鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

長町武家屋敷街・第3章~侍の庭

2012-10-28 | どうでしょうロケ地

2 0 1 1 年 1 2 月 2 5 日 ( 日 )

午 前 1 0 時 1 7 分

石 川 県 金 沢 市

長 町 武 家 屋 敷 街



引き続き、長町武家屋敷街。

金沢市老舗記念館、前田土佐守家資料館の両資料館から、大野庄用水の流れる通りを北向きに歩いていきます。
このあたりには、往時の武家屋敷が保存されていて、中に入ることができます。



まず最初に入ったのが、旧野村家住宅

水曜どうでしょう「絵ハガキの旅」では、ミスターだけが中に入りました。
藤村D・嬉野D・大泉さんは入口で待っていたようで、付近にある売店でソフトクリームを買って食べていました。


野村家は、前田利家が尾張の荒子で領主をしていた時代からの家臣です。
加賀藩における石高は1200石で、馬回役の組頭を代々務めてきました。

やがて時代は明治に入り、武家は没落していきます。
長町の武家屋敷の多くは売却され、菜園に変わっていきました。
野村家住宅もその例外ではなく、庭園は縮小し、館は取り払われてしまいます。

昭和になると、加賀藩の豪商の出である久保家の所有するところとなり、豪邸の一部が移築されました。
現在は、母屋が商家、庭園が武家のものとなっています。



野村家・上段の間

まずは母屋からです。
総檜造りの天井、襖絵は狩野派の画家による水墨画と、金に糸目をつけない豪商の母屋ふさわしいものです。
質素を旨とする武家とは一線を画しています。


しかし野村家住宅といえばやはり庭園です。

アメリカの雑誌による日本庭園の格付けでは、兼六園を抑えて世界第2位になったこともあります。
(ちなみに2010年版は16位。くわしくはこちら)
   ⇒ 2010 Shiosai Rankings @Journal Of Japanese Gardenings
(さらに、2013年版は21位。くわしくはこちら)
   ⇒ 日本庭園全国ランキング(Shiosai Project)

世界で何位だと言おうと、ここの庭園はすばらしい。
兼六園とここの庭園は、私が完全に日本庭園にはまったきっかけだったのです。

1年9か月前は春でしたが、今回は冬。
雪に覆われる武家の庭先です。

野村家庭園

野村家庭園

野村家庭園

野村家庭園

野村家庭園

冷たく冴えた白い庭。
池の錦鯉はその寒さからほとんど動きません。

そして庭の一角に居座って動かない無粋な輩。
彼らは一眼レフを構えています。

「どけよ・・・」

心の中で思っていたのですがどうやら顔に出てしまっていたようです。
あまりに露骨に嫌な顔をしていたようで、彼らも少しは遠慮していた様子でした。


2階では300円でお抹茶を飲むことができます。

お茶菓子@野村家

本日1杯目のお抹茶。
雪がしんしんと降る中、静かな雰囲気で飲むお茶もいいものですなぁ~(#^.^#)

2階の窓からは、階下の庭園を見下ろすもできるのですが・・・

野村家の2階から

そうしなくとも十分な佳景を見ることもできます。
そのほうがなんとなく粋な気がします。

ところが、さきほどの一眼レフの輩が2階にやってきました。
きゃつらは、私がぼんやり窓を見ているところに、その窓に立ちふさがり、下を覗きこんでバシャバシャ。

これほどカメラを構える人間に害意を感じたことはありません。
またも露骨に嫌な顔をしたうえで、明らかに聞こえるような舌打ちを連発していました。



次は旧高田家

高田家庭園

高田家馬屋

こちらは馬屋などの一部の家屋と庭園のみが残っています。



最後に足軽資料館

足軽資料館

足軽資料館

足軽とは下級武士のことをいいます。
その家屋は、慎ましやかな生活感ある空間です。
足軽の生活は決して楽なものではなかったようです。




気づいてみれば、この日訪れた場所は見事に石高順になっていました。

前田土佐守(12000石)→ 野村家(1200石)→ 高田家(700石)→ 足軽(100石未満)

