菖蒲園から坂を上がって、いったん城址公園を出た。
そして、公園から300メートルほど離れた佐倉東高校の前。
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佐倉城の大手門跡は、公園から少し離れている。
大手門から広小路が伸びていて、一帯は武家屋敷街であった。
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公園への道路を歩いていくと、左側に駐車場と佐倉城址公園管理センターがぽつんとある。
人のいる気配がない。人がいるのを見たことがない。
この中に100名城スタンプがあるのだが、管理がいささか雑ではないか?
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ひとまず・・・20番、佐倉城!
スタンプ帳には2011年2月の時点で押印済み。
戦国時代中期、付近一帯を支配していた本佐倉城主・千葉
これが佐倉城のおこりである。
千葉親胤はほどなく暗殺されてしまい、工事は中止となった。
築城はしばらく中断する。
徳川家康が江戸幕府を創設すると、1610年(慶長15年)その命を受けた土井利勝により、ついに完成。
佐倉城を中心に佐倉藩が成立した。
佐倉城は「老中の城」と呼ばれることがある。
初代城主の土井利勝(老中・大老)をはじめ、堀田正盛、大久保忠朝、戸田忠昌、稲葉正通、松平
(堀田正睦は2度就任している)
明治維新後に廃城となり、帝国陸軍歩兵連隊の駐屯地となった。
それでも、「奇跡」と言われるほど空堀や土塁などの遺構がよく残っている。
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公園の入口あたりは、三の御門跡になっている。
本丸から大手門までの間には門が3つあり、それぞれ「一の御門」「二の御門」「三の御門」と呼ばれていた。
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三の御門脇の空堀もよく残っているが、ここのはまだ浅い。
芝生の緑鮮やかな窪地のようにも見える。
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三の御門跡からそのまま道なりに進むと、2体の銅像が立っている。
江戸幕府の末期、開国交渉で活躍した日米2人。
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佐倉藩主にして老中の堀田正睦(左)は、アメリカの駐日大使・タウンゼント=ハリスとの通商交渉に臨み、日米修好通商条約を締結した。
堀田は藩政に洋学を積極的に取り入れ、医学塾である順天堂の開設などの成果を残している。
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そして堀田・ハリス像のあたりが二の御門跡。
二の丸へと続く二の御門は、武器庫として用いられていたようだ。
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画像では鬱蒼とした雑木林のように見えるが、二の御門の両脇を固める空堀はかなり深い。
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二の御門からは道が二手に分かれており、そのまま直進すれば一の御門跡。
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左折すれば勝手口であった台所門跡に続く。
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本丸は明治以降に建物が収去されて、現在は広場になっている。
往時は御殿があり、角櫓、銅櫓、天守が立っていた。
徳川家康が鷹狩りで下総国を訪れることがあったが、そのときの宿泊場所として佐倉城本丸が用いられた。
そのため歴代の城主は、本丸を寝所とすることを避けた。
本丸の御殿を使用するのは、儀礼的な行事などに限られたという。
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本丸と二の丸を隔てる空堀もかなり深い。
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空堀から掘った土は、本丸を囲う土塁に用いられたのだろう。
この土塁も3メートルほどと、なかなか高い。
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本丸の南西部にある天守跡。
初代城主・土井利勝は、三層の天守(御三階櫓)を建てた。
利勝はのち古河(茨城県)に移封となるが、資料や礎石を比較したところ、そこの御三階櫓と構造がとても似ているという。
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本丸の北西には、
記録によれば二層の櫓で、もとは江戸城の櫓を移築したものだという。
さらにこの櫓、徳川家康が江戸城を改築する以前から存在したものらしい。
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天守跡そばにある一本の大きなモッコク【千葉県指定天然記念物】。
幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られている。
歩兵連隊が置かれていたころの兵士の落書きだという。
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二の御門跡から、三の御門とは逆の方向に歩くと、椎木門跡に続く。
ここは掘りのすばらしい郭馬出しで防御が固められている。
椎木門の外側は椎木曲輪と呼ばれ、現在は国立歴史民俗博物館(歴博)がそびえ立つ。
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明治政府により建物がすべて撤去されてしまった佐倉城において、そのシンボル的な存在がこの郭馬出しであろう。
100名城スタンプの図柄もここである。
それにしても夏場の城攻めは体に堪える。
城内を歩き回ったところだし、屋内で休憩したい。
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ちょうどいいところに歴博があるではないか!
しかしこの歴博、とんでもない所であった・・・。
佐倉城登城・第3話へ続く。
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