宣教 詩編37編1~6節
この詩編37編には「いら立つ」という言葉が3回も使われています。それは「腸:はらわた」が煮えくりかえるような憤りや怒りの感情を強く表した言葉であり、その不当な仕打ち、不条理ともいえる現状の中で、なお詩人は主にまかせよ、主にゆだねよと、御神にどこまでも信頼していくのであります。
「いら立つ」ということについては、まあ様々なレベルといいますか次元の「いら立ち」というものがあると思います。私たちも日常の生活において、いろんな「いら立ち」を感じることがあります。それは自分の置かれた立場においてであったり、あるいは人との関係においてであったり、又、自分自身に対してであったりとほんと様々であります。いら立ちを持たない、いら立たないという人が果たしているでしょうか。
私たちはそういったいら立ちと、どう向き合い、対処しているでしょうか。いら立ちは人間であるがゆえに持っている感情であるともいえましょう。
特に今日のところで詩人は「悪事を謀る者のことでいら立つな」「あなたの道を主にまかせよ」と呼びかけます。
むろん詩人は「悪事を謀る者」の不正や悪をそのまま見過ごしなさい、放っておきなさいと言っているのではありません。今も世界のさまざまな地で繰り返される戦争や民族紛争、搾取や命が不当に扱われる事々。又、一瞬にして命を奪う核兵器をはじめ殺戮の兵器が今この時も作られているという現状に対し、「いら立ち」を覚えるのは当然のことです。そういう意味での「いら立ち」を抱かないことは逆に怖いことだと思います。
しかし、この「いら立ち」という感情は、といもすれば憎しみや恨みを燃え上がらせます。
だんだんそのことに固執し、そういう思いが溜まってきますとどうなるでしょう。たとえ正当な怒りであったとしても、冷静な判断が損なわれてくるでしょう。相手を責めることばかり思いがいき、自分のことが見えなくなるでしょう。とどのつまり悪事を謀る者に心動かされ、悪に振り回されるかたちで自らも罪を犯してしまうことになる。それでは憎しみの連鎖となり、悲劇が繰り返されるばかりです。その事を詩人はよくわきまえ知っていた、経験していたのかも知れません。
話が変わりますが。先週私は火曜日から金曜日までの4日間、伊豆の天城山荘で開かれました全国少年少女大会に分団リーダーとして参加してまいりました。今年の全国の少年少女大会は「出会い(マンナ)」というテーマでした。韓国語で「出会い」を「マンナ」というそうです。今回は初めて韓国のチャム・ジョウン・バプテスト教会からユン牧師と少年少女たち十数名を大会にお招きし、一緒に交流の時が持たれました。これは、昨年日本のバプテスト教会の少年少女有志が「隣人に出会う旅・韓国」に参加して、交流を持ったことが経緯にありました。日本が今から丁度100年前に韓国を併合し、植民地化において、人権、文化、言語を奪ってきたことを心に刻みつけつつ、韓国の教会を訪ね、平和学習や文化的な交流を深めていくそういったプロジェクトの旅が持たれています。
今回このチャム・ジョウン教会のユン牧師のお話やメッセージをお聞きする機会があり大変恵まれましが。何よりも心に残りましたのは、ユン先生が日本が過去に韓国に行なった侵略戦争は悪だとしつつ、しかし私たち日本人のことが大好で、日本の救いのために祈っておられるということを知らされたことでした。そのユン先生の言葉には、いら立ちという感情を一片も感じることはありませんでした。むろん、最初からそうではなかったでしょう。キリストの十字架とその赦しの福音と、今日の詩編のようなみ言葉による信仰がユン先生と私たちを和解の恵みへと導くのです。
先生の暖かく包み込むような信仰のまなざしでもって、神さまはほんとうに「出会い」の豊かさを教えてくださいました。韓国人、日本人の立場の違いは確かにありますし、その歴史をきちんと知り、心に刻んで二度と同じ過ちを繰り返してはなりません。その上で、神さまは韓国人も日本人も、どの国の人も、かけがえのない「命」として造られていることを覚え、これからの未来を切り拓く若い人たちには特に、まず一人の人として友達になること、身近な文化やスポーツをとおして親しくなることから始まり、そこから韓国や日本のことについて深く学び合い、共に生きていくほんとうの交流ができるといいなと思わされました。