武家屋敷街を歩き回ると、いつしか昼食の時刻となっていました。
当時の禄はそれこそ足軽程度でしたが、私はやはり海鮮丼が食べたい!
ということで、前日も訪れた近江町市場へ向かいました。




長町武家屋敷街・第2章~資料館ハシゴ

2012-10-28 | 美術館・博物館

2 0 1 1 年 1 2 月 2 5 日 ( 日 )

午 前 8 時 4 9 分

石 川 県 金 沢 市

長 町 武 家 屋 敷 街



土塀連なる風情ある通りから、大野庄用水の流れる通りへ出ました。

大野庄用水

大野庄用水の流れる通りは、野村家住宅、高田家跡、足軽資料館、老舗記念館、前田土佐守家資料館などが並ぶ武家屋敷街のメインストリートといえます。
ですがここの歩道には消雪パイプがついていないので、シャーベット状の雪が私の行く手を阻みます。

大野庄用水に沿って南方向に歩きます。

南側には前田土佐守家資料館があり、私が最初に入ろうと思っていたのですが・・・・・・開館時刻は午前10時。


資料館の開館まではまだ1時間以上あります。
この雪の中で待たなければならないのか・・・・・・!


すると、土佐守家資料館の向かいで雪かきしている淑女がひとり、私に語りかけます。
「よろしければ寄っていきませんか?」

金沢市老舗記念館

この淑女は金沢市老舗記念館の職員と思われる方でした。
老舗記念館には当初立ち寄る予定はありませんでしたが、淑女のはからいで早めに開館するとおっしゃいました。

入館料は100円。
通りを挟んだ向かいの前田土佐守家資料館との共通券は、350円。
もともと土佐守家資料館に行こうとしていたので、ここで共通券を購入し、老舗記念館に入りました。


「中屋」の看板

老舗記念館の建物は、加賀藩の薬問屋「中屋」の外観を保存、移築、復元したもので、現在は金沢の町民文化の展示施設になっています。


中屋は、戦国時代から始まる薬屋でした。
加賀藩3代藩主・前田利常からは「宿老役」を任ぜられ、以降代々城下町を運営してきたそうです。
また5代・綱紀からは御殿薬の処方を拝領し、藩御用達の薬屋に指定されています。



旧中屋店頭

まずは店頭
番頭(=支配人)、手代(=正社員)が座り、丁稚(=非正規使用人)とともに来客を接待しました。

丁稚はその商家に住込みで働きますが、給金はもらえません。
手代になってようやく給金がもらえるようになります。

主人の間

主人は基本的に表には出ず、少し奥の主人の間で控えているのがふつうでした。

おえの間

おえの間は、手代を中心とした中級クラスの店員がたたずむ部屋でした。
「おえの間」という名は、「お上」がなまったものだそうです。


2階は、金沢の町民文化にかかわる品々が展示されています。

婚礼の内掛け

こちらは婚礼の内掛け。

結納の品々

数々の結納の品々。
花嫁のれんは、婚礼当日に嫁ぎ先の仏間にかけるものでした。

そして数々の物品は工芸菓子と水引細工でできています。
水引細工は金箔や銀箔が用いられとても豪華。

軍配餅 巾着餅

子供が生まれると、男の子のときには軍配餅を、女の子のときには巾着餅を送り、子供の成長を祈願したそうです。


老舗記念館では、町民文化を通して加賀の工芸文化も垣間見ることができました。
土佐守家資料館が開館するまでのつなぎのつもりで入ったのですが、思いのほか素晴らしい品々を見ることができ、商家の生活も学べてよかったです。



