ママチャリの旅、春日部で無情の雨が降ってきました。
コンビニで急遽雨ガッパを購入しましたが、蒸し暑い中こんなものは着たくありません。
軒先で雨足が弱まるのを待ちます。
しかしながら、雨が弱くなる気配はありません。
これから行こうとしているのは、坂東33箇所霊場の第12番札所となっている慈恩寺。
春日部の隣町・岩槻に鎮座する寺院です。
このまま待っても時間がいたずらに過ぎるだけ。
夕刻になるとたいていの寺院は、寺務所が閉まってしまい、ご朱印をもらうことができなくなってしまいます。
コンビニにある分厚い地図で慈恩寺までのルートを頭に叩き込み、ふたたび春日部の街へ。
カゴの荷物は、船橋市指定ゴミ袋の中にしまい込んで雨水をガードします。
レインコートは着ないまま、雨降る道中を強行突破していきました。
国道16号線から慈恩寺までのルートは・・・
まず豊春駅入口交差点を駅方向に曲がります。
道なりに進み、東武野田線を越え、豊春駅を右に見ながら通過。
岩槻市に入ったあたりで急カーブがあるものの、そのまま道なりに進みます。
右手に岩槻北陵高校が見えてきたら、その次に見えるお寺が慈恩寺です。
進行方向右側に駐車場と、味のある鐘楼が見えてきます。
もう少し進むと、
寺名標と、正面に見える本堂。
道路を挟んで駐車場。木々が囲うように立っていて、ちょうど雨除けになりました。
慈恩寺は、天長元年(824年)慈覚大師・円仁によって開かれた寺院です。
円仁は、15歳の時に比叡山に入り伝教大師・最澄の弟子になりました。
その後承和5年(838年)遣唐使とともに唐に入り、中国各地に留学、修行を積みました。
承和14年(847年)に帰国し、「入唐求法巡礼行記」4巻は、当時の唐の様子が克明に記されています。
61歳で第3代天台宗座主に就任。71歳で亡くなり、「慈覚大師」の諡号が与えられました。
「慈恩寺」の寺号は、慈覚大師が学んだ長安の大慈恩寺にちなんでいます。
正面からそのまま本堂へお参りします。
この本堂は、天保14年(1843年)に再建されたもので、昭和12年(1937年)に改修されています。
「鬼ヅモ大会、優勝」
「とりあえず雨を止ませてくだされ」
本堂でお参りした後は、寺務所でご朱印を頂戴します。
12番、慈恩寺!
境内を少しばかり散策。
なかなか立派な藤棚です。
大きさでは、市川の高圓寺や亀戸天神にも引けを取らない・・・かも。
藤棚のすぐ近くに山門がありました。
山門は元禄4年(1691年)に建立されたと記録にあるそうです。
山門を出て駐車場に戻ってきましたが、これで慈恩寺の参拝はおしまい、というわけではありません。
慈恩寺と深いかかわりにある三蔵法師・
昭和17年(1942年)、日中戦争で日本軍が南京を占領していたときのこと。
稲荷神社を建立するために整地をしていたおり、ひとつの石棺を発掘します。
この石棺の記述から、中に納められたお骨が三蔵法師・玄奘その人であると確認されました。
そして南京に玄奘塔が建立されることとなり、その完成式典が行われました。
そのときに「三蔵法師の遺徳に感謝すべく、日中の仏教徒でともに霊骨を保管しよう」ということで、分骨がなされました。
お骨ははじめ東京の増上寺に保管されましたが、米軍の空爆にさらされるようになったため、岩槻の慈恩寺に疎開されることとなりました。
戦争が終わり、お骨は慈恩寺から別の奉安地を定めることとなっていたのですが、分骨が南京政府(日本軍の傀儡下にあった汪兆銘政府)のもとで行われたため、「中国に返還すべきではないか」という議論が起こりました。
そこで中華民国・蒋介石総統と親交のあった僧が総統の意向を問うたところ、「返還には及ばない。保管地が、三蔵法師にかかわる大慈恩寺にちなんだ寺院であるならば、その地を顕彰の地と定めてはいかがか」と回答を受け、慈恩寺に奉安されることになったそうです。
その後、三蔵法師の霊骨は、国民政府の脱出先である台湾と、奈良の薬師寺に、それぞれ分骨されています。
玄奘のお墓へは、まず山門の前の丁字路を曲がった細い道を進みます。
そのまま進んでも何の案内もなく不安になったところで、四差路とともに案内表示が現れます。
その表示に従って進んでいくと、しばらく何もなく不安になってくるところで、
「玄奘塔」と銘打った中国風の門構えが現れます。
奥には13層の玄奘塔。
玄奘の遺骨はこの中に納められているそうです。
合掌。
「三蔵法師」の称号は「経」「律」「論」の3つに精通する高僧の尊称をいいますが、普通「三蔵法師」といえば玄奘を表します。
「西遊記」に登場する「三蔵法師」が玄奘その人であり、決して女性ではありません。
玄奘は13歳で僧となり、629年、26歳のとき、陸路でインドに旅立ちます。
16年後の645年に、経典657部などをもって帰国しました。経典の部数はかつてないほど膨大なものであり、帰国時には皇帝・太宗(李世民)みずからが出迎えたといいます。
そして、長安の大慈恩寺などで国家的事業のとして経典の翻訳が進められました。
「大般若経」の翻訳が完成した翌年、65歳(63歳とも)で亡くなりました。
門構えの脇には玄奘の銅像が立っています。
多くの経典を背負いつつ、天嶮の砂漠地帯である中央アジアを踏破した苦労が偲ばれます。
三蔵法師にははるかに及ばないながらも、私とて道中の身。
旅の無事を祈願して、玄奘塔を後にしました。
◆参考資料
慈恩寺 坂東三十三観音札所 http://www.jionji.com/
やさしい仏教入門 三蔵法師 http://tobifudo.jp/newmon/okyo/sanzo.html/
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