「毎度、イエスさま」(元旦礼拝宣教要約)
大阪教会の2008年標語を、マタイ福音書28章20節「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とのイエスさまのお言葉より、「毎度、イエスさま」にさせて頂きました。標語というより「主の慈しみに満ちた約束への応答」と言った方がよいのかも知れません。 私ども牧師一家も大阪に移り住んで4月で丸3年が経ちますが。大阪弁と言えば、いまだに「ぼちぼちでんな」「儲かりまっか」「大きに」「毎度」などと、そのような言葉がまず思い浮かびます。どれも商人の街大阪ならではの言葉でしょうが、それぞれに意味深く、味があります。その中で、「毎度」という言葉に不思議に惹かれるものを感じます。この「毎度」には、「ありがとう」という感謝の思いが込められていたり、「お疲れさま」と相手を労う時に使われたり、「お世話になります」と、これからもよろしくという挨拶の時に使われたり、又「えらいすみません」と、謝る時に使われたりもします。一見投げやりの言葉のようでありながら、決して一方通行ではない心と心を通わし合う時に用いる生きた言葉なのです。
弟子たちが復活の主イエスとお会いしたのはエルサレムでなく、ガリラヤであったというところには意味があります。ガリラヤは殆どの弟子たちの出身地であり、そこで彼らは生活を営んでいました。それはつまり、復活の主イエスは、彼らの日常のあるガリラヤに顕れ、そこで彼らにお会いなさる、ということです。それは、主に従おうとする私どもにも大きな慰めとなり、恵みといえましょう。主イエスは、私どもの日常にあって、「毎度」とお声をかけ、共にあって、その路を導いていてくださるのです。私どももまた、その日常の中で、日毎に、事あるごとに、「毎度、イエスさま」と応答していく者でありたいと願います。インマヌエル2008
大阪教会の2008年標語を、マタイ福音書28章20節「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とのイエスさまのお言葉より、「毎度、イエスさま」にさせて頂きました。標語というより「主の慈しみに満ちた約束への応答」と言った方がよいのかも知れません。 私ども牧師一家も大阪に移り住んで4月で丸3年が経ちますが。大阪弁と言えば、いまだに「ぼちぼちでんな」「儲かりまっか」「大きに」「毎度」などと、そのような言葉がまず思い浮かびます。どれも商人の街大阪ならではの言葉でしょうが、それぞれに意味深く、味があります。その中で、「毎度」という言葉に不思議に惹かれるものを感じます。この「毎度」には、「ありがとう」という感謝の思いが込められていたり、「お疲れさま」と相手を労う時に使われたり、「お世話になります」と、これからもよろしくという挨拶の時に使われたり、又「えらいすみません」と、謝る時に使われたりもします。一見投げやりの言葉のようでありながら、決して一方通行ではない心と心を通わし合う時に用いる生きた言葉なのです。
弟子たちが復活の主イエスとお会いしたのはエルサレムでなく、ガリラヤであったというところには意味があります。ガリラヤは殆どの弟子たちの出身地であり、そこで彼らは生活を営んでいました。それはつまり、復活の主イエスは、彼らの日常のあるガリラヤに顕れ、そこで彼らにお会いなさる、ということです。それは、主に従おうとする私どもにも大きな慰めとなり、恵みといえましょう。主イエスは、私どもの日常にあって、「毎度」とお声をかけ、共にあって、その路を導いていてくださるのです。私どももまた、その日常の中で、日毎に、事あるごとに、「毎度、イエスさま」と応答していく者でありたいと願います。インマヌエル2008