日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

キリストの奴隷

2010-02-14 07:48:15 | メッセージ
宣 教   Ⅰコリント7章17節~24節

パウロは独身であったようですが、結婚するのも、結婚しないのも自由だが「結婚に縛られてはいけません」(15)と説きます。つまり結婚も、葬儀や、又日常の仕事や商取引と同ように世の生活の一つに過ぎない事だからというのです。結婚や家庭生活のことだけに、心を使い尽くし、神のことに心が向かなくなるのなら、むしろ独身でいた方がよいという持論を述べます。
パウロが「割礼や奴隷」に関して述べている共通の主張は、「主に召された(救われた)時の状態を保ち、主に仕えなさい」ということであります。この当時、ユダヤ人とギリシャ人、奴隷と自由人、男と女というふうに人々を分ける基準があったのです。しかしイエス・キリストと結ばれて一つとなるためのバプテスマを受ける時、このような違いや区別は何の意味もなくなります。すべての者がキリストと一つになるのです。キリストの教会にあっては皆一つです。そのような天の次元で見る時、「世の中の身分に縛られて人に優劣をつけ、あたかもそれが人生の成功か否か、又すべてであるかのように決めてはならない」というのがパウロの考えです。
教会というところを思います時、まか不思議な集まりですよね。性差、性格や特性、年齢、生まれ育った環境、そして今日の個所と関連しますが、社会的な身分、職業や仕事とそれぞれ違います。教会はそういったいろんな人たちが主のご計画によって呼び集められた集りであるのです。そこにもし地上的な身分などで区別や分け隔てがなされてしまうのなら、キリストの教会とは言えません。それは神の力ではなく依然として世の力、人の力が頭(かしら)になるわけです。主のご計画によって召されたというのですから、クリスチャンは、どんな出身や身分、立場や職業も賜物であり、すべての人が主の栄光をあかししていく、主の目に価値ある人々です。神がキリストのいのちを代価として、贖われた一人ひとり。神さまは、そして私たちは、賜物としてその違いを喜び、楽しみ、共有します。
人に属する者でなくキリストに属する者として、それぞれ神に召された(救われた)ときの自分を大事に、それはまた同じように神に召された者同士、お互いを大事にしながら、主の救い、すなわちキリストに生き、仕えていくものとされていきましょう。
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