さて次は、老舗記念館の向かいにある前田土佐守家資料館

前田土佐守家資料館

こちらは入館料300円。
老舗記念館との共通券を買うと、50円お得となります。


入館してまず目を引くのは、広い館内の中央に展示されている具足。

前田利政所用の具足

この具足は、前田土佐守家の始祖である前田利政所用のものだそうです。


前田土佐守家は、前田利家お松の方(芳春院)の次男・利政を始祖とする家系です。

利政は、父・利家や兄・利長とともに豊臣秀吉に仕え、能登に22万石の所領を与えられました。

関ヶ原の戦役においては利長とともに加賀大聖寺城主・山口宗永を討ち、加賀小松城主・丹羽長重の軍勢と戦いますが(浅井畷の戦い)、痛手を蒙ったため金沢へ兵を退きます。
利長は関ヶ原に参陣すべく、金沢で軍勢を整え再び西進を開始、丹羽長重を降伏させますが、利政は軍勢を出さず能登に戻ってしまいました。
これは、大坂にいた夫人が石田方の人質に取られたためとも、徳川家康の恐喝に屈して母の芳春院を人質に出した利長への反発とも、徳川方が敗北したときに備えたためともいいます。
この態度に対し、家康は利政の所領をすべて没収し、すべて兄・利長に与えました。

利長の死後、弟・利常が加賀藩を相続すると、利政の子・直之は加賀藩に仕え、1万石の俸禄を与えられました。

利政を始祖とする系統は、当主10代のうち4代が従五位下・土佐守に叙任されたことから、土佐守家と称されます。
また、加賀藩の家老である年寄職に就ける8家のひとつでした。



資料館には、利政の母・芳春院の手紙などの文献が多く展示されています。
江戸にいた芳春院は、利政の復権を家康や幕閣にたびたび働きかけていたようで、

「家康さんが利政の追放をといてくれるらしいわよ! あのオヤジがやっと首を縦に振ったのよ」

と利長に書状を送っていますが、その話はついに実現せず、

「あのクソおやじ、利政の件を実行するつもりはないんだわ! あ~やだやだ、なんだか喉痛いのよ」

と(表現は誇張していますが)恨み言めいたことを手紙に書いています。
江戸で幕閣たちとやりあっていた心労からか、芳春院はたびたび病にかかったそうです。


館内をひと回りしたあとは、雪が弱まるのを見計らって外に出ました。



長町武家屋敷街めぐりはまだまだ続きます。




長町武家屋敷街・第1章~絵はがきの旅

2012-10-28 | どうでしょうロケ地

2 0 1 1 年 1 2 月 2 5 日 ( 日 )

午 前 8 時 3 0 分

石 川 県 金 沢 市

長 町 武 家 屋 敷 街



金沢はこの日も雪。

長町武家屋敷街

長町武家屋敷街

武家屋敷の土塀には、こもが掛けられています。
朝早い武家屋敷は、雪がしんしんと降って静寂に包まれています。

つばき@長町

路傍に咲くツバキは綿帽子をかぶり、

消雪パイプ@長町

小径では消雪パイプがフル稼働しています。


加賀藩では、成立当初から中央集権が定立しており、武士はすべて金沢城下に住まうこととなっていました。

そして現在の長町には、中級クラスの武士が集まって住んでいました。
その住まいはを囲う土塀が長~くなったために「長町」という名がついたといいます。

また異説としては、能登畠山氏の家臣であった(ちょう)氏にちなむともいいます。
長氏は、能登畠山氏の滅亡後に前田利家に仕え、加賀藩の有力な家臣となっています。



大野庄用水

長町を流れるのは、金沢最古の用水路・大野庄用水
武家屋敷街にいっそうの風情を醸しだします。

大野庄用水

大野庄用水


武家屋敷街の一画。

絵葉書@長町武家屋敷街

絵葉書@長町武家屋敷街

中級武士の屋敷の長屋門。
正しくは新家(あらいえ)邸長屋門【金沢市指定保存建造物】といいます。

Googleで「長町 絵はがき」で検索すると、この長屋門がピンポイントで出てきます。
そう・・・・・・これぞ水曜どうでしょう「絵ハガキの旅」で大泉さんが引いた絵はがきのスポットです。


引いた絵はがきと同じ画を探すという「絵ハガキの旅」
長屋門の窓枠だけ、という絵はがきを引いたため、どうでしょう班は長町を歩き回ることになります。
新家邸長屋門は武家屋敷街のメインストリート?というべき風情ある通りにあるので、あっさり見つかりそうなものなのですが・・・・・・
大野庄用水の道から探索を始めたのでしょうか、野村家庭園の中に入るなど見当違いの所を回った挙句にようやく見つけました。

そこで次の絵はがきをミスター鈴井貴之氏が引くのですが・・・・・・
その絵はがきはまたしても武家屋敷! そして所在地は愛媛県内子!!

