鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

成巽閣

2012-10-28 | 公園・庭園

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 前 9 時 4 7 分

石 川 県 金 沢 市

成 巽 閣



兼六園に隣接する成巽閣【国指定重要文化財】。



成巽閣は、文久3年!(1863年)に加賀藩13代藩主・前田斉泰が、母・真龍院の隠居所として建てた御殿です。
建築当時は、たつみ御殿」と呼ばれたが、後に成巽閣と改められました。

一階は書院造で、謁見の間や寝食の間などが配置され、100万石の大大名家にふさわしい風格を備えています。
二階は数奇屋造になっており、色彩や材質に凝った部屋となっています。

大名の奥方のために建てられた建物ということでも貴重なものだそうです。
江戸時代末期の大名屋敷の代表的建築として、国の重要文化財に指定されており、付随する庭園「飛鶴庭」も、国の名勝に指定されています。




成巽閣赤門

兼六園からの通用門・赤門

成巽閣飛鶴庭

赤門側に広がる庭園「飛鶴庭」【国指定名勝】。

成巽閣飛鶴庭



昇殿する前に入場料700円を支払います。
正直いささか高いかも。

コインロッカーもあるので、かばんを預けます。
コイン(100円)は後で戻ってきます。

それと、館内は撮影禁止のようです。
それでは当旅日記の読者様に申し訳が立ちませんので、特別のルートから入手した画像を特別に公開することとしましょう。



1階、謁見の間

成巽閣謁見の間・欄間

奥方が謁見する公式の部屋。
上段の間18畳、下段の間18畳で床の間と違い棚がこしらえてある書院造。
欄間は透し彫りで、かつ岩絵具で彩色が施されています。


謁見の間から続く廊下には、それぞれ「鮎の廊下」「貝の廊下」という名があります。
足下の方、障子の腰板に鮎の絵、貝の絵が描かれています。

「亀の間」「蝶の間」という部屋も同じようになっています。
障子の腰板に亀、蝶が描かれています。
そしてその数は1匹、2匹と増えていくのだが、これは数を変えることによって腰板の順序を示しているのだといいます。


「松の間」は「蝶の間」に隣接する、奥方のプライベートルームであったところです。

成巽閣松の間

この部屋の腰板には、

成巽閣松の間・腰板

オランダ渡来のガラス板が使われています。



2階、まずは「群青の間」

成巽閣群青の間

この部屋の天井は群青(ウルトラマリンブルー)が用いられています。


「群青の間」のとなり、「網代の間」

成巽閣網代の間

網代張りの天井もなかなか個性的です。


次いで「越中の間」

成巽閣越中の間

越中立山の杉を用いていて、隅の三角形が網代張りになっています。



加賀百万石が育んだ洗練された技術がふんだんに用いられています。
母親の隠居御殿であるから、質素な部屋のなかでさえも美的なものを感じられます。


赤門から退出し、再び兼六園へ。




兼六園・第3章~日輪降臨

2012-10-28 | 公園・庭園

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 前 8 時 5 2 分

特 別 名 勝 ・ 兼 六 園



兼六園唐崎松

霞ヶ池のほとりにある唐崎松から、兼六園をさらに散策します。



付近の眺望台から。

兼六園眺望台から

六勝の一つ「眺望」を味わうことができる。
左は海側から内灘砂丘日本海能登半島、正面は卯辰山、右は富山県境の医王山を望むことができるそうです。
この日はなんとか日本海は見えましたが、正面の卯辰山以外はあまり見えませんでした。


霞ヶ池からは、池に注ぐ辰己用水に沿って歩いていきます。


辰己用水にかかる雁行橋

兼六園雁行橋

雁が夕空に列をなして飛んでいく様をかたどっています。
石の一枚一枚が亀の甲の形をしていることから「亀甲橋」とも言われ、この橋を渡ると長生きするとされます。
現在は石の磨耗が著しいため、通行できなくなっています。


