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不条理な苦難

2014-11-09 15:09:17 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ53・1~12       

本日11月第二主日はバプテスト福祉ディです。日本バプテスト連盟に関係のある福祉施設の働きを祈り、覚えていく日となっております。私どもの教会では、長年京都のバプテストホームと重症心身障害児者施設久山療育園に寄付を送っておりますが、他にも幾つかの福祉施設もございます。それらの福祉施設の事業をとおしてキリストが共に生きておられる、その思いと働きが今後も地域社会に根ざし広がっていくように、ご一緒に祈り支えたいと願っています。

さて、本日はイザヤ書53章の「苦難と死の主の僕」の箇所から御言葉を聞いていきます。この箇所は先週読みました42章の「主の僕」の箇所と共に、イザヤ書の中で最も新約聖書的だと言われております。それは、まさにここにイエス・キリストの十字架の苦難と死による「罪の贖いと救い」が指し示されていると、読めるからであります。

先週の礼拝では、救い主であるメシア像が「僕」の姿として示された42章を読みました。その救い主・メシアの像は、いわゆる世の「王」や「支配者」のように、又権力によって民衆の上に君臨するような存在ではありません。このメシアは僕、仕える者として民を導き、「傷いついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出し、確かなものとする」のです。それは、世の常識を覆す神さまのご計画でありました。
しかし本日のイザヤ書53章のメシア像は、さらに人の思いもよらない姿であります。彼には「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」と、いわゆる外見的な美しさや魅力はいっさいありません。カリスマ性の片鱗も感じさせないどころか、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」と、聖書は語るのです。
ここにはあらゆる人の苦しみが書き連ねられています。「軽蔑され」「見捨てられ」「無視され」て肉体的、又精神的「痛み」や「傷」を負い、さらに「病」からくる苦しみを受けている。それはどれほどの苦しみでありましょうか。

先週は、ショッキングなニュースが世界に流れました。安楽死を認めているアメリカのある州で、脳腫瘍を患う若い女性が、尊厳死を宣言したその予告どおり医師の薬投与によって自らいのちを絶ったのです。ご本人にとっては苦しみ悩み抜いて追い込まれた末に選ばれた判断であったでしょう。賛否両論ございますが、考えさせられる問題です。以前あるホスピスの医師のお話を伺う機会がありました時、がんの患者さんには4つの出現する苦痛があり、それが重なり合う層となって患者さんにのしかかっているということを伺いました。一つは「身体的・肉体的な苦痛」。二つ目は、不安やいらだちといった「精神的苦痛」。三つ目は経済的な問題、仕事上の問題、家族内の問題といった「社会的苦痛」。その上に、さらに生きる意味や目的への懐疑、死への恐怖、自責の念に苛まれる「魂の苦痛」がのしかかってくるというのです。
特に末期のがんの患者さんが抱える魂の苦痛は深刻です。医療にも見捨てられたように思い、こんなになって、生きてもしょうがない。わたしの人生は一体何だったのだろうか。どうせ死ぬんだから、頑張ってもしかたがない。わたしだけがなぜこんなに苦しまなければならないのか。わたしが悪いことをしたから、こんな病気になったのか。そういった思い。さらに、家族ともう二度と会えなくなるのか。周りに迷惑をかけたくない。死んだら私はどうなるのか。そういった恐れから生じるさまざまな苦痛を負われているということです。自分が存在している意味や価値の喪失。生きている目的や意味の喪失。家族や隣人との別れという喪失感からくる魂の苦痛。そのような患者さんの身心における苦痛をできるだけ緩和し、ご自分のいのちと死を見つめ、魂の平安を得てやすらかにその時を迎えられる援助をするのが、ホスピスの働きであります。本日はバプテスト福祉ディですが。このような苦痛というのは実は他にも難病の方、心身障がいを抱える方、又いわゆる後期高齢者で介護が必要となられた方々にもございます。福祉施設の事業体は、そこに福音的働きを具体的に表していくため日夜仕えておられるわけですが。さらに突き詰めれば、これらの苦痛は私たち一人ひとりの内に多かれ少なかれ常に潜在的にある苦痛、又課題だといえましょう。

イザヤ書53章に話をもどしますが。
この「苦難の主の僕」は、人のそういったあらゆる苦痛や苦悩を自ら体験している方であるということであります。4節を読みますと「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と」「あぁ彼は罪深いから神の怒りに打たれたのだ」「あんな生き方をしてきたから罰を受け苦しんでいるのだ」と人は思ったのですが、いや、実はそうではなかった。私たちのいやし難い病んでいるような状態、人の力ではどうすることも出来ない解決のしようがない痛み、それを彼は担った、負ったのだ、ということがここに明らかにされます。
さらに5節には「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とございます。
ここを読みますと、主の僕の負われた様々な苦難は、彼自身が犯した罪や咎の結果なのではありません。それは6節にありますように、民が神の愛と祝福の道をはずれ、それぞれ的外れな方向へ向かって行ったのですが、神はそんな民の犯した背きと悪い行いすべてをご自身に負われたのです。その主の僕は先のところで読みましたように、身体的な苦痛を負っていました。そればかりでなく、軽蔑され、見捨てられ、無視されるというといった精神的苦痛、さらに民の間で呪われた者のようになるという魂の苦痛・霊的苦痛を負ったのです。そのような苦痛に「刺し貫かれ」「打ち砕かれた」主の僕。聖書はこの主の僕の受けたあらゆる苦難は、人の罪と咎の贖いのためであったと語ります。

では、この主の僕によって何がもたらされたのでしょう。
ここに「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とございます。主の僕の苦難によって生じるのは、世にある恨みや憎しみではなく、「平和」と「いやし」であるのです。

