礼拝宣教 イザヤ65章1~25節
今日は収穫感謝の礼拝を守っております。ここに様々な大地の実りがささげられていますが。これらすべては神さまの豊かな創造の御業によってもたらされた恵みの実りです。こうして糧に与ることのできる幸いに感謝をささげると共に、人類は神さまの創造の御業を管理していく者としての役割を託されていることを謙虚に又厳粛に受けとめおぼえます。
さて、先週は讃美と証しの礼拝でしたので、通常でしたらカリキュラムにしたがいイザヤ書56章1~8節を読むところをとばしまして、今日の65章の箇所から御言葉を聞いています。イザヤ書は大きく3つに分けられるのですが。まず1章~39章の南ユダ王国の崩壊前後のイザヤ自身による預言の箇所、それから40章~55章のバビロニア捕囚とその崩壊と解放期の第二イザヤの預言の箇所、さらには56章~66章のバビロニア捕囚よりエルサレムへ帰還を果たし、その後崩壊していた神殿の再建時代の第三イザヤの預言の箇所と、そのように3つに区分され、イザヤ書全体は300年以上の時代を網羅しております。
先週の箇所と本日の65章は第三イザヤの預言で、その舞台は帰還の地エルサレムとユダであります。
50年というバビロニアでの捕囚の時代は遂に終わりを告げますが、この半世紀には世代の交代もあったでしょう。崩壊後バビロニアを治めたペルシャ帝国の比較的寛容な政策のもとにあって、住みなれたバビロニアに留まる人々もいた一方、故郷への思いを胸に神の民としての自覚の中でエルサレムに帰還する人々がいました。その中には、バビロニアで生まれ育ったユダの2世3世の若い人たちもおり、彼らにとってはエルサレムが逆に外国のように思えたことでしょう。
いずれにしろ、ユダの人々がエルサレムに帰還してそこで見たのは、荒れ果てたエルサレムの姿でありました。戦乱後50年経過してもエルサレム神殿は倒壊したままの状態で、街はいまだ荒廃し、生活も一向に厳しい状況であったのです。そこには又、捕囚にもされず取り残され、細々と命をつないできた人々とその子孫、さらに外国人や先住民もおりました。そういう人々と共存していくことはまた大きな問題でした。
さかのぼりますとユダの捕囚後、捕囚の民たちの間では『イスラエルの民と都エルサレムを再建する』という強い機運が高まり、遂に帰還した後には、律法学者エズラや総督ネヘミヤが捕囚の地で編まれた律法を民に啓示し、それを守ることを重視しました。
例えば、「外国人」と結婚していた者を強制的に離婚させ、それに従わない者には「神の民」から追放を命じ、確固たるイスラエルを再建するためにユダの民の純化政策(排外政策)が強化されていくのです。
しかし先週の56章の箇所にもございますように、第三イザヤでは、人格を否定されていた異邦人も宦官も、主は招かれ、その教えを守り聴き従う者に、「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と宣言しておられるのです。
まずその先週の箇所を受けて、本日の65章1節~25節を読んでいきたと思います。
この65章全体には「救いの約束」という見出しがついており、旧約聖書の中でも極めて新約聖書的な「主の愛と救い」の約束について記されています。
ここにはユダの民、イスラエルの人々は主の愛とその恵みを軽んじ、神ならざるものを拝し、その上自らを清い者として人を分け隔てしていたのです。しかし主は、その2節で「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた」と語ります。
この65章の「主の愛と救い」の約束が旧約聖書の中でも画期的ですばらしいのは、その差し伸べられた主の愛の手が、ユダの民、イスラエルの人々だけでなく、神がお造りなったすべてのものに開かれているということです。それはまさしく新約聖書の福音を先取りするメッセージであります。
主はイスラエルの民であろうとなかろうと、主の愛と救いを受け入れて主に立ち返る者を招かれ、「わたしの僕」と呼び、祝福なさるのです。
使徒パウロはローマの信徒への手紙10章20節で、このイザヤ65章1節を引用して、今や排除され、差別されてきたあらゆる人々、又、主を見出し得なかった異邦人や罪人のもとに、「主の愛と救い」がイエス・キリストによって訪れたことを語っています。
そして同時に、その恵みに対して思い上がることなく、むしろ畏れをもって主の慈しみと厳しさを思いその愛にとどまり続けることの大事さを説いています。
本日のイザヤ書で神に逆らい続けているのは、異邦人ではなく、神に選らばれ立てられてきたイスラエルの民であったことが示されていますが。神の恵みと豊かな導きを得ながらも、感謝をもって応える歩みを忘れ、主の愛と救いを無益なものにしていたその姿を思うとき、使徒パウロが語ったように、神の慈しみにとどまり続けることの大切さを思わされます。いつも新鮮な気持ちで救いの御業を見上げていたいものですね。