次は七福神山

兼六園七福神山

七福神になぞらえた七つの自然そのままの石を配置しており、別名を「福寿山」ともいいます。


さらに曲水にそって歩くと、園内唯一の銅像が立っています。

明治紀念之標

明治紀念之標
中央に日本武尊の像、左に石川県戦士尽忠碑
西南戦争で戦死した石川県の軍人を慰霊するものです。
銅像の身長は5.5メートルで、日本で最初に建てられた銅像といわれています。
両脇に植えられた赤松は手向松たむけまつと呼ばれ、京都の東西両本願寺の門跡から移されたものです。


日本武尊像が見つめる先には、ひときわ豪快な松が立っています。

兼六園根上松

大小40数本もの根が地上にあらわになっている根上松
加賀藩13代藩主・前田斉泰が土を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土を掘って根をさらしたものだと伝えられています。

兼六園根上松

お!ついに日輪がその姿を現した!
見るがよい気象庁! 感じるがよい金沢気象台! わが晴れ男の実力を!!


ねずみ色の空が徐々に白く、そして青くなっていきます。
辰己用水を歩く足取りも軽くなっていきました。
これが現代文の「故郷」で習った「情景一致」ってやつですねぇ。

(※「故郷」 中国近代文学の父・魯迅の作品。脚がコンパスのようだと形容されたヤンおばさんがなぜか印象的。)


兼六園辰己用水

兼六園花見橋から

兼六園鶺鴒島

辰己用水に浮かぶ中洲・鶺鴒せきれい

兼六園鶺鴒島

伊弉諾神いざなぎのみこと伊弉冉神いざなみのみことが、男女和合の方法を鶺鴒から教わったという故事からその名が付けられました。
正面に「三社」と書かれた石額がかかった鳥居を据え、その奥に陰陽石(誕生)、相生の松(結婚)、五重の石塔(死)を配置して、人生の三儀式を表しているそうです。




辰己用水は、園内の築山・山崎山から出ています。

加賀藩3代藩主・前田利常が、金沢城の防火用水を確保するためなどに設置した用水で、兼六園の曲水として用いられています。
用水の取入れは、金沢の南を流れる犀川の上流で、約10km離れた上辰巳町にあります。



山崎山のあたりが、兼六園の東端になります。
そしてその隣には、成巽閣【国指定重要文化財】という加賀藩主夫人の別荘が建っています。

私は兼六園をいったん離れ、1年9か月前は存在すら知らなかった成巽閣に入りました。




兼六園・第2章

2012-10-28 | 公園・庭園

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 前 8 時 3 5 分

特 別 名 勝 ・ 兼 六 園



兼六園・霞ヶ池

兼六園の大泉水である霞ヶ池の周囲を歩き回りました。


霞ヶ池に臨む内橋亭

兼六園霞ヶ池・内橋亭

そのそばの茶屋では、加賀名物のあんころもちが食べられますが、ベースキャンプのビジネスホテルでパンを6個食べてきた私は先に進みました。


霞ヶ池に臨む栄螺さざえ

兼六園栄螺山

霞ヶ池を掘り拡げたときの土で造った築山です。
登り道がらせん状になっていて、形がさざえに似ているので、その名がついています。

栄螺山からの眺望。

兼六園・栄螺山から望む霞ヶ池&宇辰山

向こうの卯辰山を借景にした霞ヶ池の宏大な眺望。
この日は風がなかったので、霞ヶ池もまた水鏡のようでした。


小道はいったん樹叢に入り、黄門橋へ。

兼六園黄門橋

謡曲石橋しゃっきょうを題材につくられた橋です。
二枚の石を使っているように見えるが、じつは一枚石でできています。
加賀の職人の見事な仕事のひとつです。


樹叢を抜けて、再び池畔へ。

兼六園霞ヶ池・唐崎松

向こう側に見えるのは唐崎松

兼六園霞ヶ池・蓬莱島

別方を見渡すと、霞ヶ池に浮かぶ蓬莱島


空を見ると、空を覆う雲に日輪の影が映ります。


霞ヶ池の池畔にあって、いささか目立たないところにある虎石

兼六園虎石

虎が前足を低くして吠える姿を連想させることから、この名が付けられました。
兼六園を守護する魔除けの石の一つなのだそうです。


そして、兼六園といえば…

兼六園・ことじ灯籠&唐崎の松&霞ヶ池

兼六園のシンボルというべき徽軫ことじ灯籠
足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱ことじに似ているのでその名が付いたといいます。