しかも金沢の前の絵はがきが「霊山寺」(徳島県・四国八十八箇所第1番札所)!
その絵はがきを引いたのは、これまたミスターでした!!

この因縁のような展開にミスターは「四国は呼ぶねぇ~」と嘆きます。
そして「四国が『地獄』に聞こえる」という名言を残したのでした。




とりあえずこの日は、金沢市老舗記念館前田土佐守家資料館野村家住宅を訪れる予定でした。





金沢21世紀美術館

2012-10-28 | 美術館・博物館

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 後 2 時 3 9 分

金 沢 2 1 世 紀 美 術 館



金沢21世紀美術館――。


私は芸術の類にはとんと疎く、基本的に美術館には行きません。
ましてや旅行に行ってわざわざ美術館に行くということはほぼないでしょう。

私にとっての希少なる例外がこの金沢21世紀美術館でした。

ここに来るきっかけというのが、初めて金沢を訪れる際、読みに読み込んだ「るるぶ」やら「まっぷる」やらでした。
美術館で見開き全部を使って紹介するのであるからには、外すことのできないところなのだろう。
そう思い、ここをコースに組み込んだのでした。


そして1年9か月ぶりの再訪――。

金沢21世紀美術館

この美術館は、外から見るとガラス張りの円形になっていて、美術館そのものがひとつの作品となっているかのようです。
そして中は、無料のゾーン、有料のゾーンと特別展ゾーンに分かれています。
有料ゾーンに立ち入るには300円、特別展ゾーンへはさらに特別料金を支払うこととなります。


まずは無料のゾーンを見て回ります。


「雲を測る男」(ヤン=ファーブル)

雲を測る男

作品のモチーフは、独房に収監された中で鳥類学者になった実在の囚人です。
しかし刑務官はその囚人に対して、鳥を観察することを禁じてしまいます。
「雲でも測って暮らすさ」 その囚人はつぶやいたといいます。


この作品は屋外に展示されていて、無料ゾーンの屋内から見ることができます。
この日はあいにくの曇天、とても雲を測る日ではなさそうでした。


「緑の橋」(パトリック=ブラン)

緑の橋

この作品も屋外展示、「雲を測る男」の足元にあります。


黒い大きな円を描き、室内の照明を暗くして「無」を表現した作品など、ありとあらゆる方法を用いて表現をなす作品が展示されています。
大半の作品は、学芸員女史がつきっきりで監視をしているので、撮影はできません。


「スイミングプール」(レアンドロ=エルリッヒ)

スイミングプール・上

金沢21世紀美術館を代表する作品です。
プールの下から上を見たらどうなるか!?を体験できる作品です。
普段は水上から湖底をのぞく人が大勢いるのですが、この日はあいにくの悪天候。
中庭にあるプールに近寄る人は全くおらず、監視役の学芸員女史すらいません。

300円払って、プールの湖底に来ました。
湖底は有料ゾーンにあります。

スイミングプール・下

予想どおり、下から見上げても誰もいないので、作品の面白味が激減です・・・(^_^;)


この美術館は、建物の外にも作品が置かれています。


「アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3」(フローリアン=クラール)

アリーナのための・・・

外の芝生から生えているラッパは、つながっているとかいないとか。


「カラー・アクティヴィティ・ハウス」(オラファー=エリアソン)

カラー・アクティヴィティ・ハウス

赤・青・黄の3色が、いろんな色を織りなします。
これも晴れた日のほうが映える作品ですね。



他の作品は撮影禁止のため、学芸員がビタっと張り付いていたため、撮れず。
(今回の画は、撮影禁止じゃないやつらだけど、ブログに載せてだいじょうぶかなぁ?)



