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主の預言者サムエル

2012-06-10 20:08:47 | メッセージ
宣教 サムエル記上3章1~21節    

①祭司エリに託された幼子サムエル
先週は、1章よりサムエルの誕生に関するエピソードの記事から、その母「ハンナの祈り」に心を留めつつ、御言葉を聞きました。切なる祈りと神のご計画によって生まれた子は、サムエル「その名は神」と命名されます。
その後、ハンナは祈りのうちに主と約束した通り、主にサムエルをささげるべく祭司エリにサムエルを託すのであります。サムエルは祭司エリのもとで幼児期、そして少年期を送る中で、主なる神さまの存在について、又主を畏れる信仰や律法についての手ほどきを受けていったであろうと思われます。サムエルは主にささげられた者としてすくすくと育ち、成長していったことが2章の記述から伺え知る事ができます。彼はやがてその名のとおり、イスラエルの人々に神の名を指し示す者となっていくのであります。

②祭司エリの息子たち
さて、その2章には祭司エリの息子ホフニとピネハスのことが書かれています。
彼らは成人して父エリと同様祭司になったのでありますが。しかし、これが祭司とは名ばかりで2章12節には、「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった」と記されています。一体彼らがどのように振る舞っていたかというと、通常祭司は礼拝者が持って来たささげものを、主にささげるために煮たり焼いたりして、その後で礼拝者と共に食するのですが。この二人の祭司は、ささげ物としてまだ煮ている最中に肉刺しで突きあげてそれらを持ってこらせたというのですね。又、礼拝者が主にささげるためにもってきたささげ物の肉を、これまた下働きを使い、主にささげる前から集めさせました。ちゃんとささげさせてくださいと人々が言っても、「今すぐよこさねば、力ずくで取るぞ」と脅して、奪ったというのです。まったく彼らはならず者同様であり、主への供え者を軽んじ、主に対して甚だ大きな罪を犯していたのです。
そして父のエリに、二人の息子が神殿に仕えている女たちとたびたび床を共にしていること、さらに様々な悪行によって聖所を汚していることが耳に入ると、エリは二人の息子らを諭すのでありますが、彼らは父の声に耳を貸すことはなかったのであります。この事を通して祭司エリの家は絶たれてしまうことになるのですが。

③祭司エリの罪
3章13節を読みますと、「息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった父エリの罪」が主に指摘されているのですね。主の前に、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、主を畏れ敬う厳格な思いをもって伝えることの重要さを教えられます。その指摘を甘んじてしまったばかりに、主の厳しい裁きが下されることになってしまったエリと息子たち。
使徒パウロはローマの信徒への手紙の中で次のように勧めています。12章2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」二人の息子たちばかりでなく、父エリもまた息子たちに対し、そういう点において不徹底であったといいますか、曖昧にしていたのです。

ところで、エリの二人の息子とサムエルとは好対照であったといえるでしょう。エリにとって息子二人は確かに血のつながる親子でありましたが、残念ながら神の家族としてつながっていたとはいえません。一方、サムエルはエリとは血縁関係もなく、下働きとしてエリに仕える立場でありましたが、主のもとで成長するサムエルをエリはわが子のように受け容れ、サムエルも又、エリから受ける神の教えや戒めに素直に聞き従う中で、深い信頼関係を築いていたのです。それは師弟関係を超えた神の家族としての姿でありました。

③預言者サムエルの召命
さて、本日は3章でありますが。ここではサムエルが主から呼ばれて預言者として立てられてゆくエピソードが、豊かな文学的表現をもって綴られております。
この頃のサムエルは少年とありますから、10歳前後でしょうか。イスラエルでは12歳で成人とみなされていったようでありますから、その少し前の年齢ということになります。

冒頭のところには「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」と、記されてあります。これはその当時、神が語りかけるにふさわしい預言者は実にまれであったという意味で、悲しむべき時代であったということです。そういう時に、主はサムエルに御言葉をお語りになり、サムエルは「主の預言者」として立てられていくのであります。
神の人の不在、それはその時代に生きる人にとって、いのちの言葉を耳にする機会を失うということであり、ビジョンを見出せない状況に陥るということであります。私たちは神の民として、希望を見出し難い時代の中で、「主の預言者」としていのちの言葉と主の幻(ビジョン)を語る人々が立てられていくよう切に祈り求めていかねばならないと、つくづく思いますが。