そばにかかる虹橋には多くの観光客が集まります。

霞ヶ池と徽軫灯籠を望む兼六園随一の撮影ポイントで、人だかりができる・・・のは午前9時を回ってから。
早い時間に兼六園を訪れたのでまだ人も少なく、余裕をもってこの画をお送りできました。

兼六園ことじ灯籠

虹橋の向かい側からの徽軫灯籠。


冬の兼六園に見られる…

兼六園唐崎松

兼六園唐崎松

雪吊りを施された唐崎松
この松は、加賀藩13代藩主・前田斉泰が、琵琶湖畔の唐崎から種子を取り寄せて育てたものです。
雪吊りは、雪の重みによる枝折れを防ぐためのものです。


霞ヶ池に注ぐ辰巳用水にそって、さらに園内を散策します。




兼六園・第1章

2012-10-28 | 公園・庭園

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 前 7 時 5 5 分

特 別 名 勝 ・ 兼 六 園



金沢駅東口のバスプールから北鉄バスに乗り、兼六園下バス停で下車。
この日の朝、雪は降っていませんでしたが、前日までの積雪に幾度も足をとられそうになりました。



1年9か月ぶりの兼六園。
(いままで1年半と申しましたが、正しくは1年9か月でした)

この兼六園こそ、私が日本庭園にハマるきっかけとなった庭園なのです。
本来は城攻めの旅でありますが、ここだけは何時間かけてもいい!と考えていました。



この日は、石川県民なら無料で園内に入れるようでした。
・・・・・・千葉県民の私は、潔く入園料を支払いました。

入園料は、大人300円、小人100円。
私は、この後金沢城に登城する予定でしたので、兼六園との共通券(500円)を購入しました。



兼六園の北西側、桂坂入口から園内に入ります。


まずは常盤ヶ岡です。

兼六園・常盤ヶ岡

噴水がぽつんと1基。

兼六園・日本最古の噴水

地形上高いところにある霞ヶ池から水を引き、自然の水圧で噴き上がっていて、通常は3メートルほどの高さまで上がるようです。
金沢城内に設置されていた噴水の試作品であったとされ、日本最古の噴水とされます。

木々には、積もった雪で枝が折れるのを防ぐために雪釣りが施されています。


兼六園の二大泉水のひとつ瓢池ひさごいけ

兼六園・瓢池

瓢池付近はかつて「蓮池れんち庭」と呼ばれていました。
蓮池庭が拡張されて現在の兼六園が形成されました。

瓢池の中島に立つ海石塔
奥に見えるはみどり

兼六園・瓢池・海石塔

1年9か月前の春に訪れた時は、瓢池の中島に植わっているシダレザクラが満開でした。

兼六園・瓢池・シダレザクラ

この冬は雪月花で満開でした。

兼六園・瓢池・ナンテン

綿帽子をかぶる赤いナンテンの実がなんともイイ!

瓢池に臨む茶室。

兼六園・夕顔亭

園内で最も古い建物・夕顔亭
壁にひょうたん(夕顔の実)の透かしがあるので、この名があります。

兼六園・瓢池

まさに明鏡止水!


瓢池から開けたところへ。

兼六園・曲水

兼六園には、ところどころに曲水(小川)が流れています。

梅林にぽつんと停まる一隻の舟。

兼六園・舟之御亭

舟をかたどったあずまや・舟之御亭ふなのおちん
春に香る梅の見どころでもあります。


そして兼六園のメインエリア・霞ヶ池へ。

兼六園・霞ヶ池

空を映す霞ヶ池の水面は、ようように蒼くなっていくようでした。


「天気は雪」と報じていた金沢気象台の予報は見事に外れたようだな・・・フッ。

私はそう思いながら、軽い足取りで園内を回っていきました。




金沢で一泊!

