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ヨシヤ王の死

2011-04-03 07:46:22 | メッセージ
宣教 列王記下23章21~30節

これまで3ヶ月にわたって列王記を礼拝で読んできました。預言者エリヤとエリシャ。そしてヒゼキヤ王とヨシヤ王に着目してきましたが。二人の預言者、そして二人の王の共通点と相違点。光と闇の部分。またその偉業と人としての弱さから様々に学ぶことができました。今日のヨシヤ王の記事はその最終回となります。

神殿修復の折に見つかった「律法の言葉」によって、ヨシヤは主との正しい関係を見出し、悔い改めをもってユダの民全体に与えられた主なる神との「契約」を更新しました。
王は「イスラエルの民の救いの原点」ともいえる、捕われのエジプトから解放(エクソドス・出エジプト)されたことを心に刻みつけるため、ユダの民たちと共に過越祭を祝いました。そしてさらに彼は、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきもの、すなわち「口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像」を一掃しました。このようにして彼は律法の言葉を実行したのです。25節では「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王は立つことはなかった」ともうほめちぎられていますね。
ところがこれで終わるかといえばそうではありません。
聖書は人の善の部分・光のあたる所だけでなく、罪や闇とも言えることからも赤裸々に描写します。それは聖書を手に取り、読む者にとって教訓といえば訓示的ですが、聖書は人間の姿を的確に照らし出す鏡といえましょう。

ヨシヤ王がこうして過越祭を行い、エルサレムから偶像の一掃や主の宮きよめをなした後に、戦いが起きます。これは歴代誌下35章20節以降に詳しく書かれていますので、そこを開けてください。旧約聖書p720 20~24節までを読んでみましょう。
ヨシヤはネコが伝えた言葉を聞いても思い直すことなく、攻撃のため王と分からないように変装までしてネコと戦おうとしました。歴代誌は、ヨシヤ王は「神の口から出たネコの言葉を聞かなかった」と伝えています。こうして彼はメギドにおいてエジプト軍の放った矢に屈してしまうのです。そこには、ヨシヤ王のおごりと傲慢があったといえないでしょうか。そのことを示すためにここにわざわざ「神の口から出たネコの言葉を聞かなかった」と記されているのではないかということであります。
ヨシヤの功績やなしてきた働きはほんとうに大きく、これまでのイスラエルの王が成しえなかったことを彼は成し遂げてきたといえます。み言葉の発見に伴う礼拝改革、み言葉を共に聞き、共なるみ言葉の実践を推し進めてきました。そのどれも尊い働きであり、神の民に向けての今も変わることのない必要なメッセージであります。が。その彼の成功や称賛によって、彼自身がある種傲慢になってしまったのかも知れません。しまいには神の口から出た言葉さえ聞く耳を持つことができなくなってしまった。もしヨシヤ王が生涯、高慢に陥らず、主にへりくだり、従い通していたなら、預言の言葉どおり平和のうちに安らかに眠りにつくことができたかも知れません。しかし実際そうはならなかったのであります。

私が今日の個所で考えさせられたのは、26節の「しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤のために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。主は言われた。「わたしはイスラエルを退け、わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの神殿もわたしは忌み嫌う」というみ言葉であり、これを如何に聞いていけばよいのかということでした。
ヨシヤ王の戦死の後、南ユダ王国は滅亡の時を迎えるのでありますが。それは果たしてヨシヤ王のおじいちゃんのマナセ王が主に対して引き起こした仕業のゆえだったのでしょうか?先祖が犯した罪のゆえに子子孫孫に災いが及んだのでしょうか?それは人には分かりません。ただしかし、ここに確かに示されるのは、ヨシヤ王が主の前にへり下り、謙遜に主とその言葉に仕えていた時は、ユダのうちに平安があり、王が高慢になって主の御声に耳を傾けなくなった時、祝福が遠ざかってしまったということであります。マナセの罪とは、そういうことを表しているのではないでしょうか。

最後に、今回の大震災で被災地のある中学校で行われた卒業式の風景がテレビで紹介されたのを観ました。ある卒業生が涙を流しながら訴えるようにして読んだ答辞に、胸が熱くなりました。ご覧になった方も多いかと思いますが。
「これまで自分たちは震災に対して十分な備えをして避難訓練を行ってきたそういう推奨校でもあった。そういう避難訓練や対策をしてきたにも拘わらずこのような出来事が起こったのは悔しい。天が与えた試練としてはあまりにも大きすぎる」。
いくら訓練や備えや対策をもってしても、どうしようもないことが起こった。そのことに対する憤りと悔しさ。これは本当に当事者でなければ分からない叫び、心情であると思います。私には卒業生の答辞の言葉と、詩編、神への嘆願の歌とが重なり響いてきまた。
最後にこの卒業生が「天を恨まず置かれた状況を受け止め」と未来に向けての強い決意を口にしたのは真に希望でありましたが。

私は人の最期のあり方がたとえ非業の死であったとしても、それがそのまま神に見捨てられた者の死であるかとは思いません。最期は安らかに天に召されていきたいというのは誰もが願うことです。けれども、壮絶な最期、非業の死を遂げたとしても、命と死とを支配されておられる神は生きておられ、すべてを御手に治めておられると私どもは信じます。
大震災から2週間、被災地と被災者の方々は、さらに原発事故による放射性物質の漏えいという見えない不安と恐れに日々襲われています。が、ただそのような只中にあって、家や大切な家族を亡くした被災者が、他の被災者を支え、助け合う働きが全世界、日本中のいたるところで生まれているという知らせを聞くと、ほんとうにすごいなと思います。
大震災前にニュージーランドのクライストチャーチで大地震が起こりましたが。その市長さんが「我々は今一番、日本で大震災に遭われた方々の思いに近い」とおっしゃっていました。又、大震災で水不足が続く中、ご自宅の井戸水を被災者に無償で提供されていたご主人は、「こんなときだからこそ役に立って嬉しい」といっておられました。悲しみと怖れが覆っているただ中において、生まれ出るものが確かにあるということを思い知らされます。

Ⅰペトロ4章8a節を読んで宣教を閉じます。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。」
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