この詩編37編には「いら立つ」という言葉が3回も使われています。それは「腸:はらわた」が煮えくりかえるような憤りや怒りの感情を強く表した言葉であり、その不当な仕打ち、不条理ともいえる現状の中で、なお詩人は主にまかせよ、主にゆだねよと、御神にどこまでも信頼していくのであります。
「いら立つ」ということについては、まあ様々なレベルといいますか次元の「いら立ち」というものがあると思います。私たちも日常の生活において、いろんな「いら立ち」を感じることがあります。それは自分の置かれた立場においてであったり、あるいは人との関係においてであったり、又、自分自身に対してであったりとほんと様々であります。いら立ちを持たない、いら立たないという人が果たしているでしょうか。
私たちはそういったいら立ちと、どう向き合い、対処しているでしょうか。いら立ちは人間であるがゆえに持っている感情であるともいえましょう。
特に今日のところで詩人は「悪事を謀る者のことでいら立つな」「あなたの道を主にまかせよ」と呼びかけます。
むろん詩人は「悪事を謀る者」の不正や悪をそのまま見過ごしなさい、放っておきなさいと言っているのではありません。今も世界のさまざまな地で繰り返される戦争や民族紛争、搾取や命が不当に扱われる事々。又、一瞬にして命を奪う核兵器をはじめ殺戮の兵器が今この時も作られているという現状に対し、「いら立ち」を覚えるのは当然のことです。そういう意味での「いら立ち」を抱かないことは逆に怖いことだと思います。
しかし、この「いら立ち」という感情は、といもすれば憎しみや恨みを燃え上がらせます。
だんだんそのことに固執し、そういう思いが溜まってきますとどうなるでしょう。たとえ正当な怒りであったとしても、冷静な判断が損なわれてくるでしょう。相手を責めることばかり思いがいき、自分のことが見えなくなるでしょう。とどのつまり悪事を謀る者に心動かされ、悪に振り回されるかたちで自らも罪を犯してしまうことになる。それでは憎しみの連鎖となり、悲劇が繰り返されるばかりです。その事を詩人はよくわきまえ知っていた、経験していたのかも知れません。
話が変わりますが。先週私は火曜日から金曜日までの4日間、伊豆の天城山荘で開かれました全国少年少女大会に分団リーダーとして参加してまいりました。今年の全国の少年少女大会は「出会い(マンナ)」というテーマでした。韓国語で「出会い」を「マンナ」というそうです。今回は初めて韓国のチャム・ジョウン・バプテスト教会からユン牧師と少年少女たち十数名を大会にお招きし、一緒に交流の時が持たれました。これは、昨年日本のバプテスト教会の少年少女有志が「隣人に出会う旅・韓国」に参加して、交流を持ったことが経緯にありました。日本が今から丁度100年前に韓国を併合し、植民地化において、人権、文化、言語を奪ってきたことを心に刻みつけつつ、韓国の教会を訪ね、平和学習や文化的な交流を深めていくそういったプロジェクトの旅が持たれています。
今回このチャム・ジョウン教会のユン牧師のお話やメッセージをお聞きする機会があり大変恵まれましが。何よりも心に残りましたのは、ユン先生が日本が過去に韓国に行なった侵略戦争は悪だとしつつ、しかし私たち日本人のことが大好で、日本の救いのために祈っておられるということを知らされたことでした。そのユン先生の言葉には、いら立ちという感情を一片も感じることはありませんでした。むろん、最初からそうではなかったでしょう。キリストの十字架とその赦しの福音と、今日の詩編のようなみ言葉による信仰がユン先生と私たちを和解の恵みへと導くのです。
先生の暖かく包み込むような信仰のまなざしでもって、神さまはほんとうに「出会い」の豊かさを教えてくださいました。韓国人、日本人の立場の違いは確かにありますし、その歴史をきちんと知り、心に刻んで二度と同じ過ちを繰り返してはなりません。その上で、神さまは韓国人も日本人も、どの国の人も、かけがえのない「命」として造られていることを覚え、これからの未来を切り拓く若い人たちには特に、まず一人の人として友達になること、身近な文化やスポーツをとおして親しくなることから始まり、そこから韓国や日本のことについて深く学び合い、共に生きていくほんとうの交流ができるといいなと思わされました。