そして美術館の敷地には、なぜか松濤庵という茶室があります。

松濤庵

江戸時代末期の前田家の隠居所に造られ、昭和初期に整備されました。
1979年(昭和54年)に金沢に移築され、現在に至ります。

松濤庵2

松濤庵3

やっぱ俺には、小難しいアートよりも
こういう茶室の方が性に合うねぇ~





茶室を出ると、あたりはだいぶ暗くなり始めていました。

このあとは、バスに乗って金沢の繁華街・片町に行って食事をしようと思いました。
が、「餃子の王将」を見つけた途端、反射するように入店。
そしてガッツリ食べてしまいます。

それでもなんとかがんばって歩きましたが、片町の隣にある香林坊で「スタバ」(KORINBO109店)を見かけ、これまた吸い込まれるように入店。
冬なのにアイスモカを飲みながら休憩しました。

一服した後、みたびバスに乗って金沢駅東口にたどり着き、そしてホテルへと戻りました。

金沢でもう1泊!





雪よ止むべし・・・尾山神社

2012-10-28 | 神社

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 後 2 時 1 0 分

石 川 県 金 沢 市

尾 山 神 社



尾山神社にたどり着いたとき、風雪+1時間に2回の割合でカミナリという最悪の天候でした。

尾山神社・東神門

神社の裏口にあたる東神門【国指定登録有形文化財】から境内に入ります。


尾山神社の庭園もなかなかのものなのですが・・・

尾山神社・庭園1

尾山神社・庭園2

こう風雪が強いとなると、観賞なんてまったくできません。
早いとこ参拝して帰ろうかなぁ。


尾山神社の祭神・前田利家の銅像。

前田利家公像

「赤母衣衆」という、織田信長の側近を務めていた若かりしころの銅像です。

金鯰尾兜

前田利家所用の「金鯰尾兜」(←読めない)の像?

そして前田利家の正妻・お松の方(芳春院)の石像。

お松の方石像

お松の方も尾山神社の祭神になっています。


神社でお参り。

尾山神社拝殿

「この風雪を止ませたまえ!」
「カミナリ止めて!!」

尾山神社・ご朱印

拝殿の脇にある社務所でご朱印をもらい、神社をあとにします。


尾山神社・神門(境内側)

表門は、尾山神社のシンボルともいうべき神門【国指定重要文化財】。

尾山神社・神門(入口側)

明治に建てられた神門は、見た目にもわかるように和洋折衷のめずらしい造りになっています。
神社建築で和洋折衷のものはそれほど多くないのだそうです。


神門から境内を出ました。
そのころには、ひどかった天候も落ち着きを取り戻していました。

たった5円の賽銭にあれだけの霊験を示す前田利家公・・・さすがは戦国の「律義者」です。



尾山神社から、金沢のショッピング街・香林坊こうりんぼう方面へ歩きます。

旧第四高等中学校本館

旧第四高等中学校本館【国指定重要文化財】。
旧四高は、現在の金沢大学にあたります。
現在は、石川四高記念文化交流館と石川近代文化館として一般に開放されています。



そしてこの日最後の目的地・金沢21世紀美術館へ歩いていきました。




轟く雷鳴

2012-10-28 | 移動の旅
2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 4 7 分

金 沢 城 黒 門 跡



金沢城の黒門跡から退城してすぐのところに、黒門前緑地という一画がありました。
このあたりは豪姫の住居があったそうです。


豪姫は、天正2年(1574年)に前田利家とその正妻・まつの方(芳春院)の四女として生まれました。
当時実子のいなかった羽柴(豊臣)秀吉の養女となり、秀吉夫妻のもとで不自由なく成長しました。
同じく秀吉夫妻に養育されていた宇喜多秀家に嫁いで岡山城に移り、備前の方と称されました。
豊臣5大老のひとりであった秀家は、関ヶ原の戦いで西軍の主力として奮戦しますが、敗北。
2年後に秀家が八丈島へ流罪となると、豪姫は金沢に戻されました。

秀家との夫婦仲はとても良好だったようで、宇喜多家が八丈島へ流されたあとは、幕府の許可を得たうえで米などの物資を宇喜多家へ送り続けたそうです。
豪姫は寛永11年(1634年)に亡くなりますが、加賀前田家はその遺志をくんで宇喜多家への仕送りを続けました。
仕送りは明治維新により宇喜多家が赦免されるまで続いたそうです。