2012-10-28 | 移動の旅

2 0 1 1 年 1 2 月 2 3 日 ( 天 皇 誕 生 日 )

午 後 3 時 4 0 分

富 山 県 高 岡 市



前田利長公墓所を退出すると、またも雪が強くなりだしました。
高岡に着いてからも、傘を買わないまま来てしまいました。
とにかく早急に高岡駅に戻るしかありませんでした。


高岡駅に着くと、待ち時間があったので何か食べようかな~と思ったが、食事のできそうなところが見当たりませんでした。
キオスクでスナック菓子を買い、小腹を満たしつつ列車を待ちました。


JR高岡駅3番のりば 16時31分発 +遅れ8分
北陸線 普通 金沢行き
金沢駅4番のりば 17時18分着(遅れ8分)


金沢駅に到着した私は、街ブラをする体力もなかったので、まっすぐにホテルをめざしました。
今回宿泊するホテルは、金沢駅西口から歩いて5分ほどのところにあった・・・のですが、雪と宵闇で視界が悪くなっていたため、20分ほど道に迷ってしまいました。

ホテルにチェックイン。
「じゃらん」で2か月前に予約したこのビジネスホテルは、朝食付きで1泊3,200円程度。
今回の旅ではこのホテルに3泊する予定でしたが、1万円でお釣りがくるという格安っぷりです。

客室に入って手荷物を肩から下ろし、お風呂に直行。
前日の出勤前の朝風呂以来、約36時間ぶりのシャワーです♨
夜行列車であまり眠れなかったのと、寒い風雪に長時間さらされたのとで疲労がたまっていたため、風呂から上がるとベッドの中でまどろみました。


午後8時ごろ起床し、夕飯を食べに金沢駅の駅ビルへ歩きます。
この日は「八番ラーメン」という北陸の有名チェーン店に入りました。
「八番」とは、北陸を縦断する国道8号線から来ているそうです。
ここではメインメニューとされる野菜ラーメンを食べました。


ラーメンを食べたあとはまっすぐホテルへ戻り、早々に床に就きました。





2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 前 6 時 2 0 分

起 床



朝風呂のシャワーで心身ともに覚醒。
かばんひとつを手荷物にして、ホテルのフロントに下りていきます。

朝食はフロント近くのロビーで、パンのバイキングをいただきます。
パン6個とゆで玉子2個とオレンジジュース、コーンポタージュ2杯と、朝食にしてはかなりガッツリ食べ、北陸の気候に備えます。
朝食はこの日を含め3日間、パンと玉子とスープとジュースでした。


朝食で満腹になる前に出立します。
徒歩で金沢駅西口、そして東口へ出てバスに乗車、金沢の街へ繰り出します。




静寂に包まれる前田利長公墓所

2012-10-28 | 寺院仏閣

2 0 1 1 年 1 2 月 2 3 日 ( 天 皇 誕 生 日 )

午 後 3 時 1 0 分

富 山 県 高 岡 市

八 丁 道 を 移 動 中



瑞龍寺を出て、再び八丁道を歩きます。


寒い雪の中を歩き回ったため、少し小腹が空いてきました。

事前に調べた「高岡コロッケ」なるものを食べたいと思っていました。
高岡に着いて相当時間もたっていますが、コロッケを売っている店には1軒も出くわしません。
八丁道沿いの土産物屋も、ソフトクリームは売っているようでしたがコロッケはありません。

「アイスクリームは冬に食べるのが一番おいしい」という持論を日頃展開している私といえど、風雪をもろに受けながらソフトクリームを食べられるほどの気力はありません。


そうしてただただ八丁道を歩いて、前田利長公墓所に着いてしまいました。

前田利長公墓所・入口

前田利長公墓所

鳥居の先には水濠があり、墓所は水濠に囲まれています。

前田利長公墓所2

固く閉ざされた扉の隙間から垣間見る利長の墓。
武将の墓では日本一の規模を誇ります。
うっそうと茂る入口とは対照的に、中は意外と広くなっています。


風は弱まってきました。
中には観光客とおぼしき男がひとりだけ。



静寂の結界に、しばし物思いにふけっていきました。




匠の精緻!瑞龍寺

2012-10-28 | 寺院仏閣

2 0 1 1 年 1 2 月 2 3 日 ( 天 皇 誕 生 日 )

