宣教 詩編22編2-6節
冒頭の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉は、私たちの救い主イエス・キリストが十字架上で叫ばれたお言葉と同じであります。主イエスは想像を絶するようなその苦しみの中で、このダビデの歌を思い起こし、ご自身の姿をそこに重ねておられたのかも知れません。実にこの詩の中には8,9節にあるように人々が「あざ笑い」「頭を振りつつ」「主に依り頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう」と嘲笑する、そんな有様がよまれていますが。
それも福音書に記されたユダヤの民と同様でありますし、19節の「着物を分け、衣をとろうとしてくじを引く」などは、ローマ兵が、鞭打たれたイエス様の体から衣を取り、それをくじで分けたという十字架の場面同様のことばが記されてあります。そういったことから、この歌はイエスさまの受難の出来事を預言したものであるともいわれるゆえんです。
このところを今回じっくり何度も読みながら考えさせられたのは、「本当に神は詩人の祈りに対して応答しておられないのか」ということです。確かにこの詩の中に神さまの直接的な答えは見出せません。私どもも祈りがすぐに聞かれた、御言の示しを受けた、そういったことも時に与えられますが。押しても引いても大岩のように動かない問題を前にした時、「なぜ神よ、沈黙しておられるのか」と余計に苦悩するものです。神はどんなことでもお出来になる、神に出来ないことなど何一つない、では何故こんなに祈っても聞かれないのか、、、沈黙しておられるのか。
私はこれまで牧師として幾人かの兄姉の終末期を見守り、祈りを共にし、天に送る務めに与らせて戴きました。そしてその都度、本当に自分は何もできない者だと無力さを覚えます。ご本人やご家族に対して慰めや励ましの言葉さえ持ちえず、ただ沈黙するしかない。
ただ自分には見守ることしかできない、おじゃまにならないように寄り添って主に執り成し祈ることしかできないのですね。そういう中でただ一つ与えられることは、そのところに十字架の苦悩を御存じであられる主がその方と共におられるという信仰であります。
世の人はそんな時に信仰など何になるのかというかも知れません。しかし、私が言葉を失うそれ以上に、「深い沈黙」をもって主がその方に寄り添っておられる。それは理屈ではなく、そのような体験に与らせて戴くのであります。
神は「うめきも言葉も聞いてくださらないのか」。神は「呼び求めても答えてくださらないのか」と、この詩人は激しく神に訴えておりますが。神はそのうめきも言葉もご自身のものとして受け止めてくださっている。そのような沈黙であるということを、この詩人も、又、私どもも信じるのであります。私たちの神は、「インマヌエルの神」「共におられる神」なのであります。
さらに、この詩編を読む中で心に留まったことがあります。
4節以降で「だがあなたは、聖所にいまし、イエスエルの讃美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」とうたっています。そこに「あなた(わたしの神)に依り頼んで」という言葉が3度も繰り返されているのです。
ある方が、自分は教会に来るようになって祈りの中でクリスチャンの人が神さまに向かって、「あなた」と呼びかけるのを聞いて驚いた、とおっしゃっていました。神に「あなた」など親しげに呼びかけるとはどういう宗教なのだろうと思ったそうです。同時に、そのように個人的に親しげに神に祈れるクリスチャンをうらやましく思ったそうです。これはこの3節にあります「わたしの神よ」という関係であります。
殊に、私がここで教えられましたのは、この詩人が小さい子どもの頃から共同体や親たちによって、集会や家庭で神とその救いのみ業についてずっと語り伝えられ、教えられてきたという信仰のバックボーンがあったということです。
けれども、私なども教会学校に行っていましたが、どうでしょう。小さい頃というのは信仰の学びなどもなかなか自分のこととして考えたりいたしませんよね。けれども実際に自分が苦難や逆境に遭いますと、祖先や親たちの物語と単に思えたものが、今、苦しみの中にある自分を支える「信仰の言葉」としてその心に呼び覚まされ、響いてくる。そういうものなのではないでしょうか。
それは、子どもの頃から神の救いのみ業について集会や家で教えられてきたことが、目覚めるというのでしょうか、その人の人生の中に生きてくるのであります。一度まかれたみ言葉や信仰の種が本当に必要とされる時に芽を吹くということです。ですから、神の救いのみ業をことあるごとに何度も何度も語り伝え、あかしし続けていくことが、大事なことであります。私たちにはそれがどこでどのように芽を吹くのか分からないのですから。
最後に、冒頭で申し上げましたように、十字架上のイエスさまの叫びは、この詩人をはじめ、世に生きるすべての人の理不尽、不条理ともいえるとこから来るうめきや嘆きを、イエスさまがご自分の叫びとなさったということであります。
神の子、いわば神ご自身が人としての苦しみの極み、不条理といえる状況に投げ込まれ叫ばれた。神は沈黙しておられるのではありません。ご一緒に叫ばれているのであります。
私どもにとりまして、ほんとうにそれは畏れ多いことであり、感謝に堪え得ません。
私たちが世に生きるうえで悩みや苦しみはあります。「あなたがたは世では苦難がある、しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と主イエスは言われました。
聖書は主イエスの十字架を仰いで生きることが、如何に恵み深い生き方であるかということを、私どもに語りかけます。主イエスの十字架のもとにあって、生ける主を共に仰ぎ、証ししつつ、互いに支え合いながら、福音宣教の業に、又、信仰の成長のために進んでまいりましょう。
9月に伝道開始60周年。この天王寺の地にギレスピー宣教師が開拓伝道なさって60年を迎えます。その記念すべき時をおぼえての特別伝道集会が9月25-26日に計画されています。
主からこの地で福音宣教するよう託された尊い務めに一層応えて参りましょう。
