歳晩礼拝宣教
今年も残すところあと4日、2014年最後の主日礼拝となりましたが。主にあってこの1年雪の日も嵐の日も52週の主日礼拝が導かれ、守られてきました。又、私たちそれぞれの一年が主に守られ導かれ、試練の時にも多くの恵みが与えられたことを覚え、この一年の終わりに、賛美と感謝を捧げて、また新しい年のあゆみに期待し備えていきたいと思います。
先程、聖書の箇所でありますルカ2章22節~38節が読まれました。
両親は、天使に示されたとおり生まれてきた幼子にイエスと名付けます。二人はモーセの律法に沿ってその子を主に捧げるため、エルサレムの神殿に連れて行った、ということでありますが。まあ教会では、よくこのところを引用しながら、献児式が行なわれているところもございます。幼子とそのご家族のうえに神の恵みと祝福があるようにと、教会あげて祈り一家を見守っていくのは素敵なことですね。
そして、今日のこの幼子イエスが主に献げられる、というエピソードには、もう一つ実に深いメッセージが示されております。
それは、2人の年老いたシメオンとアンナという人物をとおして明らかにされます。
シメオンについては、「この人は正しい人で信仰あつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼に留まっていた」とあります。イスラエルではすでに400年にもわたって預言の言葉が与えられていませんでした。その間近隣の大国による厳しい弾圧を受け続け、それはとりわけ主を礼拝する者にとって迫害と屈辱の歳月であったのです。あまりにも長く続いた「神の沈黙」とも言われるその時代を経るのですが。イスラエルの多くの人々は、どこかもうあきらめの思いもあってか、救い主が到来することを待ち望まなくなっていました。しかしそういう中で、このシメオンは旧約の預言を握りしめながら、「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」数少ない人の一人であったのです。彼はシメオン;「聴く」というその名が示すように「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とお告げを受けていました。
一方のアンナについては、12部族の一つのアシェル族出身の84歳となる女預言者でした。嫁いで7年で夫と死別し、この年まで神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えておりました。幼子イエスが神殿にいた丁度その時、アンナもそこに居合わせ、この幼子のことを知り、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。このシメオンとアンナに共通していたことは、どちらも「旧約時代の救い主到来の約束を信じ、その実現を待ち望んでいた人たち」であったという点であります。
二人は年老いていくなかで、独りであることの寂しさや恐れを人間である以上感じていたと思われますが。しかし、彼らはただ孤独の中で、死を待つ外ない老人ではありませんでした。彼らは、来たりたもう方、メシアを待望し、信仰による希望をもっていたのです。
老人になっても神殿を離れず、祈り続け、昼も夜も神に仕えていたシメオンとアンナ。彼らは神の救いを、幼子イエスの中に見出し、神をたたえ、アンナは救い主の到来を待ち望んでいる人々皆に、主イエスのことを話します。今日の時代の私たち主の教会、又大阪教会おいても、このシメオンとアンナを見つけることができるのではないでしょうか。そこに、教会の希望が証しされているといえるでしょう。
今日の箇所の最も感動的な場面。
それは、幼子を腕に抱いたシメオンが、神を賛美し、幼子イエスの両親を祝福したシーンではないでしょうか。シメオンは神をたたえてこう述べています。
「主よ、今あなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
この日、シメオンは聖霊に導かれて神殿の境内に入って来た時、折しもマリアとヨセフが幼子イエスを連れてそこへやって来るのです。シメオンは聖霊にその子こそ待ち望んでいた救い主であることを示され、幼子イエスを腕に抱いて神をほめたたえます。
主に会うまでは決して死なないと言われ、イスラエルが慰めを受けるその日を祈り望んで来たシメオンでした。ところが、彼はその幼子の中に、そんな彼の願いをはるかに超えた31節「万民のための救い、異邦人を照らす啓示の光」を見出すのです。それはイスラエルのみならず全世界の救い、そして希望であります。それを知ったシメオンに安堵と共に大きな平安が訪れます。感謝と賛美があふれます。
