宣教 創世記2章18~25節
神は人を「生きる者」としてお造りになった後、エデンの園に住まわせられます。
エデンとは、へブル語で「楽しみ」「喜び」という意味があります。ギリシャ語では「パラダイス」(楽園;ルカ23:43)と言います。エデンには、人が生きる喜びや楽しみがありました。4つの川に通じ肥沃な地、豊かな鉱物や食べ物があり、多くの生き物がいたエデン。神は人をそのエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされたのです。そのように初めの人アダムには、エデンで土を耕し、守っていくという仕事があり、その報酬としては余りある程の食物がありました。
ところが、主なる神さまは、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われます。それは人が食べ物や仕事などによっては支えられないもの、根源的な孤独があったからです。
そこで神は人を造られたように、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来られて、人がそれぞれに名をつけて呼ぶのをご覧になられますが、「人がそれらのうちに自分に合う助ける者を見つけることはできなかった」とあります。
ではなぜ、神さまご自身が直接助ける者とはなられなかったのでしょうか。もちろん神さまは私たち人間を助けて下さるお方であります。しかしここにある「助ける者」、それは同伴者や相棒、仲間という意味を持ちます。実にそのような助け手が人には必要なのだと神さまはお考えになられたということです。そのような助け手は野の獣や、空の鳥たちでも、又神さまですらなかったのです。神は具体的な人に合う助ける者をお造りになられて、出会わされるのであります。そこで21節22節、「主なる神は、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」というのです。
ここで注目したいのは、神は他の生き物のように土のちりからではなく、人のあばら骨の一部から女を造られたということであります。それは土ではなく、「人を介して」助ける者を造られたのであります。なぜあばら骨からだったのか、頭や手足の骨であってもよかったのではないかとも思いますが。古くからあばら骨のある胸には「愛情の宿るところがある」とか「魂のやどるところがある」と信じられていたからです。神はその胸のあばら骨の一部を抜き取って女を造り上げられ、人に合う(ふさわしい)助ける者として、彼に出会わされたというのであります。それは、人には心の楽しみや喜びを、又労苦や悲しみといった感情を分かち合うことのできる存在、そういった助ける者が必要であるということを表しています。又、ここをただ表面的に読んで、女は男の一部から造られた。だから女は男に劣る、服従するというような考え方。又逆に、女が男の一部から造られたなんてこれは女性蔑視の考え方だとするのも、これはどちらも間違ったものであります。
確かに助ける者(ヘルパー)といえば、手伝いとか助手のような響きがあり、助ける側と助けられる側といった定まった関係を思いがちです。しかし、ここで主がおっしゃった「助ける者」とは、ただ「~してあげる」「~してもらう」というような上下の関係や従属の関係ではなく、仕え合い、支え合う相互の関係としての助け手が必要だという事であります。
同じ2章に「人は土の塵で形づくられた」と記されています。それは弱く、もろいものであるということであり、「独りでは生きられない」存在であります。「いや私は強いから大丈夫、自信がある、人の世話になんかならん。自分で生きていける」という人、又「何でも自分でできるから」という人も世の中にはおられるかも知れませんが。しかしそういうものではありません。どんなに強気で生きていても、病や突然の事故はいつ起こるか分かりません。自分独りではどうすることもできないような状況になって初めて、結局は人の世話にならざるを得ないことを知らされるのです。
「人は独りでは生きられない」。そのことを最初にお気づきになったのは神さまでありました。そこで神は助ける者、すなわち同伴者、相棒、仲間をお与えくださった。それが本日のメッセージであります。
1995年の阪神大震災でご自分の尊い家族を犠牲にされた被災者の方が、震災後の当時のことを振り返りながらおっしゃっていました。「そこで自分の心を支えてくれたのは、他人のような人が自分のことを覚え、支えてくれたという「人と人の絆」だった」と。
東日本大震災から2カ月を迎えますが、被災されて家族や家を失われた方々が自ら被災者の方々を励まし、支えておられたり、又、阪神大震災を経験した方々が、東北の被災地を訪れて支援される光景が新聞やテレビで伝えられています。
聖書は人の創造に際し、土のちりから造られたと伝えます。肉体的にも精神的にも人がいかにもろく、弱い者であるかということです。しかし神は「人は独りでいるのは良くない。
彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃって、弱さやもろさをもつ人が互いに励まし、支え合うための友、パートナーをお造りになられたのであります。人はみな草のように弱く、やがては枯れていくはかない存在です。だからこそ、その弱く、もろい者同士が互いにつながっていけたらどんなに人生は豊かで、有意義なものとなるでしょう。
25節のところに、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とありますが。自分がしんどい時やサポートが必要な時に、助けてほしい、祈ってほしいということを、恥ずかしがらず言い合えるってことはとても大切なことだと思います。そういった声をあげられるような、又その声に応えられるような間柄、関係があると、どんなに嬉しく、心強いでしょうか。
そのようになっていくには、自分も又、助け手を必要とする弱く、欠けたる面の多い「人間」であることを自覚することです。又人の弱さも責めたりもの笑いしないことが、本当に必要なことです。この「恥ずかしがりはしなかった」とは、互いが、まず神からかけがえのない作品として愛のうちに造られた者であるということを認め合っていたからです。弱さを恥じ、隠すこともありません。しんどい時は、苦しい時は「助けてほしい」「祈ってほしい」と互いに言い合い、引き受け合える関係が大切なのです。主にあってそういった関係を祈りつつ、これからも作っていきましょう。
