあるのは仏殿【国指定登録文化財】です。
外見からは2層の建物に見えますが、下の屋根はもこし(見せかけの屋根)であり、実際は巨大な1階建ての建造物です。
このときは老人ご一行が仏殿で記念撮影をしていました。
「このお寺は何ですか?」「總持寺ぃ~~」
どうやら總持寺では「ハイ、チーズ」ではなく、「1+1は2ぃ~」の代わりに「總持寺ぃ~」という掛け声が使われているようです。
「総爺ぃ~」と思ったのは私だけでしょうか?
でもじじいだけでなくばばあもいたので「総爺ぃ」には該当しませんね。おっとこれは失礼。

仏殿を右に見つつさらに歩くと、放光堂【国指定登録文化財】があります。
横幅が約30メートルもあり、安政年間に建てられたものが明治44年に移築されたものだそうです。
總持寺は宏大な寺院とあって、著名な人物も多く眠っています。
大正時代に内閣総理大臣を拝命し、超然内閣(非政党内閣)を組織して大正デモクラシーを招くことになる清浦圭吾。
戦後間もない時期に内閣総理大臣を務めた芦田均。
そして、昭和を代表する俳優にして、石原軍団の総帥・石原裕次郎。
石原裕次郎の墓は、広大な墓地の一画にあります。
後醍醐天皇の御廟、むちゃくちゃでっかい大祖堂を通った先に墓地があります。

案内看板にしたがって、石原裕次郎の墓へ歩きます。

「天下無敵日比野雷風居士墓」とあります。「天下無敵」とは大きくでたなぁ~(^_^;) この墓の主は何者なのか!?
彼のお弟子さんと思われる人々が立てた碑文が脇に立っていました。
それによると、どうも明治時代の剣豪と思われます。
興味がわいたので調べてみました。
日比野雷風は明治の剣豪で、神道流居合の開祖です。
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が結ばれたときに、その内容に不満をもった民衆の一部が暴動を起こしました。いわゆる日比谷焼打事件です。
暴徒はポーツマス条約に賛同する記事を出した国民新聞社を襲撃しました。
そのとき雷風は親交のある徳富蘇峰社長のもとを訪ねていましたが、暴徒から蘇峰を身を挺して守り抜いたそうです。
一般の市井の人々の墓の中に、ひときわ目立つ大きな墓が現れます。

これが石原裕次郎の墓です。
石柱には「裕次郎」の名が刻まれ、献花と線香の煙が絶えません。
この日は「石原家」の水桶に花が活けられていました。軍団関係者がお参りに来たのでしょうか。
墓前に立つと、なんだか神妙な心持ちになる、そんな気がします・・・。
石原裕次郎の墓を参観して、ふたたび總持寺の境内へ戻りました。
◆参考文献
・曹洞宗大本山總持寺 http://www.sojiji.jp
・神道流ホームページ http://www.shintoryu.jp/index.php