午 後 2 時 2 0 分

富 山 県 高 岡 市

高 岡 山 瑞 龍 寺



雪がしんしんと降っている高岡山瑞龍寺
越中が誇る名刹には、天候にかかわらず多くの参拝客が集まっていました。

拝観料は500円。

私は傘ももたずにやってきてしまいました。
受付の方は、北陸の雪をなめてかかる旅人に傘を貸してくれるとおっしゃいました。
つくづく高岡の人々は優しいのぅ~。

受付では手持ちの荷物も預かってくれます。
私は手持ちのかばん2つを預けて、中へ入ります。



高岡山瑞龍寺は、加賀藩2代藩主・前田利長の菩提を弔うため、3代藩主で弟(のち養子)の利常が建立しました。
時の名匠・山上善右衛門善広が建築を指揮し、約20年の歳月をかけて完成。
広山恕陽禅師により開山した禅宗様式の寺院です。

建立当時は水濠に囲まれており、菩提寺にかこつけた出城であったともいわれます。




瑞龍寺総門

まずは総門【国指定重要文化財】。
禅宗寺院らしく木材をそのまま用い、色彩は抑えられています。

瑞龍寺総門・梅鉢紋

総門の軒にかかる前田家の家紋・梅鉢紋
よく見ると紋の木目が整っています。
直線的な木目の材木は、よほどの大木でなければ採れませんので、加賀前田家の財力をうかがうことができます。


総門の前に人だかりができています。
淑女がガイドをしているようです。
とても興味深い話をされていたので、このガイド率いる人の群れに交じって拝観することとしました。


瑞龍寺・おおまかな伽藍図

瑞龍寺のおおまかな配置図。

禅宗様式の寺院では、お釈迦さまの身体をかたどったような建物配置がもっともよいとされています。
創建当時の瑞龍寺はこのような建物配置でした。
現在は、西浄(たぶんトイレ?)と浴室はなく、山門の手前に総門があります。

瑞龍寺は、法堂はっとう、仏殿、山門、総門が一直線上にあるという、禅宗様の理想形ともいうべき実に整った寺院なのです。


次は山門【国宝】。

瑞龍寺山門

延享3年(1746年)に焼失してしまいましたが、文政3年(1820年)に再築されました。
この山門は、日本が誇る数学である和算を駆使して設計されています。

淑女が説明をしていると、屋根から雪がドサっと落ちてきました。
ざわめく参拝客。
しかしガイドの淑女はこれをうまく利用して話につなげます。

瑞龍寺山門2

山門の1層目の屋根には雪があまり積もっていません。
これは、2層目の屋根と1層目の屋根とがまったく同じ幅で構成されているといいます。
2層目からの落雪で、1層目の屋根を傷つけないようするためだそうです。

瑞龍寺山門3

別角度からの山門。すばらしいの一言です。


次は仏殿【国宝】。

瑞龍寺仏殿

山門から望むと1枚の絵画のように見えるように配置ているといいます。

淑女なるガイドは、通路にしたたる水たまりをも利用して話を続けます。
「この時季は雪で大変ですけど、水たまり越しに逆さ山門や逆さ仏殿が拝めるんですよ~」

瑞龍寺仏殿2

仏殿の屋根瓦は鉛でできています。
土の瓦では雪などの温度差で割れてしまうためです。
また一説には、鉛が鉄砲玉に転化できるので、有事に備えたものだともいいます。

瑞龍寺仏殿・屋根裏

巨大な屋根を、これを支えるにふさわしい大きな軒組(右)。
その軒組を支えるエビ虹梁と呼ばれるエビの形をした木組(中)。
また垂木は直線の直垂木に、扇垂木と呼ばれる曲線の垂木を組み合わせて構成されています。

