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救い主誕生の知らせ

2014-12-22 09:54:04 | メッセージ
クリスマス礼拝宣教 ルカ2章1~20節  

「居場所のない世に」
本日はルカ2章1~20節の「救い主誕生の知らせ」の記事より、クリスマスメッセージを聞いていきたいと思います。 
聖書はイエス・キリストの誕生が単なる物語ではなく歴史上に起こった事実として伝えます。しかもそれは、旧約聖書のミカ書(5:1)に「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中で最も小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る」と預言されているとおり、すべては神のご計画であるのです。ヨセフと身重となったマリアはそのベツレヘムへと導かれ、遂に紀元前BC:ビフォークライスト・キリストが生まれる前の意味ですが、そこから紀元後AD、キリストの年代が始まる、その世界の歴史が大きく変えられてゆく時(カイロス)が訪れるのであります。

さて、ベツレヘムに着くとマリアは月が満ちて2人は宿を探します、しかし宿屋はどこも一杯で泊る場所がなかった、彼らのいる余地がなかったのです。結局、なんとか彼らが落ち着いた場所は家畜小屋でした。マリアはそこで乳飲み子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。
先週はマリアへの受胎告知の記事を礼拝で読みました。その後マリアは神を賛美して、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」(1章49節)と言うのでありますが。ところが実際それが現実となってみると、「神の子」であるはずの御子をみすぼらしい家畜小屋で出産せねばならないのでした。何か手ちがいがあったのでしょうか。なにしろユダヤの人々が待ちに待ったメシア、全世界の救世主であるなら宮殿でお生まれになって当然でしょう。宮殿でなかったとしても、せめてちゃんとした部屋の中で、助産婦に手伝ってもらいながら出産して、産湯につけられ、きれいにしたベットに寝かされるのが当然と思うのが人の思いです。だれも愛する子や孫が生まれようとしている時にわざわざ家畜小屋を用意して父親に子を取りあげさせるなどという人はいないでしょう。しかし、マリアが「どんなことでもお出来になる」と信頼した父なる神さまは、あえてそのようにご計画なさったのです。そこに神の深いメッセージがあります。

居場所のないマリアとヨセフ。
私たちも時に居場所がないという経験をしたことはないでしょうか。ときに職場で、ときに街中で、ときに友人たちの中で、家族でさえもそう感じることがあるかも知れません。ここがあなたの居場所ですよと人に言われても。そこが必ずしも自分の居場所のならない時もあります。そういう私たちに聖書は語りかけるのです。キリストは居場所のないマリアとヨセフのところに来る。居場所を見いだせない彼らに、そして私のもとにキリストは来る。自らが居場所、自らがよりどころとなるために、寄る辺なき我らのもとにキリストはお生まれになられたのです。

「恐れが平安へ」
さて、この御子の誕生は、「野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた」羊飼いたちに最初に知らされます。当時、羊飼いは今以上に大変な仕事でした。羊と一緒に生活をし、悪臭にまみれながら、定住する場所もありません。寒さ厳しい折は羊にうずもりながら寝ることさえあったようです。そういうことから律法や規定を守ることが難しく、社会からは外れた者として市民権も認められず、裁判の証人に立つ権利も認められていませんでした。旧約時代あのイスラエルの代表的な王であったダビデは羊飼いであったことから、羊飼いは名誉ある職業とされ尊敬された時代もありましたが、この当時はすでに、ある意味では社会的に偏見の目で見られるような状況におかれていたようです。

その夜、彼ら羊飼いはエルサレムからかなり離れた小さな村ベツレヘムのはずれで羊の群れを飼っていました。恐らく寒い時期であったと思いますが、焚火をたきながら夜通し野獣から羊を守るため寝ずの番をしていたのでしょう。

そこへ主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れました。
勿論、あり得ないことがあまりに突然起こったので驚いたということもありましょう。けれども、たとえば天使が旅人の地味な出で立ちで現れ、彼らを祝福したとしても、やっぱり彼らは驚き恐れたでしょう。それは、彼らが神の祝福から遠い者とされ、彼ら自身もへりくだりを感じて生きていたからです。彼ら羊飼いらは、人々が神に捧げるための羊を育て飼いながらも、自らは律法や安息日を守ることができないあきらめとやるせなさを抱えていたのでしょう。にわかに天の光に照らしだされた時、彼らのその心はふるえおののきました。
主の天使は彼らに言います。
「恐れるな。わたしは民全体に与える大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子をみつけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
ここに「あなた方のためにお生まれになった」。又、「あなたがたは見つける」「あなたがたへのしるしである」とありますね。
この救い主の誕生の知らせを最初に伝え聞いたのが、彼ら羊飼いであったということは決して天使の思いつきや偶然ではありません。神のご意志なのです。神はもっともキリスト(救い主)を必要とするのがだれであるのかをご存じであるのです。

「恐れることはない」と天使は告げます。
その天使に天の大軍も加わり賛美します。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ」。
ここに羊飼いらの人の恐れと対比させるように、「平和」という言葉が出てまいります。ギリシャ語で「エイレネー」は人と人の間に争い、妬み、憎悪のない状態をも含みます。ヘブライ語では「シャローム」で表され、それは「平安、繁栄、健康」と、全人的な意味をもちます。そして何よりこの平和という言葉に貫かれているのは「神との平和」「神との和解による平安」であるのです。
私どもは誰しも様々な恐れを抱いて日々を過ごしているといえましょう。人間関係による恐れ。あるいは病に対する恐れ。死に対する恐れ。しかし聖書は人間の根源的な恐れは「罪」から来ることを教えます。神との関係の歪みからそれは生じるというのです。

天の大軍は「神に栄光、地に平和」と賛美しました。それは地に平和、神に栄光、という順序ではありません。神に栄光があるところに、地に平和があるというのです。地上の平和は、神に造られ生かされている私ども一人ひとりが、神との関係を回復され、神の栄光が顕わされることをとおしてもたらされるのです。

キリストはまさに神と人との交わりの回復がなされるためにこの地上にお生まれになられた。キリストによって私たちは神との平和を得ているのです。そしてその平和は個々人に留まるものではなく、人と人の和解、地の平和に導く神の力なのです。
エフェソ2章14節「実にキリストはわたしたちの平和であります」。

主の栄光に非常な恐れを抱いた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話合い、急いでマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とありますね。原語では「今、見ようではないか」と、非常に強い意志をもって彼らがそこに向かったことがわかります。彼らは神の言葉を自らの目で確認しようとそこへ向かったのです。彼らの魂の飢えと渇きがその足を急がせます。そして遂にその光景を目にした時、彼らの心は満たされ喜びが湧き溢れるのです。「わたしは神の救いを見た」もはや恐れは消え去り、彼らの心に平安、平和が訪れます。それこそがキリストにある喜びの福音であります。

20節に「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった」と記されています。
私たちも又、世の恐れ、人の恐れを取り除く平安・平和の主イエス・キリストをあがめ、賛美しつつ、このクリスマスの祝福を分かち合ってまいりましょう。「神に栄光、地に平和あり」。救い主のご降誕を喜び、心から感謝いたします。
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