1年半ぶり、越中富山の地に立ちました。
前回の富山は・・・・・・
富山市役所の展望台に上ったが、曇り空で立山連峰は見えない。
松川の川べりで花見をしようにも、桜はまったく咲いていない。
富山城では、模擬天守が工事中。
さらに雨が降ってきた。
そういうわけで、1時間も滞在しないまま富山を早々に去ってしまいました。
さらには立ち寄る予定であった高岡も、めんどくさくなってそのまま通過してしまいます。
そういう過去があったので、今回は富山をしっかり見ようと思っていました。
富山駅から出ると、冬の北陸には貴重な晴天!でした。
信号機は雪国ならではの縦型。
青看は鉛直ではなくやや斜めに設置されています。
晴天もつかの間、歩いて数分で小雪が舞い散ってきました。
富山駅から歩いて約20分、富山城址公園に着きました。
二階櫓のような建物は、佐藤記念美術館の建物の一部で、城の遺構ではありません。
城址公園内の建物のほとんどは、城の遺構とは関係ないものです。
そのためなのか、なかなか面白い歴史を持つ富山城なのですが、日本100名城の選定からは外れてしまいました。
(100名城・富山県代表は、20年弱の歴史しか持たない高岡城が選ばれています)
城址公園内に立つ銅像。
前田正甫公像。
富山藩2代当主であり、富山の薬売りの行商を創始したとされています。
ところで富山藩は、加賀藩の前田家の分家筋が藩主となりました。
力関係は当然ながら本家>分家ですので、富山藩は金沢の者からは下に見られていたそうです。
この力関係が現在も続いているとかいないとか。
そして模擬天守【国指定登録文化財】です。
この天守は、富山市郷土博物館の建物となっています。
第2次大戦後の富山産業博覧会で、富山の復興を記念して建てられたものであり、もともと富山城には天守はありませんでした。
富山城は、天文12年(1543年)神保
当時の越中国は、神保ら土着の勢力に、越後の上杉家、加賀の一向一揆衆が争奪戦を繰り広げるというカオス状態でした。
加賀の一向一揆衆が織田信長の軍勢に滅ぼされると、上杉と織田の争いとなります。
加賀国(石川県)南端でおこった手取川の戦いでは、上杉謙信が織田家の重鎮・柴田勝家の軍勢を破りました。
しかし上杉謙信が酒の飲みすぎで急死すると、その後は織田方が優勢となり、織田家臣・佐々成政が入城します。
成政は富山城を改築し、城下町を整備、現在の富山の礎を築きました。
本能寺の変後は、柴田勝家の有力与力として、豊臣秀吉と激しく対立するも、降伏します。
(成政はのちに肥後を所領として与えられましたが、検地を強行して一揆を招いた責めを受け切腹させられてしまいます)
富山は前田利家の長男・利長に与えられました。
利長は富山の城下町を発展させましたが、富山城が大火にあい損害を被ると高岡へ移りました。
寛永16年(1639年)加賀藩より富山藩が分かれ、前田利次が初代藩主として入城。
以後13代の居城となり、明治維新を迎えました。
明治6年(1873年)廃藩置県に伴い廃城となりました。
郷土博物館では、富山城の歴史についての展示が充実しています。
興味深いのは、父・利家と、弟・利常のあいだでいまいち目立たない前田利長についての展示。
利長は父から継いだ藩主の座を弟の利常に譲り、富山に隠居しました。
資料からは、「富山様」と称された利長が隠居の後も隠然たる権力を保持していたことがわかります。
富山城唯一の現存遺構である千歳御門。
全国にも珍しい、現存する御殿の門。
建築様式は東大の赤門と共通しています。
歴史的には嘘っぱちな天守も、画にはなるんだよねぇ~。
この後私は富山で私的な用をなし、高岡へ向かいました。