神は人を「生きる者」としてお造りになった後、エデンの園に住まわせられます。
エデンとは、へブル語で「楽しみ」「喜び」という意味があります。ギリシャ語では「パラダイス」(楽園;ルカ23:43)と言います。エデンには、人が生きる喜びや楽しみがありました。4つの川に通じ肥沃な地、豊かな鉱物や食べ物があり、多くの生き物がいたエデン。神は人をそのエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされたのです。そのように初めの人アダムには、エデンで土を耕し、守っていくという仕事があり、その報酬としては余りある程の食物がありました。
ところが、主なる神さまは、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われます。それは人が食べ物や仕事などによっては支えられないもの、根源的な孤独があったからです。
そこで神は人を造られたように、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来られて、人がそれぞれに名をつけて呼ぶのをご覧になられますが、「人がそれらのうちに自分に合う助ける者を見つけることはできなかった」とあります。
ではなぜ、神さまご自身が直接助ける者とはなられなかったのでしょうか。もちろん神さまは私たち人間を助けて下さるお方であります。しかしここにある「助ける者」、それは同伴者や相棒、仲間という意味を持ちます。実にそのような助け手が人には必要なのだと神さまはお考えになられたということです。そのような助け手は野の獣や、空の鳥たちでも、又神さまですらなかったのです。神は具体的な人に合う助ける者をお造りになられて、出会わされるのであります。そこで21節22節、「主なる神は、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」というのです。
ここで注目したいのは、神は他の生き物のように土のちりからではなく、人のあばら骨の一部から女を造られたということであります。それは土ではなく、「人を介して」助ける者を造られたのであります。なぜあばら骨からだったのか、頭や手足の骨であってもよかったのではないかとも思いますが。古くからあばら骨のある胸には「愛情の宿るところがある」とか「魂のやどるところがある」と信じられていたからです。神はその胸のあばら骨の一部を抜き取って女を造り上げられ、人に合う(ふさわしい)助ける者として、彼に出会わされたというのであります。それは、人には心の楽しみや喜びを、又労苦や悲しみといった感情を分かち合うことのできる存在、そういった助ける者が必要であるということを表しています。又、ここをただ表面的に読んで、女は男の一部から造られた。だから女は男に劣る、服従するというような考え方。又逆に、女が男の一部から造られたなんてこれは女性蔑視の考え方だとするのも、これはどちらも間違ったものであります。
確かに助ける者(ヘルパー)といえば、手伝いとか助手のような響きがあり、助ける側と助けられる側といった定まった関係を思いがちです。しかし、ここで主がおっしゃった「助ける者」とは、ただ「~してあげる」「~してもらう」というような上下の関係や従属の関係ではなく、仕え合い、支え合う相互の関係としての助け手が必要だという事であります。
同じ2章に「人は土の塵で形づくられた」と記されています。それは弱く、もろいものであるということであり、「独りでは生きられない」存在であります。「いや私は強いから大丈夫、自信がある、人の世話になんかならん。自分で生きていける」という人、又「何でも自分でできるから」という人も世の中にはおられるかも知れませんが。しかしそういうものではありません。どんなに強気で生きていても、病や突然の事故はいつ起こるか分かりません。自分独りではどうすることもできないような状況になって初めて、結局は人の世話にならざるを得ないことを知らされるのです。
「人は独りでは生きられない」。そのことを最初にお気づきになったのは神さまでありました。そこで神は助ける者、すなわち同伴者、相棒、仲間をお与えくださった。それが本日のメッセージであります。
1995年の阪神大震災でご自分の尊い家族を犠牲にされた被災者の方が、震災後の当時のことを振り返りながらおっしゃっていました。「そこで自分の心を支えてくれたのは、他人のような人が自分のことを覚え、支えてくれたという「人と人の絆」だった」と。
東日本大震災から2カ月を迎えますが、被災されて家族や家を失われた方々が自ら被災者の方々を励まし、支えておられたり、又、阪神大震災を経験した方々が、東北の被災地を訪れて支援される光景が新聞やテレビで伝えられています。
聖書は人の創造に際し、土のちりから造られたと伝えます。肉体的にも精神的にも人がいかにもろく、弱い者であるかということです。しかし神は「人は独りでいるのは良くない。
彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃって、弱さやもろさをもつ人が互いに励まし、支え合うための友、パートナーをお造りになられたのであります。人はみな草のように弱く、やがては枯れていくはかない存在です。だからこそ、その弱く、もろい者同士が互いにつながっていけたらどんなに人生は豊かで、有意義なものとなるでしょう。
25節のところに、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とありますが。自分がしんどい時やサポートが必要な時に、助けてほしい、祈ってほしいということを、恥ずかしがらず言い合えるってことはとても大切なことだと思います。そういった声をあげられるような、又その声に応えられるような間柄、関係があると、どんなに嬉しく、心強いでしょうか。
そのようになっていくには、自分も又、助け手を必要とする弱く、欠けたる面の多い「人間」であることを自覚することです。又人の弱さも責めたりもの笑いしないことが、本当に必要なことです。この「恥ずかしがりはしなかった」とは、互いが、まず神からかけがえのない作品として愛のうちに造られた者であるということを認め合っていたからです。弱さを恥じ、隠すこともありません。しんどい時は、苦しい時は「助けてほしい」「祈ってほしい」と互いに言い合い、引き受け合える関係が大切なのです。主にあってそういった関係を祈りつつ、これからも作っていきましょう。