さて、続く17節以降には、「新しい天と新しい地の創造」が語られます。いわばそれは第三イザヤの最高潮ともいうべき「喜び躍る」ほどの希望が語られているのです。
18節「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍る者として その民を喜び楽しむものとして、創造する」。
ここには新天地におけるこの上ない歓喜と祝福が満ち溢れています。そこではもはや、「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことはない」。又「若死にする者はいない」「無駄に労することもなく」「生まれた子を死の恐怖に渡すこともない」のです。
実はこれらの悲しみや苦しみ、又恐怖や不安は、ユダの人々がその捕囚の生活の中で体験したことであったのでしょう。しかしもはや主が創造される新天地においては、彼らはその子孫と共に主に祝福された者の一族となる、というのです。
私たちの生きている世界もまた、ほんとうに様々な悲しみ、苦しみが闇を覆っています。又、私たち自身もそのような悲しみや苦しみを日々体験することがあります。しかし主は24節にありますように、「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける」と語りかけ、活ける神さまとの生きた関係の回復を与えてくださるのです。
さらに25節、ここには「新しい天と地」の世界観が啓示されています。
「狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても 害することも滅ぼすこともない」。
それは世の常である弱肉強食の非情な世界ではなく、平和と共存の世界観であります。同様な記述がイザヤ書11章にもございます。それは来るべき「平和の王」について語られている箇所ですが。狼と小羊とが仲良く共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べる。そのような平和の共存を実現するメシア・王がやがてお出でになる。
その預言の言葉は時満ちて遂にイエス・キリストのご降誕とその御業によって始められるのであります。この新しい天と地の創造はまさしくコロサイ1章17節に「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」と記されていますように、この救いの主、神の御子イエス・キリストによって起こされ完成へと向かっているのです。今や私たちも、その神による新しい創造の業にあって喜び楽しみ、喜び躍る者として招かれているのです。
先日、来年1月に上映される「サン・オブ・ゴット」の試写会があり一足早く観ることができました。この映画はヨハネ福音書をベースにした「神の御子イエス・キリスト」のご生涯の物語でありますが。当時ユダヤ社会がローマの支配下に、さらにその下にあったユダヤの権力者、さらにその下で苦しめられる民衆という社会情勢の中で、主イエスがローマの権力のみならず、ユダヤ教指導者の権力によって、さらに民衆の暴力的暴言によって死に引き渡されていくのです。しかしイエスさまは最後までその権力に対して同じように立ち向かおうとはなさいません。 ローマ総督ピラトは「おまえは王なのか」と尋ねますが、主イエスは「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た」と答えられるのです。主イエスは世の権力と戦うために来られたのではなく、神の愛と救いの真理を証するために来られました。それにも拘わらず、その神の愛を受け入れようとせず、頑なに拒む人の罪によって十字架につけられてしまうのです。けれども主はそのような罪深い人間、反逆するような者のためにも神の愛とゆるしを示し、神に執り成されたのです。それはまさに本日のイザヤ書65章2節で、主が「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた」と同様、主イエスはそのようになさったのであります。
十字架の苦難と贖いの死による真の平和の訪れ、「神の国の到来」を現わすために主イエスは私たちの世に来られたのです。その平和の福音は「新しい天と地を創造」する神の愛の力なのです。
最後に、今日は収穫感謝の礼拝ですが。主イエスはこの全地に新しい創造の業が豊かに実を結んでゆくため、「地に落ちた一粒の麦」となられました。その実に与って生かされている私たちも又、最終的には完全なかたちで訪れる新しい天と地を待ち望みながら、実りをもたらす働きへと、主の愛と救いの喜びを携えつつ、今日もここから遣わされてまいりましょう。
