宣 教 詩編3:1-9
この詩編は1節に「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」という解説があります。ダビデ王といえば神の召命により油注がれて民衆にも慕われた王としても大変立派な人物でありました。しかし、その一方で、家臣の妻を自分のものにし、あげくの果てにその家臣を戦場の最前線に送り意図的に戦死させるという大きな罪を犯しました。ダビデは王の権力や地位を自我の欲望達成のために利用したのです。
一切をご存じである主は預言者ナタンをダビデのもとへ遣わし、ダビデに主の裁きを次のように告げました。「見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」(サムエル記下12:11)神はすべてのことを見ておられ、そのことに対して義をもって裁かれるのです。まさにそのナタンの預言どおり、ダビデの息子アブサロムが、徐々に仲間につくものを増やし、遂に謀反を起こして父ダビデの命を狙い、その王座を奪い取るのです。
しかし、ダビデはそのほんとうにボロボロのような状態の中から、「主よ、それでも」という祈りをもって主に向い訴え祈るのです。罪を犯したその重荷と苦悩からもう逃げ、主に背を向けて祈ることなどできないような状態であったといえましょう。
けれども彼は、「主よ、それでも」と祈り求めます。
彼はある意味、その名をイスラエルとよばれたヤコブにも似たしたたかな信仰をもっていたといえます。ヤコブは父を騙し兄から祝福を奪い取ったような人物でしたが、生きるか死ぬかという困難を前に、夜通し神と取っ組み合いをし、救いと祝福をもぎ取ったのでした。一方ダビデも神の前に大罪を犯しましたが、ヤコブが祝福をしてもらうまでは離しませんと必死に主にしがみついていったように、ダビデも又、「主よ、それでも」と、どこまでも主により頼んでいくのであります。これが信仰の姿であります。そして又、このように祈れるのは、ダビデが「あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。あなたに向って声を上げれば、聖なる山からあなたは答えて下さる」。つまり、主を呼べば「答えて下さる」との信頼が根底にあるからです。
信仰とは神への信頼と期待です。祈りも賛美も信頼と期待を抜きにはなり立ちません。
どんな状況におかれても主に信頼して祈る。期待をもって祈る。「主よ、それでも」と祈る。これが信仰の祈りです。今週はこれだけは覚えて帰ダビデは7節で「いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください」と祈ります。
新約聖書の福音書の記事の中に、イエスを裏切ったイスカリオテのユダが自分の犯した罪の重荷に耐え切れず自らの命を絶ったことが記されています。ユダがそこで本当に主に立ち返る道、悔い改め、主の赦しのうちに新しく生きる道を知っていれば、どんなにそのあゆみは違ったことでしょうか。
人間にとってもっとも深刻な事態それは、死への恐怖や不安ではなく、「神から離れてしまう」ことにあるのです。
人がもし重大な罪を犯してしまったなら、その犯した罪の重荷から一生逃れられるものではないでしょう。生涯恐れと不安にさいなまれ続けることでしょう。しかしそこで、まことの神の存在、十字架のあがないの主を知ることができるのなら、その人の生き方、道はまったく変わる、違ってくるのです。神から離れてしまうことの恐れを覚えるならば、主に背を向けず、逃げることなく、主に向って魂の底から悔い改め、主に立ち返って平安を得る必要があります。
本日はこの詩編から「信仰の祈り」という題をつけました。
先行きが見えず、どうしたらいいのか分からないような恐れと不安の現実の中で、「主よ、それでも」と主に信頼を置いて、ひたすら祈り求めたダビデ。彼がそのように祈ることができたのは、霊的なまなざしでもってまことの平安は主のもとにあるという確信を戴いていたから、主を仰ぎ見ることができたのです。
ヘブライ11章1節、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えていない事実を確認することです。」
この詩編は1節に「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」という解説があります。ダビデ王といえば神の召命により油注がれて民衆にも慕われた王としても大変立派な人物でありました。しかし、その一方で、家臣の妻を自分のものにし、あげくの果てにその家臣を戦場の最前線に送り意図的に戦死させるという大きな罪を犯しました。ダビデは王の権力や地位を自我の欲望達成のために利用したのです。
一切をご存じである主は預言者ナタンをダビデのもとへ遣わし、ダビデに主の裁きを次のように告げました。「見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」(サムエル記下12:11)神はすべてのことを見ておられ、そのことに対して義をもって裁かれるのです。まさにそのナタンの預言どおり、ダビデの息子アブサロムが、徐々に仲間につくものを増やし、遂に謀反を起こして父ダビデの命を狙い、その王座を奪い取るのです。
しかし、ダビデはそのほんとうにボロボロのような状態の中から、「主よ、それでも」という祈りをもって主に向い訴え祈るのです。罪を犯したその重荷と苦悩からもう逃げ、主に背を向けて祈ることなどできないような状態であったといえましょう。
けれども彼は、「主よ、それでも」と祈り求めます。
彼はある意味、その名をイスラエルとよばれたヤコブにも似たしたたかな信仰をもっていたといえます。ヤコブは父を騙し兄から祝福を奪い取ったような人物でしたが、生きるか死ぬかという困難を前に、夜通し神と取っ組み合いをし、救いと祝福をもぎ取ったのでした。一方ダビデも神の前に大罪を犯しましたが、ヤコブが祝福をしてもらうまでは離しませんと必死に主にしがみついていったように、ダビデも又、「主よ、それでも」と、どこまでも主により頼んでいくのであります。これが信仰の姿であります。そして又、このように祈れるのは、ダビデが「あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。あなたに向って声を上げれば、聖なる山からあなたは答えて下さる」。つまり、主を呼べば「答えて下さる」との信頼が根底にあるからです。
信仰とは神への信頼と期待です。祈りも賛美も信頼と期待を抜きにはなり立ちません。
どんな状況におかれても主に信頼して祈る。期待をもって祈る。「主よ、それでも」と祈る。これが信仰の祈りです。今週はこれだけは覚えて帰ダビデは7節で「いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください」と祈ります。
新約聖書の福音書の記事の中に、イエスを裏切ったイスカリオテのユダが自分の犯した罪の重荷に耐え切れず自らの命を絶ったことが記されています。ユダがそこで本当に主に立ち返る道、悔い改め、主の赦しのうちに新しく生きる道を知っていれば、どんなにそのあゆみは違ったことでしょうか。
人間にとってもっとも深刻な事態それは、死への恐怖や不安ではなく、「神から離れてしまう」ことにあるのです。
人がもし重大な罪を犯してしまったなら、その犯した罪の重荷から一生逃れられるものではないでしょう。生涯恐れと不安にさいなまれ続けることでしょう。しかしそこで、まことの神の存在、十字架のあがないの主を知ることができるのなら、その人の生き方、道はまったく変わる、違ってくるのです。神から離れてしまうことの恐れを覚えるならば、主に背を向けず、逃げることなく、主に向って魂の底から悔い改め、主に立ち返って平安を得る必要があります。
本日はこの詩編から「信仰の祈り」という題をつけました。
先行きが見えず、どうしたらいいのか分からないような恐れと不安の現実の中で、「主よ、それでも」と主に信頼を置いて、ひたすら祈り求めたダビデ。彼がそのように祈ることができたのは、霊的なまなざしでもってまことの平安は主のもとにあるという確信を戴いていたから、主を仰ぎ見ることができたのです。
ヘブライ11章1節、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えていない事実を確認することです。」