日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

お言葉どおり、この身になりますように

2014-12-14 15:41:58 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ1章26~45節 

舞台は先週の祭司ザカリア夫妻のいたエルサレムから100キロ北に向かったガリラヤの地ナザレに移ります。ザカリアにバプテスマのヨハネ誕生の告知があってから6カ月目のことです。天使ガブリエルはナザレの町に住むマリアにも現れてこう告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」それは救い主イエスの誕生の告知でした。しかし「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」。
もっともなことでしょう。初対面でいきなり「おめでとう、喜べ、大いに恵まれた者」と言われたら、一体どういう意味なんだろうと誰でも考え込んでしまうでしょう。それも天使とおぼしき者に「主があなたと共におられる」と言われたのですから、まだ10代半ばのマリアはさぞかし驚いたにちがいありません。
クリスチャン生活も長くなってまいりますと、知識は増えてまいりますが、一方で感受性が鈍ってしまい、「喜べ、大いに恵まれた者、主があなたと共におられる」と言われても「ああそうですか」となると、さびしいことですね。私は神から恵みをいただいた者である、という喜びをいつも新鮮な気持ちで持ち続けたいものです。まあそうは言っても、神から与えられる出来事が即座にうれしいものばかりとは言えないかも知れません。このマリアも初めはそうでした。

天使は言葉を続けて、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と語りかけます。
それは身の憶えのないマリアリアには信じ難い内容でありました。彼女は当然のことながら恐れ、戸惑います。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えるほかなかったのです。
このマリアが抱いた「恐れ」は、「自分が預り知らないうちに子を宿すという到底あり得ないことを告知された不安や恐れであったでしょう。又、婚約者ヨセフのこと、世間からどう思われるか、結婚も将来もどうなるのか、という思いや考えが一度に頭を駆け巡り、不安や恐れとなったのでしょう。むろん自分が到底神からそんな恵みを戴くに価しない、ましてや「偉大な人、ダビデの王座に与る方を宿すなど畏れ多いことだと、戸惑ったのではないでしょうか。
このマリアについてでありますが、聖書は彼女の素性については何も語られておりません。先週のザカリアやエリサベト、そしてマリアの婚約者ヨセフについてはその血統が明らかにされているのに対し、彼女はヨセフのいいなずけとだけ記されているにすぎません。又、マリアの住んでいたガリラヤ地方のナザレの町は、ユダヤ人と異邦人の両方が住む国境地方であることから、都エルサレムの人々に、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とか、「メシアはガリラヤから出るだろうか」などと、まあそんなことは到底あり得ない、というような偏見の目で見られていました。加えて、ローマ帝国の統治下にある抑圧的状況の中で、人々はメシアが到来して、その解放の日を切に待望していたのであります。そしてマリアもそのような偏見や差別、又、自身の乏しさや貧しさからの救いと解放を祈り待ち望んでいたに違いありません。

そして天使ガブリエルがこのマリアのもとに神から遣わされた日、遂に旧約聖書の時代から預言者たちを通して語られてきた神のご計画が動きだすのです。
ミカ書5章に、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。主は彼らを捨ておかれる。産婦が子を産むときまでは。彼らは安らかに住まう。彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である」。

本日の聖書は、世の中から排除され、除外され置き去りにされているそのような人々のうちに、「神の子」が住まわれ、救いと解放がもたらされてゆくという、神さま大いなる御業を指し示しています。
そう考えますと、このマリアの天使に尋ねた、「どうして、そのようなことがありえましょうか」との問いかけは、マリアの不信から出たものというよりも、このようないと小さき者、かの辺境の地において、神さまが偉大な業をなさろうとすることへの、畏れと感嘆の言葉だったのではないかとも考えられます。

天使はこのマリアの問いかけに対して次のように答えます。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
人の優れたことによるのではなく、地位や権力によるのでもなく、ただ神の霊によってこのことは成る、というのです。
その昔、旧約聖書の時代に、あらゆる国々の中から神さまがイスラエルをご自分の宝の
民としてお選びになられた時、主は次のようにおっしゃったと記されています。
申命記7章ですが。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。その約束のゆえに選び立てられたのです。
それは、たとえ世にあって小さく弱く見なされていたとしても、神さまは、その愛のお約束のゆえに、価値あるものとしていつくしみ、顧みてくださるのです。
天使は「(もう)恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいたのだから」と。そして「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と天使はマリアに伝えます。原文ではここに「見よ」という言葉が入っているのです。「マリア見なさい、あなたは身ごもって男の子を産む」と。
マリアはもう自分が小さい者だからと畏れることはないのです。天使の「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」とのお言葉に、マリアもまたそれは神の力によるものとの信仰によって、顔を上げ、原文ではここも「見よ、わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と力強く宣言するのであります。
私どもも又、主に顧みられ、見出された者として、信仰をもって顔を上げ、生きてゆきたいものです。