その時から2000年あまりが経過しました。今私たちはあのシメオンのように直接幼子イエスを腕に抱くことはできません。けれどもシメオンを導いた聖霊、主イエスにあるペンテコステの聖霊によって「万民の救い、異邦人を照らす啓示の光」を見ています。私たちも又、こうしてシメオンと共に神をたたえる者とされているのです。
さて、シメオンが幼子イエスの両親を祝福したところにはこうも述べられています。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。―多くの人の心にある思いがあらわにされるために。」
シメオンは聖霊によって、この幼子がやがて人々からどういう受け止め方をされるか、さらにその母マリアがそのことのゆえに受けることとなる苦しみについてもいわば預言をします。34節にははっきりと「シメオンは彼らを祝福し、言った」とあるわけですが。しかし一般的に考えると、この預言の一体どこが祝福といえるでしょうか。その祝福とは何でしょうか。
この預言は主イエスの公的宣教活動が始められると同時に現実のものになっていきました。主イエスは救いの真理について証しますが、ユダヤの律法学者やファリサイ派の人たちはイエスを目の敵にし、母マリアは心を痛めます。遂に主イエスが瀕死の状態で十字架に磔にされ、息絶えるのを彼女は一体どんな思いで目にしていたことでしょう。それは祝福という言葉とはあまりにかけ離れた現実でありました。
けれどもすべては「神の業があらわれるため」であったのです。イエス・キリストの苦難とその死によって、遂にイスラエルのみならず全世界、すべての人々を贖う救いの業が成し遂げられたのです。さらに主イエスはその真実を世に現すために3日の後に復活なさったのであります。マリアはそのすべての人を照らす光であるキリストの栄光を間近に見る者とされたのであります。
今日このシメオンの祝福は、幼子イエスの両親に向けられたものであります。しかし同時に主イエスによっての新しくされたキリスト者も又、地上における様々な苦難の中にあっても、この「主イエスが共におられる」という約束によって大きな祝福のうちに生かされているのであります。ヨハネ16章33節の「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」との主イエスの御言葉は真実です。
みなさまにおかれては、今年実現したこと、叶えられたことがございましたでしょうか。その一方で、目標や課題に対して道半ば、途上にあることもおありでしょうが、それぞれのあゆみに主が伴って下さった一年であることに変りありません。
最後になりますが、今年は世間では「税」に象徴されるように、生活がさらに重苦しさを増した年となりました。経済的な格差社会は拡大するばかりです。それはまた人の心をむしばんでもいます。又、巨大台風が猛威をふるい、白馬の地震、御嶽山の噴火災害、広島の土砂災害、大雪による災害が続き、ほんとうに人は自然の力を前になすすべもない者であることを思い知らされますが。それはまた、あくなき経済優先による開発や産業が異常気象や地球温暖化とも関わる私たち人間の側の問題でもございます。
天地創造の主が、「すべて造られたものを治めよ」と人間に託されたその使命について、人類が主の御前に悔改めをもって、応えていけるように私たちもまた、今日のシメオンやアンナのように約束されたキリストによる新しい天と地の出現をとりなし祈る者とされてまいりましょう。主は共におられます。
今年の主の恵みを数えあげ、感謝しつつ、すでに主によって新しいことが始まっていることに期待し祈りながら、2015年のあゆみを始めていきましょう。
今年も残すところあと4日、2014年最後の主日礼拝となりましたが。主にあってこの1年雪の日も嵐の日も52週の主日礼拝が導かれ、守られてきました。又、私たちそれぞれの一年が主に守られ導かれ、試練の時にも多くの恵みが与えられたことを覚え、この一年の終わりに、賛美と感謝を捧げて、また新しい年のあゆみに期待し備えていきたいと思います。
先程、聖書の箇所でありますルカ2章22節~38節が読まれました。
両親は、天使に示されたとおり生まれてきた幼子にイエスと名付けます。二人はモーセの律法に沿ってその子を主に捧げるため、エルサレムの神殿に連れて行った、ということでありますが。まあ教会では、よくこのところを引用しながら、献児式が行なわれているところもございます。幼子とそのご家族のうえに神の恵みと祝福があるようにと、教会あげて祈り一家を見守っていくのは素敵なことですね。
そして、今日のこの幼子イエスが主に献げられる、というエピソードには、もう一つ実に深いメッセージが示されております。
それは、2人の年老いたシメオンとアンナという人物をとおして明らかにされます。
