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主はわたしの羊飼い

2010-08-08 07:30:47 | メッセージ
宣教 詩編23編  

この詩編23編は旧約聖書の中でも最もよく知られている詩ではないでしょうか。
それはまた、新約聖書の中の「主の祈り」のように、よく暗誦されている詩ではないでしょうか。つまりそれは、この詩によって世々の人びとが如何に励まされ、力づけられ、勇気を与えられてきたかというあかしであります。

冒頭の1節に「賛歌。ダビデの詩」と記されています。ダビデはユダ部族ベツレヘムびとのエッサイの子で、イスラエル第二代の王となりました。彼は8人兄弟の末っ子として生まれ、姿の美しい少年で、父の羊を飼っていました。そういう中で、獅子や熊といった猛獣から羊を守るという経験を幾多もしたことでしょう。

羊という動物の習性については、ご存じの方もおられるでしょうが、羊は群れをなして生きる動物です。一匹で生きられない弱い存在でもあります。又、こう言っては何ですが、決して賢い動物とはいえず、すぐに道に迷ってしまうような生きものであります。
ですから、遊牧された羊にとって羊飼は絶対になくてはならないものであります。羊飼がいなければ牧草地に行くことも、水のあるところにも行くことができません。そればかりかちりちりばらばらになって猛獣の餌食になってしまいます。一方、羊飼は羊との信頼関係を築きます。羊との信頼関係がなければ羊は言うことを聞かず、牧することは出来ません。羊飼いはこの詩にもあるように鞭や杖を用いますが、それは罰を与えるためのものではなく、羊を外敵から守るために鞭は羊を襲う野獣を威嚇するために使われるものです。杖はその曲がったところを、迷い出ようとする羊の首にひっかけて連れ戻すために使われるものです。そのように羊飼いは羊の生存を保証してくれる力ある存在であります。ダビデはそんな羊と羊飼いの関係に自らを重ね合わせます。
ダビデは父の羊を飼うものから、文字通りイスラエルの王になるのでありますが、そのダビデ王が、「主はわたしの羊飼」と賛美したのです。それは今日まで通ってきたその破れある生涯を彼が顧みるとき、この主に導かれていればこそ、「何一つ欠けることはなかった」。そのようなさまざまな体験から紡がれた言葉なのでありましょう。

さて、礼拝で用いている新共同訳聖書は「主は羊飼い」と訳していますが、よい訳ではありません。原語は「わたしの」という言葉がありますので、前に大阪教会で使用していた口語訳聖書や新改訳聖書のように「主はわたしの羊飼い」と訳す方がよいのです。
単に羊飼いなのではなく、「わたしの」羊飼いなのであります。主と相対する関係がそこに込められています。

今回、この詩編を一人で、又祈祷会などで何度も読み返し、黙想する中で改めて気づかされたことがあります。
それは、ダビデが始めの3節まで、「主はわたしの羊飼い、わたしには欠けることがない」「主はわたしを青草の原に休ませ、魂を生き返らせてくださる」「主は御名にふさわしく、、、わたしを正しい道に導かれる」とあるように、「主は」(正確には神:ヤハウエ)と三人称で呼びかけているのに対し、4節、5節では「あなたは」という2人称の呼びかけに変わっているのです。ダビデは主に対して、「あなた」と直接的に呼びかけてゆくのです。
ダビデがここにあるように「主」から「あなた」へと呼びかけが変わったそれはどういう時でしょうか。それは、4節の「死の陰の谷をゆくときであり、5節の「わたしを苦しめる者を前にしたとき」であります。これは、具体的にダビデがどういう状況におかれたときか分かりませんが、例えば、サウル王に命を狙われたときであったでしょうし、息子アブサロムの反逆に遭い命を狙われたそのときかも知れません。王としての栄光と共に多くの闘いと苦難を身に負つという経験をしたダビデでした。ダビデにとって心身ともに疲れ果て、屈辱的な中に置かれたとき、彼は本当の意味で、主と1対1で向き合うところへと導かれるのです。

もう一つ、この詩から思い浮かんできた2つのみ言葉がございます。
一つは、新約聖書のヨハネ福音書10章の「イエスは良い羊飼い」として記されているみ言葉です(聖書を開けてみましょう)。ヨハネ10:10-11。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。
この「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とのみ言葉は、お分かりのように、主イエスが罪深い人間を救うために自らの命を十字架に引き渡され、その犠牲をもって罪の贖い成し遂げてくださったことがそこに示されています。わたしの羊飼いなる主はわたしのために命を捨てるほどにわたしを愛してくださる。そのような偉大な羊飼いであられるのです。

又、もう一つは、ルカ福音書15章の「見失った羊のたとえ」に記されているみ言葉であります。そこもお読みします。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った羊を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人びとを集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう」(4-6)。

この「見失った羊のたとえ」にも、主イエスが罪にさまよい続ける一人の魂のために、
どこまでも全身全霊をかけて、その魂を救い出されるお方であるということが示されていますが。この100匹の中の迷い出た1匹に注がれる主なる神さまのご愛は、決して100分の1ではないということを覚えたいと思います。羊飼いの羊への愛は100分の1ではなく、1対1として100パーセント・マックスの愛が注がれているのであります。

先にお話したように、羊のように弱く迷えるこの「わたし」が必要とする主、あなたという関係であり、そんなわたしのために命をも捨てるほどに愛される羊飼い、主であられるお方との関係であります。キリストの教会は実に、そのような一人ひとりの共同体であるのです。
今日は「主はわたしの羊飼い」という題のもと、詩編23編からみ言葉をひも解いてまいりましたが、羊飼いであられる主は、一対一という関係でもって、すなわち100パーセントの愛をもって羊である私たちを養い、導いてくださるお方であられるということをしっかり心にとめたいと思います。

「主はわたしの羊飼い。わたしには何も欠けることがない」。アーメン。
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