冒頭の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉は、私たちの救い主イエス・キリストが十字架上で叫ばれたお言葉と同じであります。主イエスは想像を絶するようなその苦しみの中で、このダビデの歌を思い起こし、ご自身の姿をそこに重ねておられたのかも知れません。実にこの詩の中には8,9節にあるように人々が「あざ笑い」「頭を振りつつ」「主に依り頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう」と嘲笑する、そんな有様がよまれていますが。
それも福音書に記されたユダヤの民と同様でありますし、19節の「着物を分け、衣をとろうとしてくじを引く」などは、ローマ兵が、鞭打たれたイエス様の体から衣を取り、それをくじで分けたという十字架の場面同様のことばが記されてあります。そういったことから、この歌はイエスさまの受難の出来事を預言したものであるともいわれるゆえんです。
このところを今回じっくり何度も読みながら考えさせられたのは、「本当に神は詩人の祈りに対して応答しておられないのか」ということです。確かにこの詩の中に神さまの直接的な答えは見出せません。私どもも祈りがすぐに聞かれた、御言の示しを受けた、そういったことも時に与えられますが。押しても引いても大岩のように動かない問題を前にした時、「なぜ神よ、沈黙しておられるのか」と余計に苦悩するものです。神はどんなことでもお出来になる、神に出来ないことなど何一つない、では何故こんなに祈っても聞かれないのか、、、沈黙しておられるのか。
私はこれまで牧師として幾人かの兄姉の終末期を見守り、祈りを共にし、天に送る務めに与らせて戴きました。そしてその都度、本当に自分は何もできない者だと無力さを覚えます。ご本人やご家族に対して慰めや励ましの言葉さえ持ちえず、ただ沈黙するしかない。
ただ自分には見守ることしかできない、おじゃまにならないように寄り添って主に執り成し祈ることしかできないのですね。そういう中でただ一つ与えられることは、そのところに十字架の苦悩を御存じであられる主がその方と共におられるという信仰であります。
世の人はそんな時に信仰など何になるのかというかも知れません。しかし、私が言葉を失うそれ以上に、「深い沈黙」をもって主がその方に寄り添っておられる。それは理屈ではなく、そのような体験に与らせて戴くのであります。
神は「うめきも言葉も聞いてくださらないのか」。神は「呼び求めても答えてくださらないのか」と、この詩人は激しく神に訴えておりますが。神はそのうめきも言葉もご自身のものとして受け止めてくださっている。そのような沈黙であるということを、この詩人も、又、私どもも信じるのであります。私たちの神は、「インマヌエルの神」「共におられる神」なのであります。
さらに、この詩編を読む中で心に留まったことがあります。
4節以降で「だがあなたは、聖所にいまし、イエスエルの讃美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」とうたっています。そこに「あなた(わたしの神)に依り頼んで」という言葉が3度も繰り返されているのです。
ある方が、自分は教会に来るようになって祈りの中でクリスチャンの人が神さまに向かって、「あなた」と呼びかけるのを聞いて驚いた、とおっしゃっていました。神に「あなた」など親しげに呼びかけるとはどういう宗教なのだろうと思ったそうです。同時に、そのように個人的に親しげに神に祈れるクリスチャンをうらやましく思ったそうです。これはこの3節にあります「わたしの神よ」という関係であります。
殊に、私がここで教えられましたのは、この詩人が小さい子どもの頃から共同体や親たちによって、集会や家庭で神とその救いのみ業についてずっと語り伝えられ、教えられてきたという信仰のバックボーンがあったということです。
けれども、私なども教会学校に行っていましたが、どうでしょう。小さい頃というのは信仰の学びなどもなかなか自分のこととして考えたりいたしませんよね。けれども実際に自分が苦難や逆境に遭いますと、祖先や親たちの物語と単に思えたものが、今、苦しみの中にある自分を支える「信仰の言葉」としてその心に呼び覚まされ、響いてくる。そういうものなのではないでしょうか。
それは、子どもの頃から神の救いのみ業について集会や家で教えられてきたことが、目覚めるというのでしょうか、その人の人生の中に生きてくるのであります。一度まかれたみ言葉や信仰の種が本当に必要とされる時に芽を吹くということです。ですから、神の救いのみ業をことあるごとに何度も何度も語り伝え、あかしし続けていくことが、大事なことであります。私たちにはそれがどこでどのように芽を吹くのか分からないのですから。
最後に、冒頭で申し上げましたように、十字架上のイエスさまの叫びは、この詩人をはじめ、世に生きるすべての人の理不尽、不条理ともいえるとこから来るうめきや嘆きを、イエスさまがご自分の叫びとなさったということであります。
神の子、いわば神ご自身が人としての苦しみの極み、不条理といえる状況に投げ込まれ叫ばれた。神は沈黙しておられるのではありません。ご一緒に叫ばれているのであります。
私どもにとりまして、ほんとうにそれは畏れ多いことであり、感謝に堪え得ません。
私たちが世に生きるうえで悩みや苦しみはあります。「あなたがたは世では苦難がある、しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と主イエスは言われました。
聖書は主イエスの十字架を仰いで生きることが、如何に恵み深い生き方であるかということを、私どもに語りかけます。主イエスの十字架のもとにあって、生ける主を共に仰ぎ、証ししつつ、互いに支え合いながら、福音宣教の業に、又、信仰の成長のために進んでまいりましょう。
9月に伝道開始60周年。この天王寺の地にギレスピー宣教師が開拓伝道なさって60年を迎えます。その記念すべき時をおぼえての特別伝道集会が9月25-26日に計画されています。
主からこの地で福音宣教するよう託された尊い務めに一層応えて参りましょう。