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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

函館五稜郭・第1章~★を眺める

2017-03-10 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 7 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 2 分

函 館 市 電 ・ 五 稜 郭 停 留 場



「コーヒーハウスきくち」ひとりソフトクリーム対決をしてきた私は、市電で五稜郭停留場まで移動しました。



停留場から函館の市街地を歩くこと数分、ビルの谷間を抜けて五稜郭タワーが見えてきました。
五稜郭の中に入る前に、まずはタワーから五稜郭を眺めることとします。
入場料・大人840円を支払い・・・



2番、五稜郭!
スタンプ帳にはスタンプの設置場所が「五稜郭公園管理事務所」とありますが、こちらの五稜郭タワーのチケット売り場で押印することができました。



北海道らしい熊の木彫りが安置されている男性トイレで用を足し、いよいよ展望室へ。




★です。
五稜郭といえば★を見下ろすこのアングルですね(*^_^*)

★の中央に箱館奉行所【復元】。
また左側にある3つの蔵は手前から土蔵(兵糧庫)【現存】、板蔵【復元】、土蔵【復元】で、それぞれ文書や物品を保管していたそうです。
▼にある赤い屋根は、ボート乗り場・・・・・・幕末当時の姿を復元している中で、これだけきわめて異質です。


五稜郭は幕末に造られた、箱館奉行所が置かれた城郭です。

はじめ箱館奉行所は、箱館開港後に現在の元町公園のある場所に建てられましたが、海から近く砲撃を受ける恐れがある、外国人が自由に行き来できる函館山から見下ろされる(内側が見えてしまう)という欠点がありました。
そこで幕府は箱館奉行所を移転することとし、武田斐三郎(あやさぶろう)の設計により、元治元年(1864年)に竣工。
慶応2年(1866年)にすべての工事が完了しました。

「星型要塞」とよばれる城郭は、ヨーロッパの城郭技術を取り入れたもので、城内側面からの射撃で死角をなくす工夫です。
また火砲による攻撃を想定し、衝撃をブロックしやすい土塁を前面に築いています。
★の下から1ヶ所だけ飛び出ている▼は、半月()といい、出撃拠点となるものでした。かつての城郭の馬出しの役割を果たします。
当初は5ヶ所に造られる計画だった▼は、予算がなかったために1ヶ所だけになってしまったそうです。

築城当時は国内最先端の城郭だったのですが、ヨーロッパではりゅう弾による戦闘が主流となってきました。
弾を高速でぶっ放して破壊するものから、弾自体が爆発して破壊するものへと変わったのです。
そのためにこの★は、ヨーロッパではもはや時代遅れのものになりつつあったといいます。





こちらが箱館奉行所
蝦夷地の政治の中心となり、戊辰戦争(箱館戦争)においては旧幕府軍の本拠にもなりました。



五稜郭の表入口。土塁には石垣が施されています。
このあたりには入口を監視する番所がありました。



★の左下のトンガリ。
表入口から離れると、このように石垣はなく土塁だけ。
石も費用も節約されています。


五稜郭タワーからの眺めは五稜郭だけでなく、



函館山も見事に見渡せます。
箱館奉行所が五稜郭に移る前は、山のふもとにある元町公園のあたりに置かれていました。



函館湾と、その向こうの松前半島
松前城は、あの山の向こう側にあるんだろうな~。



タワーによくある、真下が見える床。
真下よりも、自分の履いている靴のボロさが気になってしまいます(^_^;)
ちなみにこの靴は、この旅をもって引退いたしました。




展望室は、五稜郭の築城に関する資料や、箱館戦争(五稜郭の戦い)に関する資料も豊富に展示されています。
そのひとつ?が、土方歳三之像
旧幕府軍の指導者のひとりで、新選組の生き残りである土方は、箱館の地で戦死するのですが・・・

戦死するのですが・・・・・・



この中国人がどいてくれないので、一緒に撮影してやりました!
こちらの♀はにしおかすみこ似のなかなかの美人でした。



「にしおかすみこ」がどいてくれたので、じっくりと土方歳三之像とご対面。



さてタワーからの眺めを楽しみ、展示も軽くですがひととおり見たので、タワーを下りようとしたところ・・・



こんなものを見つけてしまいました。
スタンプラリーは貫徹しなければ気が済まない私。



このとおりです(^^♪




旧幕府軍の指導者であった榎本武揚(たけあき)之像をもって、五稜郭タワーは〆とします。



次は★の中へと入っていきます。






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