そして黒門前緑地には、金沢出身の偉人である高峰譲吉の旧家が移築されています。


高峰家は、譲吉の父の代から加賀藩の御典医(主治医)でした。
譲吉も医学を志学してイギリスへ留学し、帰国後は農商務省に入省します。
当時の上司であった高橋是清のもとで特許制度の整備に尽力しました。

その後はアメリカへ永住。
デンプンを消化する酵素アミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出して生成する「タカジアスターゼ」を発明。
またアドレナリンの抽出研究をすすめ、アドレナリンを結晶化することにも成功しました。

のち「タカジアスターゼ」の特許権を保有した三共製薬(現在の第一三共)の初代社長に就任しました。



黒門前緑地1

黒門前緑地2

旧高峰家

中には無料で入ることができるので、少しの間ゆっくりさせてもらいました。


外に出ようとすると、雷鳴!!
雪も降りだし、風も出てきました。

三国志の劉備さんと同じく雷が大嫌いな私は、もう少し休むこととしました。
(※「曹操酒を煮て英雄を論ず」・・・『三国志演義』第21回より)


雪国を傘なしで旅する私に、こちらの管理人である淑女が、置き去りにされたビニール傘をくださいました。
つくづく北陸の淑女は優しいものです!!

くだんの淑女は、黒門前緑地の近くにある穴場的スポットを教えてくれました。
昼食後にでも行ってみるとしますか。


雷が鳴っていないことを確認して、外に出ました。



近くにある近江町市場での昼食。

近江町市場

やっぱり北陸の海の幸を豪勢に食べたい・・・

チャンピョンカレー

今日のランチは海鮮丼ではなくカツカレー。
金沢が誇る?B級グルメ「チャンピョンカレー」

金属の器。
スプーンではなくフォーク。
キャベツの千切りが同居。

なかなかうまいっ!

でもやっぱり海の幸が食べたいなぁ・・・
ということで、しばらく近江町市場を歩き回りました。

近江町コロッケ

まずは「近江町コロッケ」

それから、名前は忘れてしまいましたが、タコ入りの練り物。

がっつり食べたところに、さらに少しずつ食べていきます。
私が旅先でムダ遣いするパターンはこんな具合。
私が旅先で太っていくパターンもこんな具合。

結局海鮮丼は食べることなく、近江町市場を後にしました。



黒門前緑地の淑女が教えてくれた穴場的スポットへ行ってみたのですが・・・

入れない旧園邸

旧園邸【金沢市指定文化財】はかたくカギで閉められていました・・・
これじゃああんまりにも悔しいので、扉のすきまからのぞいた画をお届けします。

旧園邸をのぞき見る

旧家の小粋な庭を、文字通り垣間見ることで心のなぐさめとしました。



次の目的地は、尾山神社
加賀藩藩祖・前田利家とその正妻・まつの方を祭神とする神社・・・


雷鳴が轟く!!

私は恥も外聞もなく他家の軒下に逃げ込みました。
そこのお宅は表千家のお茶の先生のようでした。

家主が現れることはなく、15分ほど軒を借りて、そのまま後に。
ほんと、ありがとうございました。



風雪が強まる中、

尾山神社・東神門

ほうほうの体で尾山神社の裏口にあたる東神門【登録有形文化財】にたどり着きました。




金沢城・終章~石垣博物館

2012-10-28 | 城郭【日本100名城】
2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 2 2 分

金 沢 城 本 丸



金沢城は、「石垣の博物館」という異名があるそうです。
多種多様の石垣が残っているというので、城内を歩き回ることとしました。



その前に、本丸に到達する前に見てきた石垣を紹介。

金沢城石川門の石垣

まずは兼六園方面の城門・石川門の石垣。
左側は、形の整った割石を積む打込接うちこみはぎ
右側は、形を徹底的に整えて隙間なく積む切込接きりこみはぎ

切込接は比較的新しい年代のもので、金沢城では出入口などの重要な箇所に用いられました。

石垣の刻印

石垣の石をよく見ると、当時の技工たちの刻印が残っています。
これらの刻印は、作業分担を表しています。

金沢城の石垣from兼六園

金沢城東側(兼六園側)の石垣。
こちらは、年代の古い野面積のづらづみ
自然石や、それを割った粗石をそのまま積み上げたもの。

金沢城大手門跡

大手門跡に残る石垣は打込接。
そしてここの石は鏡石という巨大な石が用いられています。
大手門は城の正面玄関にあたるので、城主の権勢を表すために巨石が配置されます。



