日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

見よ、わたしの僕

2014-11-02 15:20:13 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ42・1~9      

今年もはや11月を迎えましたが、私どもの新会堂が建築されて今月で丁度1年を迎えることとなります。新しい教会堂となってから、ほんとうに多くの新たな出会いが与えられていることは喜びであり、感謝です。これからも主イエスの教会になっていく私たち一人ひとりが、主のご聖霊の働きに満たされ、喜びをもって救いの福音を証し、分かち合うものとされていけるようにと祈ります。
昨日は大阪中央バプテスト教会のバザーがあるということを数日前に知りまして、お目当てのキムチを買い求めにいきました。そこでハム主任牧師をはじめ、ハ副牧師、内藤伝道師、さらに和歌山中央バプテスト伝道所のチャン牧師、東中屋伝道師ともお会いし、食品バザーの韓国本場の料理を戴きながら、ひと時お話する機会が与えられました。大阪中央教会は25年前にハム牧師と十人から開拓伝道がなされ教会組織、そして地方連合と連盟加盟を果たされ、現在は300人の教会に成長されています。教会堂が借家の時代はバプテストリーがなくて、大阪教会のバプテストリーをお借りしてバプテスマをさせて戴き大変ありがたかった、とハム牧師は何度もおっしゃるのですが。私どものハートフェルトコンサートの折には多くの応援や献堂式の祝福等も寄せて戴きお世話になっている近隣教会であるのです。その教会が韓国と日本のキリストのかけ橋となって福音宣教の使命にほんとうに熱く、日夜誠実に祈り、仕えてこられているその姿勢には、刺激を与えられ多くのことを教えられます。昨日大阪中央教会のある壮年の方が、クリスチャンとされた者は、自分の救いにだけ留まるのではなく、その喜びと恵みである救いのバトンを次の人に手渡していく役割がありますよね、と熱く語られていたことが心に残りました。大阪中央教会と大阪教会の交流を来年さらに深めていきましょう、ということで帰宅いたしました。

今日のイザヤ書42章は小見出に「主の僕の召命」とつけられています。僕とはどういう立場でしょうか。辞書には召使とか雑用に使われる者とされています。
ここには「主の僕」とありますから、主から仰せつかった事ごとに仕え、果たしていく役割に召し出された人ですね。
この僕が一体誰を指しているのか、ということについては具体的な言及がありませんので、いろいろな説がありますが。
たとえば、ギリシャ語70人訳のイザヤ書42章1節には「ヤコブわが僕、イスラエルわが選びたる者」とあり、それに従えばこの「僕」は捕囚として侵略国に連行され奴隷や僕のように扱われていたイスラエルを指していると読めます。しかし1節で「彼」と呼ばれ、その後の6節では「あなた」と呼びかけておられることからすれば、特定の個人を指しているともいえます。主は捕らわれの奴隷状態のようになったイスラエルの中からご自身の僕選び、迎え、霊を注いでお立てになられた。それが第二イザヤと呼ばれている預言者であった、と読むこともできるでしょう。いずれにしろ、主なる神さまは「主の僕」をお立てになり、捕らわれのイスラエルの人々だけでなく、島々(全世界)の人々の、7節「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出される」というのであります。

この神さまがお立てになりお用いになられる「主の僕」。それはどういう人、あるいは人々かと申しますと。2節にありますように、既存の政治的又宗教的な指導者らとは違い人々を権威的に従わせようとはせず、3節に象徴されるように、個々人のいのちと存在を思い見て、裁き(正義ですよね)、それを導き出す。上から何かこうと決めつけるのではなく、導き出して、確かなものとする。そういう者としてこの主の僕の姿が描き出されています。翻って思いますのは、今の時代のリーダーと呼ばれる立場にある人は、何かと声高に相手を威圧的に非難罵倒して、自己正当化しようとする傾向が強いように思えます。それは裏を返せば、民衆に対する不安感や戸惑いと焦りが、強いリーダーシップを過剰に求めているということでしょう。
しかし、神さまが国々の裁き、正義を導き出すためにお選びになるのは、人間、その一人ひとりのいのちを思い見る者なのです。傷ついた葦の茎をもうだめだからいらないと切り捨てたりしない。消えそうな灯を吹き消すように人を排除したりしない。折れそうなら手を添え、消えそうなら両手で包み、冷たい風から光が吹き消されることのないように守られるのですよね。
このイザヤ書の次の章の43章にはこう呼びかけられています。
「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」主にあがなわれた私たちのことですよね。そしてこうあります。
「わたしの目にあなたは価高く、貴い。」人は世の価値観で人を比べそれで価値あるかどうかを判断し評価いたします。しかし、造り主であられる神さまは「わたしがあなたを贖い、愛するからこそあなたは価高く、貴い」とおっしゃるんです。私という存在をまるごと認め、受け入れてくださるのですね。それこそ真の良き知らせ、福音であり、私たち一人ひとりを生かす喜びと平安の基であります。

