松江城【国指定史跡】をいったん退去して、
ほど近くにある寺院に立ち寄りました。
入口前で湧き出でる清水。
不昧公愛用の名水とされている水で、現在もこの水でお茶を立てているそうです。
今回立ち寄ったお寺は、歓喜山月照寺【国指定史跡】。
月照寺は、もともとは禅宗の寺院で「洞雲寺」という寺号でした。
松江藩主として松江城に入った松平直政は、寛文4年(1664年)その生母・月照院の霊牌を安置するため、浄土宗の
次代・綱隆はここを廟所とし、山号を「歓喜山」と改めました。
以来、松江藩松平家の菩提寺となり、松江藩主9代がこの地で眠っています。
境内に入る前に立っている碑は、雷電為右衛門の碑。
雷電は松江藩お抱えの力士で254勝10敗!!の戦績を残しており、史上最強の力士ともいわれています。
碑には雷電の手形が刻まれています。
境内の正面入口にあたる唐門。
その先直進すると7代
宝物殿横の通用門から、境内へ。
通用門から境内に入ったところにある書院が、拝観の受付となっています。
こちらで拝観料500円を支払います。
さらにお抹茶をいただくために450円を支払いました。
境内を散策の後に、お抹茶をいただくことにしましょう。
四季折々の花が咲き誇る寺院だそうですが、時季は晩秋。
花はなく、紅葉も始まっていないという“谷”の時季だったんですね。
そんな中で、ただ一輪で咲く花。
茶の湯でいうところの「寂び」の美しさというものでしょうか。
月照寺・最初の廟門が見えてきました。
高真院廟門【島根県指定有形文化財】です。
桃山文化の影響が色濃く残るらしいのですが、よく見てきませんでした・・・。
高真院御廟。
松江藩松平家初代・直政公の墓所です。
初代藩主ともあって、境内で最大の墓所となっています。
続いて、造りがひときわ豪華?な廟所。
大圓庵御廟で、7代藩主・
松平治郷は松江藩松平家7代当主で、江戸時代を代表する茶人でもあり、号の「
破たん寸前の松江藩の財政を藩政改革で立て直し、「松江藩中興の祖」とされます。
茶人としても一流で、名物とよばれる茶器の散逸を防ぐため、大金を投じて収集に努め、また数多くの名工を保護、育成していきました。
ただしこのことは、持ち直した財政を傾けていくことにもつながってしまいます。
茶人としての活躍とともに松江城下に銘品とされる和菓子が多く生まれていき、現在も「不昧公御好み」の銘菓が作られています。
松江が文化の街として評される礎を築き、当地では現在も「不昧公」として敬われています。
大圓庵廟門【島根県指定有形文化財】。
この廟門も、ほかのものに比べてひときわ豪華。
不昧公お抱えの名工・小林
蟇股に悠然と舞う雲龍の彫刻、そして脇柱に施された葡萄の透かし彫りが見事。
この画だと葡萄がよく見えないのですが・・・。
合掌、不昧公。
廟門を出ると、向こうに見える松江城天守【国宝】。
生前不昧公は、城がよく見えるこの場所を選んで、廟所を造らせたといいます。
続いては、善隆院御廟。
5代当主・松平
彫刻は、梅の木に止まっている鳥ですね。
尾が長いから、ウグイスではないでしょう、多分。
松平宣維は、宝永2年(1705年)7歳で家督を継ぎましたが、当初から財政難に悩まされました。
あまりの財政難のため、継室との婚礼費用が捻出できずに婚礼を延期するほどだったといいます。
税制の改定、商品作物の開発などに取り組み、藩札の発行にも着手しました。
享保5年(1720年)からは、幕府より隠岐国の治政を委ねられ、以後松江藩が隠岐を治めることとなりました。
享保16年(1731年)34歳で死去しました。
5代宣維公の隣りに、
月照院墓所がひっそりと立っています。
月照院は徳川家康の二男・松平(結城)秀康の側室で、松江藩松平家初代・直政の生母です。
月照院は身分の低い階級からの出身だったため、直政が大坂の陣に出陣するため軍資金を工面するのに苦慮したのだそうです。
家臣の尽力によって出陣できることとなった直政に対し、「祖父(家康)の目にかなうよう、卑しい母の子として後ろ指を指されることのないように」と励ます言葉をかけて送り出したそうです。
直政は真田丸の戦いで奮戦し、敵将の真田幸村に軍扇を贈られて賞賛されたといいます。
月照院墓所の隣り、
隆元院御廟へ。
3代目・綱近公の墓所です。
「隆元院」の扁額の横には、何らかの花の意匠が施されています。
花? いや、歯車かな?