本丸まで登った後は、城内をなるべくくまなく歩き、さらに石垣を見て回ることとしました。

金沢城鉄門跡の石垣

本丸を守っていた鉄門くろがねもんの跡に残る石垣です。
こちらは重要な門ということで、技術の高い切込接が用いられています。

金沢城薪の丸の石垣

薪の丸の石垣は比較的大きな石の打込接です。
薪の丸には宝物庫がありましたが、かつてはその名のとおり薪を保管する場所であったといいます。

金沢城いもり坂付近の石垣

いもり坂付近の石垣は「金場取り残し積み」という切込接の一種が用いられています。
切れ目は隙間なく整えられているが、表面は粗いままというのが個性的です。
この近くには庭園があったため、見栄えの良い石垣が造られたそうです。

金沢城・色紙短冊積み

庭園があった玉泉院丸の一帯には、さらに趣向を凝らした石垣が見られます。
黒いV字の石組みからは水が流れ、その背景には短冊のような石を配置しています。

金沢城二の丸北面の石垣

二の丸北面の石垣は、完成された打込接。
当時の加賀藩の技師は、「城内でも指折りの石垣」と賞賛したといいます。(自画自賛?)

金沢城土橋門の石垣

北の丸と三の丸をつなぐ土橋に据えられた土橋門の石垣。
正六角形の切込接がとても印象的です。
これは亀甲を表したもので、防火の願いが込められているといいます。



ここまでで金沢城をほぼ1周したことになります。
土橋門からは、大手門より少し西側の黒門跡と歩いて、そのまま金沢城を出ました。




金沢城・第2章~白銀の櫓

2012-10-28 | 城郭【日本100名城】
2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 2 6 分

金 沢 城 橋 爪 門



金沢城橋爪門

橋爪門をくぐった先が、金沢城の二の丸となります。

しかし橋爪門のところでは発掘調査が行われていたようで、この日は通れませんでした。
別の通り道から二の丸へと進みました。

金沢城菱櫓などfrom二の丸

二の丸には御殿があり、加賀藩の政庁となっていました。
橋爪門は、その御殿への正門の役割を担っていたのです。


青く澄んでいた金沢の空は、いつの間にか鉛色になっていました。
そして、冷たい雪が舞い降りてきたのです。


二の丸と三の丸を隔てる菱櫓・五十間長屋・橋爪門櫓の中へ。

工法は往時のものを用いており、材木なども石川県産のもののみを用いているそうです。
また中にエレベータが設置されてたりと、いたるところに現代的な工法も見られますなぁ。

金沢城菱櫓の構造

そして「菱櫓」という名の由来が上の画像。
ちょっとわかりにくいのですが、構造が正方形ではなく、80度と100度の菱形になっています。
こうすることによって、櫓の視野が広くなるのだといいます。


金沢城本丸from菱櫓

菱櫓から望む本丸
次はその本丸に行ってみました。

菱櫓などfrom本丸

本丸から見た菱櫓(左)・五十間長屋(中)・橋爪門櫓(右)。

金沢城三十間長屋

そして本丸には、現存する三十間長屋【国指定重要文化財】がひっそりと、ホントにひっそりと建っていました。
菱櫓だの橋詰門だのよりも、こちらのほうが歴史的価値がずっと高いのですが、ホントに見向きもされていませんでした。
三十間長屋の付近には工事中のオレンジのバリケードが無造作に立てられている始末です・・・。

本丸にはもうひとつ、鶴丸倉庫【国指定重要文化財】という価値の高い建造物があったのですが、私はスルーしてました(^_^;)




