鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

今治城・前章~築城の名手

2016-01-03 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 後 3 時 4 1 分

J R 今 治 駅 南 口



この日は松山城湯築城?と続き、最後の3城目が今治城



今治駅の南口。
今回もレンタサイクルの力を借りるべく、予讃線の高架ぞいに東へ歩き、JR今治駅臨時レンタサイクルターミナルへ。



今治で借りた自転車「おのみち010940A」です。
なぜ「おのみち」??
今治と尾道は瀬戸内海を挟んで対岸にある街。
その2つの街を結ぶしまなみ海道をサイクリングしたい、と思うのは至極当然のこと。
ここのレンタサイクルは対岸の尾道で乗り捨てることができるのです。
そのかわり故障・紛失のリスクも高いため、借用時には賃料を支払うほかに保証金を預ける必要があります。
(ただし乗り捨ての場合、保証金は没収されます)

レンタル料金は1日1,000円と割高。保証料も1,000円。
ですが、今治にいる2時間程度で1,000円は高いと察してくれたのか、レンタル料金は半額の500円にしてくれました。
ただしおつりの500円玉を持ち合わせていないということで、おっちゃんには2,000円を預けます。
そのかわりに非情なる条件が。

17時までに返却すれば、おつりの500円と保証金1,000円をお返しします。
17時までに帰ってこなかったら、2,000円はボッシュートね(^^♪


営業時間は17時で終わりで、(早ぇとこ家に帰りたい)おっちゃんは帰っちゃうのだと。
ということは、明日高松市内をめぐる私にとっては、17時に戻らないと1,500円を諦めなければならないことになります。
時刻は午後4時に差しかかろうというところ。
今治城をめぐる時間は1時間もなさそうです。



「おのみち010940A」にまたがった私は、今治市街を颯爽と駆け抜けて、



レンタサイクルターミナルから10分ほどで今治城に到着しました。



御門をくぐる前に水濠を見渡しましょう。

 

今治城は讃岐高松城豊前中津城とともに「日本三大海城」のひとつとされています。
まぁ、この「日本三大○○」自体不明確なものではあるのですが・・・ともかく今治城は海のそばにあるということで、その水濠は海水を引いています。
右の画像にある濠からの水路は海に通じています。



水濠に泳ぐ魚は海水魚のチヌ(クロダイ)です。



それでは入城。

 

二の丸を守る(くろがね)御門【再建】です。
現在再建されているのは櫓門であるこの門のみですが、往時はこの門の前にもうひとつ門があって、枡形虎口を形成していました。



鉄御門の脇には武具櫓が建っています。


鉄御門をくぐった先に、さっそくご登場。



晴天を貫かん勢いで直立する天守【模擬】と、その主の銅像。



 

藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名で、今治城をはじめ宇和島城伊賀上野城江戸城など多くの築城に携わり、黒田官兵衛孝高加藤清正とともに「築城の名手」と称されます。
また主君を7回変えた武将ですが、そのたびに禄高を高めていきました。
はじめは出身地・近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、浅井家滅亡後はその旧臣阿閉貞征(あつじさだゆき)、次いで同じく浅井旧臣の磯野員昌(かずまさ)、員昌の養子となっていた津田信澄織田信長の甥)の家臣として仕えます。
しかしいずれも長続きせず、津田信澄とはそりが合わなかったようで、やがてその元を去ります。
次に仕えた信長の重臣・羽柴秀吉の弟・秀長は高虎の能力を高く評価し、高虎も功績を重ねていき大名に列せられるまでになりました。
天正19年(1591年)、高虎の最大の理解者ともいえる豊臣秀長が死去すると、甥で養子の豊臣秀保に仕えますが、秀保が早世するとその菩提を弔うべく出家して高野山に上ってしまいます。
しかしその将才を惜しんだ豊臣秀吉が呼び戻したため還俗、さらに伊予国板島7万石の大名に封ぜられました。このときに宇和島城を築城し、「板島」から「宇和島」に改称しています。

慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去直前から徳川家康に急接近していきます。高虎は豊臣恩顧の武将ともいえますが、家康の天下泰平の志を理解していたから家康についたといいます。
関ヶ原の戦いでは東軍につき、西軍の名将・大谷吉嗣(よしつぐ)と死闘を演じ、戦後に家康から宇和島の所領に加えて今治20万石に加増されました。
関ヶ原の戦いの後は天下泰平の時代が近いと考えた高虎は、交通の便の良い港近くに今治城を築城しました。
以後は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などに携わり、伊賀伊勢22万石に加増移封され、津藩主となります。
家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながらも譜代大名と同等に重用しました。
大坂の陣では徳川方として参戦し、豊臣方の長宗我部盛親隊と死闘を演じ、戦後32万石に加増されました。
家康死後は2代将軍秀忠、3代将軍家光に仕え、寛永7年(1630年)10月5日に江戸で亡くなります。享年75。


ちなみに東京の神田和泉(いずみ)町は、津藩の藩邸があったところで、高虎の官位であった和泉守からその名がついています。



次は天守に向かいます。



天守に入るには、まず櫓門をくぐって本丸に入ります。



本丸にある吹揚神社を正面にして、その右側に天守への入口があります。
天守への入場料は、大人500円。
天守内は資料館になっています。



なぜ仕込み杖?

「細身の刀剣を杖の中に仕込んで、杖と武器を兼用したもの。明治期の廃刀令(明治10年3月28日)以降、護身用としてさまざまな形の仕込み杖が作られた。」

説明書きより。これだけだとなんで今治城の資料館に置かれているか疑問なのですが、

「この仕込み杖は、今治藩の最後の藩主であった松平定法が所用したものと伝わる。
 握り手の突起を押すと、留め金がはずれ、杖から刀を抜きだすことができる構造となっている」


なるほどねぇ~。
この仕込み杖が唯一私の気を引いた資料でした。


天守最上階に到達。



遠く北西を見渡すと瀬戸内海、そしてしまなみ海道・来島海峡大橋が見えます。



また遠くを見ずに見下ろすと、先ほどの鉄御門藤堂高虎公像
水濠の向こうには今治港が至近にあることがわかり、今治城が海城(水城)であることがよくわかります。



天守の北東には御金櫓【再建】という隅櫓が建っています。
やはり向こうには海が見えますね。



天守の西側には山里櫓【再建】が建ちます。


天守からの眺めをひととおり味わったところで、忘れてはいけない100名城スタンプ。



79番、今治城!
絵柄は意外なことに天守ではなく隅櫓。おそらくは武具櫓だと思われるのですが・・・なぜでしょう?
その理由と思われる事柄は次話に回すとして・・・



ここでも見つけてしまったスタンプラリー!
しかも今治城のスタンプラリーは景品付き!

というわけで、城攻めとスタンプラリーを兼ねつつ、城内を回っていきます。