門扉には桐の紋と、葵の紋でしょうか。
葵といえば、水戸黄門の印籠に施されている「三つ葉葵」が有名ですが、これは徳川家の定紋すなわちメインの家紋です。
家紋には替紋とよばれるサブの家紋があり、松江松平家ではこの「六つ葉葵」を用いていたようです。
廟門の天井にも、植物の透かし彫りが施されています。
松平綱近は、延宝3年(1675年)数え年16歳で家督を継ぎ、藩主となりました。
極度に悪化していた財政の改善に取り組み、製鉄や産馬の奨励などの政策を進めていきました。
また大梶七兵衛を招聘して治水や植林などの開発を進めました。
しかし財政を改善するには至らず、晩年には眼病を患ってしまいます。
ただ家臣からの信頼は篤かったようで、綱近を慕っていた小姓が自らの目をえぐり出して献上した!!という話も残っています。
宝永元年(1704年)に隠居し、宝永6年(1709年)に51歳で死去しました。
夕刻を迎えつつある月照寺。
境内の奥地へと続く紫陽花の小径も、このときは物寂しさを覚えます。
直指庵御廟。
9代当主・
「鷹殿様」の異名をとった斉斎公。
扁額の左上に施されている彫刻も鷹ですが、暗くて少々見づらいですね。
松平斉斎は、文政5年(1822年)家督を継いで9代目の当主となりました。
なお最初の名は直貴でしたが、文政9年(1826年)に11代将軍・徳川家斉から一字授かって斉貴に、隠居後に斉斎に改名しています。
斉斎の治世は天保の大飢饉などの天災が相次いだにもかかわらず、幕府に多額の献金をし、さらに鷹狩などの趣味に興じて財政を極度に悪化させてしまいました。
このため嘉永6年(1853年)家臣団によって主君押込め、つまり強制的に隠居させられてしまいます。
松江藩は婿養子の定安が継ぎ、明治維新を迎えることになります。
境内で最も奥にある宝山院御廟。
2代当主・綱隆公の墓所です。
廟門は蟇股に3枚の葉の彫刻があるだけで、いたって質素な造りです。
歴代当主で最も飾り気のない廟門のような気がします。
松平綱隆は、初代当主・直政の長男で、寛文6年(1666年)に父の死をうけて家督を継ぎました。
父・直政の御廟を月照寺に築き、以降、同寺は松江藩松平家の菩提寺と定めりました。
松江藩成立時からの問題であった財政難に対し、藩札を発行するなどしましたが、改善には至りませんでした。
延宝元年(1673年)
隆俊は隠岐島で失意のうちに亡くなりますが、延宝3年(1675年)綱隆も急死してしまいました。
人々は、綱隆は隆俊の怨霊に殺されたのだと噂したのだそうです。
8代当主・斉恒公の墓所、月潭院御廟。
廟門には、ひょうたんの彫刻が施されています。
手持ちのパンフレットには「お酒の大好きだった殿様」と表記されています。
松平斉恒は、「不昧公」治郷の長男で、文化3年(1806年)に父より藩主の座を譲られました。
父同様に文化の面で活躍した人物で、茶道や俳諧、書道に通じていました。
また、盲目の大学者・塙
この「雲州本『延喜式』」の事業の途上、文化4年(1821年)に保己一が死去、その翌年に斉恒が32歳の若さで急逝してしまいます。
それでもその事業は絶えず、松江藩士・藍川慎らがその遺志を継承し、文化11年(1828年)に完成しました。
4代当主・
松平吉透は、2代綱隆の五男で、3代綱近の弟です。
元禄14年(1701年)兄の藩主・綱近より新田開発によって増加した1万石を分与され、松江新田藩の主となりました。
しかし綱近が眼病に罹り、また世継ぎとなる子が夭折してしまったため、元禄17年(1704年)吉透は綱近の養子となります。
同年家督を譲られ、松江新田藩は廃止となりましたが、翌年の宝永2年(1705年)江戸で急逝してしまいました。
歴代藩主のお墓参り、ラストは天隆院御廟。
門扉の金剛力士像が印象的な、天隆院廟門をくぐると・・・
亀が碑を背負っているという、奇妙な石像?が立っています。
これは寿蔵碑といい、7代治郷公が父の6代
碑は天明2年(1782年)に完成しましたが、宗衍公は同じ年の10月に亡くなってしまいました。
この大亀、明治の文豪・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)の怪談にも登場します。
7代当主となった不昧公は、亀を可愛がっていた亡き父を偲んで、大きな亀の石像を造りました。
ところが、その大亀は夜な夜な動きだし、蓮池の水を飲み、城下で人を食らうようになったのです。
月照寺の住職が大亀に説法をすると、
「私にもこの奇行を止めることはできないのです。何とかしてもらえないでしょうか」
と大亀は涙ながらに懇願してきたといいます。
そこで、亡き藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀に背負わせたのでした。
これよりは、大亀が夜な夜な暴れまわることはなくなったそうです。
松平宗衍は松江松平家6代当主で、享保16年(1731年)に父・宣維の死により数え年3歳で藩主となりました。
延享4年(1747年)成長した宗衍は自ら政治を執るようになり、「御趣向の改革」と呼ばれる積極的な財政振興策を推進していきます。
はじめのうちは改革の成果が出たものの、のちに反対派が盛り返したために改革は頓挫してしまいます。
明和4年(1767年)財政窮乏の責任を取って隠退、次男の治郷に家督を譲りました。
隠居してからの宗衍公は、数々の奇行で評判となったそうです。
江戸の藩邸に、天井からふすままで妖怪や化け物を描いた部屋を造らせ、夏の暑い日は一日中この妖怪部屋にこもっていたといいます。
あるいは、参加者が全員素っ裸という茶会を開催したといいます。
寿蔵碑の怪談も、奇天烈な宗衍公の言動から尾ひれがついてできたのかもしれませんね。
歴代藩主全員の霊廟にお参りし、書院に戻りました。
枯山水の庭園を眺めつつ、お抹茶(450円)を一服。
不昧公以来のお茶の文化が花開き、これに伴ってお茶菓子の生産が盛んになった松江。
京都、金沢に並ぶ「日本三大菓子処」に挙げられる松江にていただくお茶菓子は、「風流堂」さんの「路芝」。
ほのかな甘みとごま風味が、奥行きの深い味わいとなって口の中に広がっていきます。
しかしながらその味わいは、お抹茶という主の前面にでしゃばることなく、そばに侍っているかのよう。
さらにお抹茶をいただけば、よりまろやかな味わいを楽しむことができました。
良きお点前にございました。
最後に本堂へ。
ご本尊の阿弥陀如来像を拝して、外へ出ました。
時刻は午後4時50分、松江の街に日没の時が迫っていました。
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