金沢城・第1章~堅牢なる城門

2012-10-28 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 4 1 分

お 堀 通 り



兼六園を出ました。
橋が架かっていて、その先に金沢城があります。

兼六園と金沢城を隔てているのは、お堀通りという幹線道路で、その名のとおりかつては金沢城の水濠でした。


兼六園側からは、右から順に、白をベースに黒い模様が施された城壁、堅固な門、そして整った石垣をみることができます。

金沢城の城壁from兼六園

金沢城石川門一の門

金沢城の石垣from兼六園

この門は、金沢城の城門で唯一現存する石川門【国指定重要文化財】です。

金沢城石川門二の門

兼六園からの通用門で、搦め手(裏口)にあたります。
屋根瓦は鉛でできており、雪国の寒冷な気候により瓦が割れないようにしたとも、鉄砲玉に加工できる鉛を用いて籠城戦に備えたともいいます。

特徴的な模様の城壁は海鼠なまこといい、白漆喰に瓦を埋め込んだつくりとなっています。
この壁には鉄砲狭間が隠されており、瓦を外すと狭間になる仕組みです。

石川門の石垣はあまりに端正に整って無駄がなく、なんだか近現代に再建されたかのような印象を受けます。
しかしこの石垣も江戸時代の造作です。



石川門から中は、三の丸です。

金沢城三の丸

広大な三の丸の奥に、白銀のように輝く櫓が立ち並びます。
右から菱櫓、長々と続く五十間長屋、左に橋爪門続櫓です。

これらはいずれも復元されたもので、当時の工法を用いてはいますが、バリアフリーや防災にも配慮されています。
中に入るには、三の丸の券売所で入城料300円を支払う必要があります。
私は兼六園で購入した共通券(500円)を持っていたので、券売所をスルーします。なお、共通券は100円お得です。


これらの櫓に進む前に、いったん大手側へ。

金沢城大手堀

大手側にある大手堀は、金沢城で唯一現存する濠だそうです。

金沢城大手門跡

大手堀から三の丸への入口(大手門跡)です。
石垣は、表面が整形された打込接うちこみはぎです。
ひときわ目立つ大きな石は鏡石といい、城主の権勢を表すもので、正面入口にあたる大手門に据えられています。この石が金沢城最大の石です。



大手門跡から入った広場(新丸広場)から。

金沢城河北門&菱櫓

右側は、三の丸を望む菱櫓
左側は、三の丸を守る河北門

金沢城河北門

河北門は、石川門、橋爪門とともに「三御門」と称された重要な門で、大手門からの道の途上にあるため正門の役割をしていました。
「三御門」が大火で焼失した時も、真っ先に再建されています。
河北門は明治に入って撤去されますが、平成22年に130年ぶりに再建されました。

一の門の脇にはニラミ櫓台
1759年の大火前には隅櫓があったそうですが、焼失後には太鼓塀を巡らすのみとなりました。

金沢城河北門二の門

重厚な河北門二の門
外観は石川門と似た感じもしますが、正門であるため規模は一回り大きくなっています。


河北門をくぐると、

金沢城菱櫓

さきほどの菱櫓

金沢城五十間長屋

五十間長屋橋爪門続櫓に、

金沢城橋爪門

「三御門」の一、橋爪門に着きます。




兼六園・終章~蒼天

2012-10-28 | 公園・庭園

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 1 4 分

特 別 名 勝 ・ 兼 六 園



成巽閣の赤門から退出し、再び兼六園に戻りました。


この日の天気予報では、金沢市内は曇りだ~雪だ~雷だ~と報じていましたが・・・・・・

兼六園・晴天の霞ヶ池とことじ灯籠

兼六園・晴天の霞ヶ池と唐崎松

兼六園・晴天の霞ヶ池と内橋亭

兼六園からの卯辰山

括目すべし! わが晴れ男の実力を!!

朝は曇り空だった園内を再びめぐり、姿を変えた景色に魅了されます。



この晴天のまま、お堀通りを隔てた向かいにある金沢城へ。



この時、金沢気象台の天気予報は見事に外れたかに見えたのでした。