さて、42章にもどりましてその4節には、主の僕と、その働きは「この地に裁きを置くときまで、暗くなることも、傷つき、果てることもない」とあります。口語訳の方がさらにわかりやすく、「彼は衰えず、落胆しない。遂にその道を地に確立するまでは」とあります。主の僕は強い意志をもって召命の業を果たしてゆきます。
それは7節にあるように、他ならぬ神さま御自身が、「見ることのできない者の目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出す」という強いご意志をもって僕を召し出したからです。それらの事どもが実現するため主の僕は「民の契約、ユダの人々のみならず諸国の光」として立てられるのです。
実は、新約聖書のルカによる福音書の4章を読みますと、イエスさまがその公の活動をお始めになるにあたり、会堂で会衆を前にイザヤ書61章の言葉をお読みになられたということが記されています。そこを読みますと、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために」と記されています。イエスさまはこのイザヤ書の言葉を会衆に読まれた後で次のように言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。つまり、イザヤ書で主なる神さまが油と霊を注ぎ、良い知らせを伝えるために選び立てられたこの「主の僕」の出現は、新約聖書の時代に至って決定的実現のときを迎えます。主の民と島々(全世界)が待ち望んだ主の僕は、力や権威によってではなく、「主の僕」、仕える者としてお出でになるのです

8節には、「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず わたしの栄誉を偶像に与えることはしない」とあります。
ここには活ける神さまの「栄光」と「栄誉」が宣言されております。
世の権力や勢力といったものは活ける神の前では偶像に等しく、その支配下では人は真の解放も救いも得ることができません。

9節「見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に。わたしがあなたたちにそれを聞かせよう。」
私たち人間が魂の根底から救われるための神のくすしき新しいご計画、それがすなわち世の権力を持った王によるのではなく、神の子が仕える者、僕の姿となってこの世界に遣わされる、という真に驚くべき救いの御業であります。

フィリピ2章にこう記されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、その十字架の死に至るまで従順でした。」

救い主であるキリストが人間と同じ者になる、ましてや僕のように仕える者の姿でお出でになるとは、人には考えも及ばないことです。しかし神の救いの業は、僕となられたキリストが人の痛みや苦悩を自らのものとして受けとめ、痛み苦しみまれることを通して愛を示され、救いを実現されたのであります。神の愛のその究極のかたちが、私たちの罪のために磔にされた十字架のご受難と死に他なりません。私たちはその主の僕のお姿を通して、見ることのできなかった目を開かれ、罪の縄目やあらゆる捕らわれからの解放と共に、滅びの闇に住む絶望という名の牢獄から救い出されているのです。

イザヤ書41章9節~10節にこのようにあります。
「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」

キリスト者、それは主の僕となられた主イエスから救い出された者であります。それは私たち一人ひとりもそのキリストの僕として呼び出され、召し出された者であります。私たちの主は自ら「僕」となって救いの御業を成し遂げてくださいました。この尊い恵みと、主が共におられ、助け支えてくださるとの約束と希望をもって、悩みや苦悩、闘いの多い世にあっても恐れず、たじろぐことなく、主に見出されたキリストの僕として福音を仕え、証し、分かち合うために今日もここから遣わされてまいりましょう。
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