宣教 詩編51編3~14節
51編は悔い改めと共に神との個人的な関係の回復を切に求める祈りが基軸になっていますが。15節以降を読みますと、「わたしはあなたの道を教えます。あなたにそむいている者に、
罪人が御もとに立ち返るように」と15節にありますように、神の御慈しみとみ救いをイスラエルの民に伝えていく、という側面を読み取ることができます。ダビデ王の後にイスラエルは南ユダと北イスラエル王国に二分し、後にイスラエルの民は神の教えに背き、大国と戦争をして都エルサレムは崩壊し、遠い大国の地に捕囚として連れていかれ、その後捕囚の身から解き放たれてエルサレムに帰還するのであります。そのイスラエルの民としての罪責の歴史がここに踏まえられているように思えます。
神に対する深い悔い改めの中、20節の「御旨のままシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください」との神の民たちの切なる願い、祈りがあったのです。
神の民としてのイスラエルが、二度と罪を犯すことがないように、罪を繰り返すことがないように。今日読んでまいりましたダビデの切なる訴えを継承して生きること、そこに決意と希望とを信仰の民たちは抱いていったということではないでしょうか。
本日は「罪を告白する希望」との題をつけました。。
今日は平和・命の尊さを心に留めて、二度と戦争が繰り返されないために祈り求め、歩んでいくそのような日として主に礼拝を捧げています。
戦争という国家的な罪は権力や利害による構造的な問題はありますが。詩編51編から改めて教えられることは、ダビデもいわばその構造に捕われておぞましい罪を犯しますが、そこで彼は活ける真の神こそが、この世界のすべてを治め、すべてのことどもをお裁きになられることを思い知らされるのです。ダビデがそのように心砕かれ、悔いる心を神のみ前に注ぎ出したとき、まさに「暗闇の中に輝く光」を見るのですね。そして「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と謙虚に祈り、生きるものへと変えられていくのですね。「悪かった、ごめんなさい」で終わらない。新しく確かな霊を戴いて、み心に歩む者としてください、と祈りつつ生きる。そうなんです、クリスチャンは日本の総人口の1パーセントほどですが、そういうクリスチャン一人ひとりが、その教会一つひとつが、個人のことにせよ、国家のことにせよ、過去の過ちから目をそらさず、無関心になることなく、二度と同じ過ちを犯すことのないように祈り、求め、生きていくことが如何に大事かということをこの詩は示しているのです。
悔い改めと赦しで終わらず、二度と罪を犯すことがないように、と祈り求めていくクリスチャンの生に神さまの希望があります。
51編は悔い改めと共に神との個人的な関係の回復を切に求める祈りが基軸になっていますが。15節以降を読みますと、「わたしはあなたの道を教えます。あなたにそむいている者に、
罪人が御もとに立ち返るように」と15節にありますように、神の御慈しみとみ救いをイスラエルの民に伝えていく、という側面を読み取ることができます。ダビデ王の後にイスラエルは南ユダと北イスラエル王国に二分し、後にイスラエルの民は神の教えに背き、大国と戦争をして都エルサレムは崩壊し、遠い大国の地に捕囚として連れていかれ、その後捕囚の身から解き放たれてエルサレムに帰還するのであります。そのイスラエルの民としての罪責の歴史がここに踏まえられているように思えます。
神に対する深い悔い改めの中、20節の「御旨のままシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください」との神の民たちの切なる願い、祈りがあったのです。
神の民としてのイスラエルが、二度と罪を犯すことがないように、罪を繰り返すことがないように。今日読んでまいりましたダビデの切なる訴えを継承して生きること、そこに決意と希望とを信仰の民たちは抱いていったということではないでしょうか。
本日は「罪を告白する希望」との題をつけました。。
今日は平和・命の尊さを心に留めて、二度と戦争が繰り返されないために祈り求め、歩んでいくそのような日として主に礼拝を捧げています。
戦争という国家的な罪は権力や利害による構造的な問題はありますが。詩編51編から改めて教えられることは、ダビデもいわばその構造に捕われておぞましい罪を犯しますが、そこで彼は活ける真の神こそが、この世界のすべてを治め、すべてのことどもをお裁きになられることを思い知らされるのです。ダビデがそのように心砕かれ、悔いる心を神のみ前に注ぎ出したとき、まさに「暗闇の中に輝く光」を見るのですね。そして「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と謙虚に祈り、生きるものへと変えられていくのですね。「悪かった、ごめんなさい」で終わらない。新しく確かな霊を戴いて、み心に歩む者としてください、と祈りつつ生きる。そうなんです、クリスチャンは日本の総人口の1パーセントほどですが、そういうクリスチャン一人ひとりが、その教会一つひとつが、個人のことにせよ、国家のことにせよ、過去の過ちから目をそらさず、無関心になることなく、二度と同じ過ちを犯すことのないように祈り、求め、生きていくことが如何に大事かということをこの詩は示しているのです。
悔い改めと赦しで終わらず、二度と罪を犯すことがないように、と祈り求めていくクリスチャンの生に神さまの希望があります。