通天閣で浪花商人の心意気にすっかりヤラれてしまった私は、このままJR新今宮駅には戻らず、天王寺公園を経由して天王寺駅方向へ歩きました。
天王寺公園内にある天王寺動物園の入口ゲート前。
現代的な動物園のゲートの前には、なんと浮浪者が「ここをキャンプ地とする!」かのごとく居座っています。
・・・この街はやべぇぞ。
なんとなく事件に巻き込まれる恐怖を感じつつ、天王寺公園の遊歩道を歩いていきました。
そういえば天王寺は、大阪夏の陣で徳川家康が本陣を構えた地。
先の冬の陣の講和で水濠を埋められてしまい、裸城になった大阪城。
玉砕覚悟で打って出た真田信繁(幸村)らの豊臣軍との激戦が繰り広げられた地でもあります。
茶臼山歴史について!
慶長3年、1598年8月18日、豊臣秀吉は、63才で死去!
死の直前、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の五大老、現在風でいえば大物大臣である!
さらに、五奉行に石田光成、浅野長政、増田長盛、前田玄人、長束正家をおいた、秀吉死去により、家臣石田光成、浅野長政軍は関ヶ原で、徳川家康との最後の戦になった、秀吉の長男秀頼を母淀君が庇って戦に出さず、豊臣家の家臣が、次々と徳川家に付き、関ヶ原で石田光成軍が敗北した!
そのころ、真田幸村は和歌山九度山にいた、大阪城にかけつけた時、大阪城は徳川家の手におちる寸前であった!
大阪城攻防で名高い茶臼山は冬の陣では家康の本陣となり、夏の陣では幸村の激戦地となった!
幸村は信州の田舎の住人で、父にならって、優れた戦略家であった!
夏の陣は冬の陣のわずか4ヶ月後のことで、幸村はただちに国分道明寺に出陣した後、大阪城最後の決戦にのぞむ!
主戦と成ったのは、茶臼山から四天王寺西門あたりで幸村軍はすさまじい勢いで家康軍に殺到したが、全員討ち死にし大阪城本丸炎上、秀頼、淀君討ち死に豊臣家二代にわたる栄華は、夢ときえた!!
(本文ママ、文字色の変更は筆者による)
なんとも気合の入った石碑ではありますが・・・赤字の部分は誤りです。
まず石田光成は、正しくは石田三成です。
そして前田玄人(くろうと??)は、前田玄以(げんい)です。
第3文目ははっきりいって構文がメチャクチャなのですが、徳川家康との最後の戦は関ヶ原ではなく大坂の陣なので、これもおかしい。
第4文目、真田幸村は「そのころ」ですが、「そのころ」は関ヶ原の戦いのころを表すので、関ヶ原の戦いのころは和歌山にはいません。信州上田で徳川秀忠の大軍と戦っていて、関ヶ原の戦後に和歌山九度山に流罪となります。
第6文目・・・「田舎」はひどくねぇ?
あと、句点(、)の使い方もおかしい。
はっきりいって酷い石碑であります。
石碑が立っているのはいかがわしげなホテル・・・それならばこの石碑も致し方ないか?
わけのわからん石碑を過ぎれば、すぐに大通りに出ました。
大阪ミナミの中心的なターミナル駅・JR天王寺駅です。
そばにある高いビルは、あべのハルカス。
ああ・・・あべのハルカスに行けばよかった・・・とはもう言うまい。
このまま天王寺駅に入り、大阪環状線に乗車。
この旅最後の食事を大阪のお好み焼きと決めていた私は、かつて最初に大阪に来た時に食べたお店を、おぼろげな記憶とともに探すことにしました。
その店の名前すらもう覚えていないのですが、最寄駅が天満駅で、長~い商店街の中にあったという記憶だけはありました。
車中、スマホさんでいろいろ検索してはみたのですが、どうも記憶に合致する店が見つかりません。
とうとう天満駅に到着。
天満の次は大阪、これで大阪環状線一周達成!・・・といいたいところですが、新今宮と天王寺の間は歩いてしまったので、大阪環状線完乗ならず・・・。
ともかく、お好み焼き屋さんを探しに、天神橋筋商店街を歩きます。
【今回の乗車記録】
JR天王寺駅・11番のりば 18時24分発
[O]大阪環状線 内回り 普通 鶴橋・京橋・大阪方面行き 8両
天満駅・1番のりば 18時45分着
【移動距離】9.1km 【運賃】18きっぷ使用(不使用の場合は180円)
日本100名城の旅・第14弾「はじめての四国」第51話へ続く。