今日は収穫感謝の礼拝を守っております。ここに様々な大地の実りがささげられていますが。これらすべては神さまの豊かな創造の御業によってもたらされた恵みの実りです。こうして糧に与ることのできる幸いに感謝をささげると共に、人類は神さまの創造の御業を管理していく者としての役割を託されていることを謙虚に又厳粛に受けとめおぼえます。
さて、先週は讃美と証しの礼拝でしたので、通常でしたらカリキュラムにしたがいイザヤ書56章1~8節を読むところをとばしまして、今日の65章の箇所から御言葉を聞いています。イザヤ書は大きく3つに分けられるのですが。まず1章~39章の南ユダ王国の崩壊前後のイザヤ自身による預言の箇所、それから40章~55章のバビロニア捕囚とその崩壊と解放期の第二イザヤの預言の箇所、さらには56章~66章のバビロニア捕囚よりエルサレムへ帰還を果たし、その後崩壊していた神殿の再建時代の第三イザヤの預言の箇所と、そのように3つに区分され、イザヤ書全体は300年以上の時代を網羅しております。
先週の箇所と本日の65章は第三イザヤの預言で、その舞台は帰還の地エルサレムとユダであります。
50年というバビロニアでの捕囚の時代は遂に終わりを告げますが、この半世紀には世代の交代もあったでしょう。崩壊後バビロニアを治めたペルシャ帝国の比較的寛容な政策のもとにあって、住みなれたバビロニアに留まる人々もいた一方、故郷への思いを胸に神の民としての自覚の中でエルサレムに帰還する人々がいました。その中には、バビロニアで生まれ育ったユダの2世3世の若い人たちもおり、彼らにとってはエルサレムが逆に外国のように思えたことでしょう。
いずれにしろ、ユダの人々がエルサレムに帰還してそこで見たのは、荒れ果てたエルサレムの姿でありました。戦乱後50年経過してもエルサレム神殿は倒壊したままの状態で、街はいまだ荒廃し、生活も一向に厳しい状況であったのです。そこには又、捕囚にもされず取り残され、細々と命をつないできた人々とその子孫、さらに外国人や先住民もおりました。そういう人々と共存していくことはまた大きな問題でした。
さかのぼりますとユダの捕囚後、捕囚の民たちの間では『イスラエルの民と都エルサレムを再建する』という強い機運が高まり、遂に帰還した後には、律法学者エズラや総督ネヘミヤが捕囚の地で編まれた律法を民に啓示し、それを守ることを重視しました。
例えば、「外国人」と結婚していた者を強制的に離婚させ、それに従わない者には「神の民」から追放を命じ、確固たるイスラエルを再建するためにユダの民の純化政策(排外政策)が強化されていくのです。
しかし先週の56章の箇所にもございますように、第三イザヤでは、人格を否定されていた異邦人も宦官も、主は招かれ、その教えを守り聴き従う者に、「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と宣言しておられるのです。
まずその先週の箇所を受けて、本日の65章1節~25節を読んでいきたと思います。
この65章全体には「救いの約束」という見出しがついており、旧約聖書の中でも極めて新約聖書的な「主の愛と救い」の約束について記されています。
ここにはユダの民、イスラエルの人々は主の愛とその恵みを軽んじ、神ならざるものを拝し、その上自らを清い者として人を分け隔てしていたのです。しかし主は、その2節で「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた」と語ります。
この65章の「主の愛と救い」の約束が旧約聖書の中でも画期的ですばらしいのは、その差し伸べられた主の愛の手が、ユダの民、イスラエルの人々だけでなく、神がお造りなったすべてのものに開かれているということです。それはまさしく新約聖書の福音を先取りするメッセージであります。
主はイスラエルの民であろうとなかろうと、主の愛と救いを受け入れて主に立ち返る者を招かれ、「わたしの僕」と呼び、祝福なさるのです。
使徒パウロはローマの信徒への手紙10章20節で、このイザヤ65章1節を引用して、今や排除され、差別されてきたあらゆる人々、又、主を見出し得なかった異邦人や罪人のもとに、「主の愛と救い」がイエス・キリストによって訪れたことを語っています。
そして同時に、その恵みに対して思い上がることなく、むしろ畏れをもって主の慈しみと厳しさを思いその愛にとどまり続けることの大事さを説いています。
本日のイザヤ書で神に逆らい続けているのは、異邦人ではなく、神に選らばれ立てられてきたイスラエルの民であったことが示されていますが。神の恵みと豊かな導きを得ながらも、感謝をもって応える歩みを忘れ、主の愛と救いを無益なものにしていたその姿を思うとき、使徒パウロが語ったように、神の慈しみにとどまり続けることの大切さを思わされます。いつも新鮮な気持ちで救いの御業を見上げていたいものですね。