さて、マリアの胎内に宿る子どもダビデ家のヨセフの子ではありません。それはこの地上の王を超えたメシアであり、世界の救い主なのです。
「いと高き方の力がマリアを包んだ」。この「力」はギリシャ語でデュナミス、それはダイナマイトの語源となっている言葉で、爆発するほどとてつもない影響を与える力であるという意味であります。それがマリアに出来事として臨んだのです。
イエスさまは人の目には小さな赤子の姿でこの地上においでになりますが。実にこの世界に爆発するほどとてつもない影響をお与えになりました。それは2千年以上もの時を経て、なお世界中に影響を与え続けています。それは真理を明らかにする力であり、救いの力であり、暗闇に光をもたらす希望の力です。隔ての壁を打ち崩し、平和を造り出し、愛によって働き、死の絶望に打ち勝つ力です。私どもクリスチャン一人ひとりも又、今やペンテコステに臨んだ聖霊の力に満たされ、その主と共に生きる者とされていることを覚えたいと思います。主イエスがおっしゃったように、私ども一人ひとりも世の光、地の塩なのです。

ところで、天使ガブリエルはマリアの「どうして、そのようなことがありえましょう」との言葉に対して、親類のエリサベトを引きあいに出し、彼女も「年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」と答えます。
「神にはできないことは何一つない。」
この言葉はマリアの信仰を強めました。「信仰は、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」です。証と信仰生活は必ず力を帯びてきます。なぜなら「神にできないことは一つもない」からです。
先程も触れましたがマリアは次のように表明します。「見よ、わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。

マリアがか細い女性であったかどうかは分かりませんが。10代半ばどこの家のものか分からないという女性がこのような力強い宣言をしたのです。それは彼女が強い人であったからではないでしょう。マリアのこれまでのあゆみは人々から軽んじられ、世のはしためという思いの中で小さくされて生きてきたのかも知れません。しかし「主がこの自分を選び、価値ある者として愛してくださっている」そのことを知って、マリアは「そんな過去の自分とは決別しました」とでも言うかのように、「見よ、わたしはこの世のはしためではなく、主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と高らかに宣言するのです。
この決断の先に待ちうけていた現実の問題は確かに厳しいものでもありました。マリアが引き受けていこうとしていることは、ごく若い一人の女性が負うにはあまりに大きな課題がありました。婚約者や社会からも何と言われるか、どんな仕打ちに遭うか分かりません。神さまのお言葉以外の保証は何もありません。彼女は目に見える保証によらず、唯、その信仰によって将来の出来事を受けとってゆくのです。
高齢のエリサベトがバプテスマのヨハネを宿すという告知も、このおとめマリアが救い主イエスを宿すという告知も、神のご計画は人の思いを遥かに超えており、それは人の計画とは異なるものであります。差し出された神のご計画が、自分の計画や願望と異なった時、マリアのように「お言葉どおり、この身に成りますように」となかなか言えないのが私ども人の弱さです。けれども、そこで私どもも又、マリアと同様、神から恵みをいただいた者、主イエスをとおして主の御救いに与り、愛され価値ある者とされているのです。そのことをいつも忘れずに思い起こしつつ、神のご計画の中をあゆむ者とされていきたいと願います。

さて、マリアは「エリサベトの受胎」の知らせを聞くと、急いで山里に向かい、山路を越えて彼女のいるユダの町へ行った、とあります。その道のりは、まさに祈りの旅路であったことでしょう。
今自分の身に起こっていることを理解し合えるのは、まさしくこのエリサベト唯一人でした。エリサベトは天使の予告どおり、子を宿してから6カ月が経っていました。
彼女はマリアの挨拶を聞いた時、聖霊に満たされて声高らかにマリアこう言います。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。
マリアはまだ自分に告知された胎内の子どもについてエリサベトに何も話していないのに、エリサベトはマリアが胎内に子どもを宿していること、又、それがエリサベトにとって「わたしの主」であること、さらに自分の胎内の子ヨハネも、それを知って喜びおどったことを告げます。

不思議なことに、マリアはただ挨拶を交わしただけなのに、エリサベトに会ったら聞いてみたいと彼女が思っていた以上のことを、エリサベトから知らされることになるのです。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。
そう主を信じ、主の御業がなることを受け入れていったマリアは、同じく主のご計画に導かれるエリサベトによって、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と、祝福の言葉を受けるのですね。
そしてこのエリサベトも又、出産までその身を隠す不安な中でのマリアの訪問に、どれ程励まされたことでありましょう。信仰の友、主にある交わり、共なる祈り、とりなし、信仰の言葉はお互いにとってどれ程力となることでしょう。そしてそこには豊かに聖霊がお働きくださるのです。

主の救いが現わされる日を待ち望み互いに祈るマリアとエリサベト。アドヴェントとは、まさにこのように神の恵みの出来事を待ち望む時なのです。解き放たれたい自分、変えられたい自分がいます。しかし、まさにその自分の貧しく、弱いところに聖霊は臨まれ、お働きになられるのです。主は今日もインマヌエル。共におられる方として信じる者と共に主のご計画とみ救いを実現しておられます。私どもも又、主に愛されている者として祝福の挨拶を互いに交わしつつ、来週の主のご降誕・クリスマスに備えてまいりましょう。

祈ります。
主なる神さま。マリアが聖霊によって救い主を宿し、迎えていく箇所から御言葉を戴き、感謝いたします。今日は日本の先行きを方向づける大切な国政選挙の日でもございます。世の力によってなに人のいのちも生活も切り捨てられることがありませんように。武力によらず平和を忍耐強く造り出していく社会となることができますように。神のお造りになったこの世界と自然のいとなみを、利権や搾取によって破壊することがありませんように。どうか主よ、あなたのみ救いと解放の業のためにあなたのご愛と御恵みによって私たちが祈り、働くことができますように。これらの願いを込めて、主の御名によって祈ります。
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