ところで、主は「サムエルよ」と、2度3度と呼びかけられますが。サムエルは、それが主の呼びかけだとは気づきません。いずれも祭司エリが呼びかけているものと思い、「お呼びになったので参りました」とエリのもとに行きます。
その点について7節に、「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」からと書かれています。サムエルはそれまで、祭司エリから主なる神についての話や教えを聞いていたのであります。しかし、彼は実際のところまだ主と出会うという経験がなかったのであります。彼が主の呼びかけだと理解し、主を知るに至るまでに、彼は3度エリのもとに行きました。ある意味それはサムエルが主と出会う備えの時となっていったのでありまあす。そして3度目に祭司エリはサムエルに、「また呼びかけられたら『主よ、お話しください。僕は聞きます』と言いなさい」とアドバイスします。そこでサムエルは再び主の呼びかけを耳にした時、「どうぞお話しください、僕は聞いております」と、まあ主に向き合ったと申しましょうか、御前に出るようにして主が何をおっしゃろうとされているのか、何をなさりたいのかを、心を澄ませて聞いた、尋ねたのであります。
すると、「主はサムエルのところに来てそこに立たれた」というのですね。それまで主はサムエルに対して、ただ呼びかけられるだけでしたが。サムエルが主の前に「どうぞお話しください。僕は聞いております」、とそのように御前に出たときに、主はサムエルに御言葉をお語りになられるのです。サムエルはまさにここで主と出会う経験をしたのです。
このところを読んで思いますのは、主の呼びかけを聞きとり、主の御言葉を戴くには秘訣があるということです。それは主と交わりの時をもつ祈りにも共通していることでもあります。
私どもは主の御前に出る礼拝において、又祈祷会において、主の家族の交わりの場において、個々人において、主に祈る時、自分の願いや思いというものを並べ立て、「私の願いを、どうか主よ、お聞きください」と、そういう祈りをすることが多々あります。確かにこれも祈りであります。しかし、主の愛をほんとうに知り、主によって生かされている者は、さらに主の深い、豊かなみ恵みに与っていくための祈りを知っています。それは「主よ、お話しください。僕は聞いております」との祈りであります。クリスチャンにとって何よりも大きな力、支えは、その呼びかけと祈りに答えてくださる主の御言葉にあります。その御声に聞き従い、主の御心が実現されていくことこそ、主につながって生きる人の喜びであり、希望なのです。

④主の言葉を曲げない
さて、そのように主の預言者とされたサムエルは主の御言葉を聞くのでありますが。
初めて耳にするその御言葉は何と、ずっとこれまで敬愛し、自分を育ててくれた恩師エリに対する主の裁きの宣告であったのです。彼にとって主の言葉はまことに辛く、厳しいものとなるのです。15節「サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた」とありますから、サムエルはそのことをエリに言うべきかどうか、ほんとうに悩んだのでしょう。
すると、何とエリの方からサムエルを呼んでこう言います。17節「お前に何が語られたのか。私に隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」18節「サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。」
エリは2章のところにおいて、二人の息子のなした主への罪と不義のゆえに自分の家が絶えてしまうという主からの裁きを、すでに神の人から聞いていました。彼は主が、その裁きの言葉を預言者として立てられたサムエルを通して語られることをある程度見越していたのではないでしょうか。そのうえでエリは、語る事を躊躇するサムエルに「隠してはいけない」と、諭すように促したのです。

エリのこの姿から、ほんとうに主にある者としての謙遜さを伺い知ることができます。
エリは、これまで自分の息子たちに悪い事は悪いと、間違いは間違いだと、曖昧にしか指摘してこなかったことに対して後悔の念があったのかも知れません。この過ちをサムエルには犯させてはいけないという思いを持っていたのではないでしょうか。そういう愛情の伴ったエリの言葉に呼応するように、サムエルはエリに隠し立てをせず、一部始終を話しました。主の前に間違っていることは間違っていると、厳格さをもって正せなかったエリ。言いにくかった。痛みが伴った。けれども神の御心を、敬愛の念を持ちつつ隠しだてせず、すべて伝えたサムエル。
 こうして主に立てられた預言者サムエルは、預言者として必要な「主の御言葉をまげず、まっすぐに語る」ということを、この主の預言者とされていく上で最も厳しく高いハードルを、彼は恩師エリの教訓を踏まえた諭しによって越えていくことができた、といっても過言でないでしょう。

サムエルはその後も「成長し、主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。イスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた」と記されています。
耳に心地よいことを伝えるのは簡単なことです。しかし、主の真実とその裁きを伝えること、語ることは、愛と勇気、そして何よりも主への信頼が不可欠です。私たちも又、小さくとも、主に従いゆく者として、その御声に聞き、主の言葉に立ち続けてまいりましょう。

最後に、このエリとサムエルのことを通して、私たちはやはり、何を大事にし、何を畏れて生きるかということに、心を留めていくことがほんとうに大切でることを思わされます。
今週の聖句にこうあります。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。
これこそ人間のすべて。」(コヘレトの言葉12章13節)
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