続いて7節~9節のところを読みますと、主の僕は「民の背きのゆえに断たれたのであり、彼は無抵抗のうちに葬りさられたことが記されています。そして10節にありますように、この主の僕は、主がお望みになった民の「平和といやし」がもたらされるために自らを償いの献げ物となさるのです。彼はその苦難の中にあって民が背きの罪から立ち返り、御赦しの中で、末永く民の子孫が末永く続くことを夢見ます。その断末魔の叫びの中でなお11節にございますように、「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する」のであります。

今日の宣教のタイトルを私は「不条理な苦難」とつけさせていただきました。
それは11節の「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」という御言葉から示されたものです。罪のない主の僕が不条理な苦難を負われた。それはまさに、罪と咎を犯して滅びゆくしかない不義なる人間が救い出されていくためのものであり、そのような者が平和を与えられ、いやしに与っていのちを得るためであります。そのためには罪と咎の不義がきちんと裁かれ、清算されなければならないのです。すべての人は意識、無意識に関わらず何らかの罪や咎をもっています。それは何もイザヤの時代のイスラエルの民だけに限ったことでなく、すべての人は神のただしさ、神の義の前にあって不義ある者でありますから、全き裁きの前では滅びゆく他ない者なのであります。
しかし、本日のイザヤ書53章で主なる神さまは、そのような罪と咎をもつ人間が滅びゆくことを決し望まれず、罪(的外れ)の状態から、神を見出し救われる道をお示しになるのです。それは単に人間をゆるすということだけではダメなのです。神さまの「義」が立てられなければなりません。人の不義がきちんと裁かれ、清算されることによって初めて神の「義」が全うされるのです。そのためには、罪のない主の僕が罪ある者の身代わりとなって裁きを受けるほかなかったのです。人には思いもよらない、神の救いの業によってであります。不条理にも主の僕が苦難と死を負うことによって人は神との交わりの回復へ導かれ、魂に真の平和といやしが与えられる。それがイザヤ書53章のメッセージの真髄であります。
本日の「苦難の主の僕」より前の時代に預言されたイザヤ書7章14節には、「わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」とございますが。それはまさにイエス・キリストが救い主としてお生まになる折に、天の使いが「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む、その名はインマヌエルと呼ばれる、この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と告げているのです。
イザヤ書の主の僕による救いの御業は、時満ちて主イエス・キリストの誕生によって決定的実現のときを迎えるのです。今や贖いの主は全世界の主として、インマヌエル「我々と共におられる」のです。

最後になりますが。一昨日JR西日本あんしん財団主催「いのちを考える」の連続講演の最終回の聴講に行ってまいりました。今回は上智大学の特任教授でシスターでもある木慶子(ヨシコ)先生からご専門であるグリーフケアのお話をお聞きしました。「グリーフケア」とは大きな悲嘆に襲われている人、主に大切な人を亡くした人に対するサポートのことですが。シスターの木先生は「いのちは愛する力」であるということで、一つのエピソードをお語りになりました。あるご高齢の女性、この方は自称梅干しばばあと名乗っておられたそうですが。この方は先にお連れ合いを亡くしておられまして、しかしそのお連れ合いというのが、この方のご実家の財産を食いつぶし豪遊して家を顧みないような人であったようです。ところで、この方は教会に行っていたんですが、神父さんがこの方にいくら洗礼を勧めても、決して洗礼を受けようとしなかったそうです。ご自分のお子さんやお孫さんには洗礼を受けるように自ら勧めてみな受けられたのですが、なぜかこの方だけは洗礼を受けようとはされなかったのです。それで、ある時シスターである木さんがこの神父さんから「彼女の家にあなた行って洗礼を受けるように話をしてみてくれない」と頼まれるのです。それからシスターはまだ30代の頃で若かったこともあり何度も足を運び洗礼の説得をするのですが、洗礼の話になると上手くかわされてしまうということが続いたそうです。ところがある日遂にこの方が「あんただけに話す。ただしこの話は人には話さない。私が亡くなったあとであるなら人に言ってもいいわよ」とそう言って、シスターに「わたしが洗礼を受けないのは、放蕩の限りを尽くして先に逝った夫は地獄に行っていると思う。私が洗礼を受けて天国に行けば地獄に行った夫を一人にしてしまうことになるの。だから」と、こう話されたそうです。まあ普通だったら、そんなことされた夫だったら地獄に堕ちてしまえというかも知れません。けれども彼女にとってはこういう形で愛する力が「いのち」、グリーフケアになっていたのであります。
この方は、シスターが「あなたがそんなにご主人のことを愛していらっしゃるのなら、そのことを神さまは誰よりもご存じでいらっしゃいますよ」とおっしゃった会話の中で、洗礼の決心へ導かれ洗礼をお受けになられたそうです。
後日談として、この自称梅干しばあさんが天に召されて、シスターはそのご長男さんに、お母様が洗礼を受けなかった時のエピソードを手紙を書いて伝えられたそうです。それから1年が経ってご長男さんからシスターに手紙が届いたそうです。そこには、「母の愛について改めて知る事ができ感慨無量です。本当にありがとうございました」と書かれてあったそうです。

イエス・キリストが私たち救い難い者を救うために、人の苦しみ痛みの極みを知り、体験され、どこまでも私たちと共におられることを選ばれた、ここに私たちは救いを見出します。苦難の僕である主イエスは人の痛みと苦しみをご自分も一緒に担い今も平和といやしを執り成し続けておられます。私たちも又、その主イエスと共に今週の新しいあゆみへと遣わされてまいりましょう。

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