さて、続く17節以降には、「新しい天と新しい地の創造」が語られます。いわばそれは第三イザヤの最高潮ともいうべき「喜び躍る」ほどの希望が語られているのです。
18節「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍る者として その民を喜び楽しむものとして、創造する」。
ここには新天地におけるこの上ない歓喜と祝福が満ち溢れています。そこではもはや、「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことはない」。又「若死にする者はいない」「無駄に労することもなく」「生まれた子を死の恐怖に渡すこともない」のです。
実はこれらの悲しみや苦しみ、又恐怖や不安は、ユダの人々がその捕囚の生活の中で体験したことであったのでしょう。しかしもはや主が創造される新天地においては、彼らはその子孫と共に主に祝福された者の一族となる、というのです。
私たちの生きている世界もまた、ほんとうに様々な悲しみ、苦しみが闇を覆っています。又、私たち自身もそのような悲しみや苦しみを日々体験することがあります。しかし主は24節にありますように、「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける」と語りかけ、活ける神さまとの生きた関係の回復を与えてくださるのです。
さらに25節、ここには「新しい天と地」の世界観が啓示されています。
「狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても 害することも滅ぼすこともない」。
それは世の常である弱肉強食の非情な世界ではなく、平和と共存の世界観であります。同様な記述がイザヤ書11章にもございます。それは来るべき「平和の王」について語られている箇所ですが。狼と小羊とが仲良く共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べる。そのような平和の共存を実現するメシア・王がやがてお出でになる。
その預言の言葉は時満ちて遂にイエス・キリストのご降誕とその御業によって始められるのであります。この新しい天と地の創造はまさしくコロサイ1章17節に「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」と記されていますように、この救いの主、神の御子イエス・キリストによって起こされ完成へと向かっているのです。今や私たちも、その神による新しい創造の業にあって喜び楽しみ、喜び躍る者として招かれているのです。
先日、来年1月に上映される「サン・オブ・ゴット」の試写会があり一足早く観ることができました。この映画はヨハネ福音書をベースにした「神の御子イエス・キリスト」のご生涯の物語でありますが。当時ユダヤ社会がローマの支配下に、さらにその下にあったユダヤの権力者、さらにその下で苦しめられる民衆という社会情勢の中で、主イエスがローマの権力のみならず、ユダヤ教指導者の権力によって、さらに民衆の暴力的暴言によって死に引き渡されていくのです。しかしイエスさまは最後までその権力に対して同じように立ち向かおうとはなさいません。 ローマ総督ピラトは「おまえは王なのか」と尋ねますが、主イエスは「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た」と答えられるのです。主イエスは世の権力と戦うために来られたのではなく、神の愛と救いの真理を証するために来られました。それにも拘わらず、その神の愛を受け入れようとせず、頑なに拒む人の罪によって十字架につけられてしまうのです。けれども主はそのような罪深い人間、反逆するような者のためにも神の愛とゆるしを示し、神に執り成されたのです。それはまさに本日のイザヤ書65章2節で、主が「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた」と同様、主イエスはそのようになさったのであります。
十字架の苦難と贖いの死による真の平和の訪れ、「神の国の到来」を現わすために主イエスは私たちの世に来られたのです。その平和の福音は「新しい天と地を創造」する神の愛の力なのです。
最後に、今日は収穫感謝の礼拝ですが。主イエスはこの全地に新しい創造の業が豊かに実を結んでゆくため、「地に落ちた一粒の麦」となられました。その実に与って生かされている私たちも又、最終的には完全なかたちで訪れる新しい天と地を待ち望みながら、実りをもたらす働きへと、主の愛と救いの喜びを携えつつ、今日もここから遣わされてまいりましょう。