瑞龍寺仏殿・ご本尊

ご本尊は、釈迦・文殊・普賢の三尊。
そしてその背景には、1枚の木板のみ。
木目以外には一切の装飾を施していない背景は、不思議にも曼荼羅に描かれるような宇宙?を彷彿とさせます。

瑞龍寺仏殿・台座

再び外に。
仏殿を支える台座も、よく見ると下の部分と上の部分が一枚岩?でできています。
こうすることで地震にも強くなるといいます。

名工の仕事、ここに極まれり!といったところです。


さて私がついていった淑女のガイドは、ずいぶん詳しく説明してくれるので、別の案内人に引き連れられた別の軍団が追いついてきました。


さて次は、法堂【国宝】。

瑞龍寺法堂

後続の案内人は、瑞龍寺の副住職のようです。
そして、法堂の中で副住職が説法をするのだそうな。

私は法堂に入らず、そそくさと離れます。
正座させられて説法を聞かされるのは、高校時代の修学旅行で懲りたから。


ということで、人の群れから分かれ、境内をじっくり見て回ります。

瑞龍寺仏殿3

仏殿を別角度から見てみます。
なんだか建物は、少し斜めから望むともっと美しいような気がします。

瑞龍寺禅堂

山門から見た禅堂【国指定重要文化財】。
坐禅修行の場であるとともに、修行僧の寝食の場です。

瑞龍寺大庫裏

山門から見た庫裏くり【国指定重要文化財】。
こちらは台所といったところで、寺の庶務を行うところです。


法堂のほうから回廊を通って禅堂のほうへ歩いていると、くだんの淑女ガイドが歩いていました。

しばし境内を回り、総門へ戻っていくと、くだんの淑女なるガイドは再び総門の前でガイドをしていました。
この方は瑞龍寺専属のガイドさんだったのでしょう。
そのお話に一分の無駄もなく、その場の天候をも利用し当意即妙にガイドされるこの淑女は、私が出会ってきた数少ないガイドの中で最強といっても過言ではありません。
いつもなら当ブログの編集に際しては、いろいろ検索して調べたうえで記事を作成しているのですが、瑞龍寺の段ではほぼこのガイドさんの話だけで構成できました。



受付へ戻り、傘を返して荷物を返してもらいます。
そしてご朱印も。

ご朱印・瑞龍寺

こうして瑞龍寺を後にしました。




優しき高岡市民

2012-10-28 | お散歩

2 0 1 1 年 1 2 月 2 3 日 ( 天 皇 誕 生 日 )

午 後 1 時 5 8 分

富 山 県 高 岡 市

高 岡 城 址 公 園 を 出 る



雪が止んだところを見計らって高岡市立博物館@高岡古城公園を出たのですが、雪は再び本降りになってきました。
旅先で傘を買っても荷物になるだけさ!と考えていた私でありましたが、さすがに後悔していました。


次の目的地は、高岡山瑞龍寺
富山県随一の名刹で、その堂宇は富山県唯一の国宝に指定されています。

JR高岡駅からは、高岡古城公園&高岡大仏と、瑞龍寺とではちょうど正反対の方向にあります。
よっていったん駅に戻ることとしました。


雪はいちだんと激しさを…ん!? 雪が?
信号待ちをしている私に、恵みの傘が!

北陸の雪をナメきっていた馬鹿な旅人に、高岡の淑女が傘を寄せてきたのです!
いや~ありがたい!
私は相変わらず年上の淑女には強い!!

淑女はJR高岡駅へ向かうとのこと。
しばし淑女と相合傘ということとなりました。

淑女によると、高岡で外せないのは高岡大仏と瑞龍寺だそうです。
高岡大仏はあまり大きいものではないのだが、鋳物産業の街の誇りを感じます。


JR高岡駅の構内を通り抜けて、淑女とはお別れ。
瑞龍寺までのルートを教えてくれました。


ここからは再び雪との闘いです。

風雪を受けながら駅前の大通りを歩き、八丁道という通りに差しかかりました。

八丁道

八丁道は、前田利長公墓所と瑞龍寺を結ぶ参道。
かつては道沿いに濠もあったようで、有事の際の防衛ラインと想定されていたといいます。

現在の八丁道は、道の中央が瑞龍寺への参道になっていて、両サイドに車道が通ります。
道の構造は鎌倉の若宮大路に近いようです。

八丁道の途中にも・・・

前田利長公像@八丁道

前田利長公が雪をかぶりながら座っておられました。


雪が降りしきるなか・・・

瑞龍寺総門

瑞龍寺に到着。




風雪吹き荒れる高岡城

2012-10-28 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 3 日 ( 天 皇 誕 生 日 )

午 後 1 時 0 2 分

富 山 県 高 岡 市

高 岡 古 城 公 園



高岡大仏からやや狭い路地を歩いて5分ほど、高岡古城公園に着きました。

高岡城水濠

高岡城は、城域の3分の1が水濠になっており、その大きさは遊覧船が濠をめぐれるほどです。
そして現在は、市民会館、市民体育館、動物園、博物館などが建ち、すっかり公園化しています。



高岡城は、前田利長の命で、高山重友(右近)が縄張り(設計)を行いました。

利長は、慶長10年(1605年)弟の利常に家督を譲り、富山城で隠居生活をしていました。
しかし慶長14年(1609年)富山城に大火が起きたため、新たに高岡城を築きました。

高岡城に入って5年、利長が亡くなり、さらに元和元年(1615年)の一国一城令により、高岡城はわずか10年で廃城となりました。
しかし有事に備えてなのか、加賀藩は高岡城の水濠などを保全し、現在も築城時のままに残っています。




高岡城に着いたとたんに、いちだんと雪が強くなってきました。
傘がない私は風雪をもろに受け、一気に気が滅入ってしまいました。


高岡城登城は二の丸からスタート・・・とほほ。

高岡城・護国神社

二の丸に鎮座する護国神社射水神社
越中国一ノ宮ですが、風雪のため今回は参拝を見合わせました。

(※高岡古城公園に鎮座するのは射水神社の一社のみです。護国神社(富山縣護国神社)は富山市内におわします。 2014/6/14追記)


二の丸から本丸へ。
本丸へと進む土橋には、かつての石垣がよく残っています。

高岡城・石垣

土橋を渡った先にも射水神社。

高岡城・射水神社

参拝を見合わせましたが・・・やっぱり詣でるべきだったのでしょうか。
「この風雪をなんとかしてください」と。



風雪は、傘のない私に容赦なく襲いかかります。
私はこれに耐えながら、本丸広場をめざしました。

本丸広場の奥まったところに立つ前田利長公像

前田利長公像


前田利長は、豊臣5大老のひとり・前田利家の長男です。
また異母弟には鼻毛の名君・利常がいます。

父と弟のあいだでいまいちパッとしない利長ですが、あの織田信長の娘・永姫と婚姻したあたり、将来を期待されていたのです。

利家の死後に家督と所領を継きましたが、徳川家康から「ワシを暗殺しようとした!」とケンカを吹っかけられます。
これに対しては、母の芳春院(まつ)を人質として江戸に送り、難局を切り抜けました。

関ヶ原の戦役では、西軍に属した加賀南部の城を落としました。
丹羽長重(長秀の子)との浅井畷の戦いでは苦戦しながらも勝利。
戦後に加賀、能登、越中、あわせて120万石もの所領を得ました。

利長には男子がなく、弟の利常を養子として家督を継がせ、自身は越中富山(のち高岡)で隠居しました。
高岡城が完成ののち死去。




それにしても水の豊かな城です。

高岡城内濠

しかし風雪が止む気配がありません。
高岡城の散策は早々に切り上げて、100名城スタンプのある博物館へ急ぎました。

33番、高岡城!

33番、高岡城!

そして中の展示物をじっくりと拝見…するわけでもなく、ソファのある部屋でリラックス。
その部屋には、この博物館最強の展示物ともいえる『ドラえもん』全巻がありました。
私はしばし読みふけってしまいます。

ドラ「きみはじつにばかだな」
野比「しかし機械で友だちを作るなんて、かわいそうだね」
静香「あんたはクラスでも有名なへたくそなのよ」
剛田「買ったばかりのバットの殴り具合を試させろ」
骨川「よう、どこ行くんだウスラデブ」


作者の藤子・F・不二雄は高岡出身なのです。


雪が弱まったところを見計らって、博物館を出ました。
博物館から近い大手口へ。

高山右近像

大手口には、高山城築城を指揮した高山右近像が立っています。


高山重友(右近)は、もともと摂津高槻の大名でした。

織田信長が近畿に勢力を伸ばすと荒木村重とともに信長につき、村重の有力与力となる。
村重が信長に謀反を起こしたときはその関係から同調することとなりますが、真っ先に信長に降伏します。

本能寺の変後は、羽柴秀吉に与します。

右近は茶道の名手であり、「利休七哲」千利休の高名な七人の弟子)のひとりとされています。
(ちなみに荒木村重も「利休七哲」のひとりとされています)
また右近は築城の名手であり、近畿の先進的な築城法をもって金沢城の改築や高岡城の築城に携わりました。

そして敬虔なキリシタンとして有名です。

荒木村重の謀反の時は、信長に「おまえのトコのキリシタンを皆殺しにするぞ」と脅され、村重に預けた家族(人質)との板挟みとなって、結局身一つで城を退出しました。
(このとき右近の父・友照は城に残り、人質が殺されないようにしました)

そして豊臣秀吉がキリスト教禁止を発布した時は、あくまでキリスト教を放棄せず、領地を没収されてしまいました。
このとき、右近の才を惜しんだ前田利家が家臣に招いています。
子の利長も右近を相談役として重用しました。

そして江戸幕府もキリシタン追放令を発布します。
右近はみずから加賀を去り、マニラへ向かう船に乗り込んだといいます。
船旅と慣れぬ気候のため、ほどなくマニラで亡くなりました。




高岡城はあまり見られなかったけど…まぁ、いいか。




三大? 高岡大仏

2012-10-28 | 寺院仏閣

2 0 1 1 年 1 2 月 2 3 日 ( 天 皇 誕 生 日 )

午 後 1 2 時 4 2 分

富 山 県 高 岡 市

J R 高 岡 駅



1年半前は通過してしまった高岡の街を、今回はじっくり歩いていきました。


JR高岡駅にて。

利長くん

ゆるキャラ「利長くん」登場です(^_^;)


高岡駅から外を見ると、雪がだいぶ降っているようでした。

駅からしばらくの間は、地下道やアーケードのおかげでそれほど雪の影響を受けませんでした。
しかし雪は止むことはなさそうです。

ペットボトルアート@高岡

高岡市内の商店街にしばしば見られるペットボトルアート。
夜になるとイルミネーションが点灯するようです。

それよりも傘をどうしようか…。
道中で傘なんて邪魔になるだろうから、あまり買いたくはありません…。

100均も見当たらないので、雪を我慢して進むこととしました。


午後1時前、住宅街の中に大佛寺がありました。

高岡大仏

高岡のシンボルともなっている高岡大仏(銅造阿弥陀如来坐像)【高岡市指定文化財】です。

奈良、鎌倉と並んで「三大大仏」とうたっているのだが、大きさはわりとこじんまりしたものでした。
ただこの大仏は、鋳物のまち・高岡の職人たちの技能を結集して造られたそうです。
なので大きさはともかく、高岡の人々はこの大仏をかなり誇りに思っているようです。

ご朱印がもらおうと思ったのですが・・・手持ちのご朱印帳で、ひとつ前のご朱印がよりによって牛久大仏のものだったのです。
なんとなく気まずそうだったからご朱印をあきらめました。

私は、金にモノをいわせて造られた牛久大仏よりも、こちらの高岡大仏のほうが好感がもてますなぁ。



このとき、高岡はまだ小雪でした。