シメオンについては、「この人は正しい人で信仰あつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼に留まっていた」とあります。イスラエルではすでに400年にもわたって預言の言葉が与えられていませんでした。その間近隣の大国による厳しい弾圧を受け続け、それはとりわけ主を礼拝する者にとって迫害と屈辱の歳月であったのです。あまりにも長く続いた「神の沈黙」とも言われるその時代を経るのですが。イスラエルの多くの人々は、どこかもうあきらめの思いもあってか、救い主が到来することを待ち望まなくなっていました。しかしそういう中で、このシメオンは旧約の預言を握りしめながら、「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」数少ない人の一人であったのです。彼はシメオン;「聴く」というその名が示すように「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とお告げを受けていました。
一方のアンナについては、12部族の一つのアシェル族出身の84歳となる女預言者でした。嫁いで7年で夫と死別し、この年まで神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えておりました。幼子イエスが神殿にいた丁度その時、アンナもそこに居合わせ、この幼子のことを知り、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。このシメオンとアンナに共通していたことは、どちらも「旧約時代の救い主到来の約束を信じ、その実現を待ち望んでいた人たち」であったという点であります。
二人は年老いていくなかで、独りであることの寂しさや恐れを人間である以上感じていたと思われますが。しかし、彼らはただ孤独の中で、死を待つ外ない老人ではありませんでした。彼らは、来たりたもう方、メシアを待望し、信仰による希望をもっていたのです。
老人になっても神殿を離れず、祈り続け、昼も夜も神に仕えていたシメオンとアンナ。彼らは神の救いを、幼子イエスの中に見出し、神をたたえ、アンナは救い主の到来を待ち望んでいる人々皆に、主イエスのことを話します。今日の時代の私たち主の教会、又大阪教会おいても、このシメオンとアンナを見つけることができるのではないでしょうか。そこに、教会の希望が証しされているといえるでしょう。
今日の箇所の最も感動的な場面。
それは、幼子を腕に抱いたシメオンが、神を賛美し、幼子イエスの両親を祝福したシーンではないでしょうか。シメオンは神をたたえてこう述べています。
「主よ、今あなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
この日、シメオンは聖霊に導かれて神殿の境内に入って来た時、折しもマリアとヨセフが幼子イエスを連れてそこへやって来るのです。シメオンは聖霊にその子こそ待ち望んでいた救い主であることを示され、幼子イエスを腕に抱いて神をほめたたえます。
主に会うまでは決して死なないと言われ、イスラエルが慰めを受けるその日を祈り望んで来たシメオンでした。ところが、彼はその幼子の中に、そんな彼の願いをはるかに超えた31節「万民のための救い、異邦人を照らす啓示の光」を見出すのです。それはイスラエルのみならず全世界の救い、そして希望であります。それを知ったシメオンに安堵と共に大きな平安が訪れます。感謝と賛美があふれます。
その時から2000年あまりが経過しました。今私たちはあのシメオンのように直接幼子イエスを腕に抱くことはできません。けれどもシメオンを導いた聖霊、主イエスにあるペンテコステの聖霊によって「万民の救い、異邦人を照らす啓示の光」を見ています。私たちも又、こうしてシメオンと共に神をたたえる者とされているのです。
さて、シメオンが幼子イエスの両親を祝福したところにはこうも述べられています。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。―多くの人の心にある思いがあらわにされるために。」
シメオンは聖霊によって、この幼子がやがて人々からどういう受け止め方をされるか、さらにその母マリアがそのことのゆえに受けることとなる苦しみについてもいわば預言をします。34節にははっきりと「シメオンは彼らを祝福し、言った」とあるわけですが。しかし一般的に考えると、この預言の一体どこが祝福といえるでしょうか。その祝福とは何でしょうか。
この預言は主イエスの公的宣教活動が始められると同時に現実のものになっていきました。主イエスは救いの真理について証しますが、ユダヤの律法学者やファリサイ派の人たちはイエスを目の敵にし、母マリアは心を痛めます。遂に主イエスが瀕死の状態で十字架に磔にされ、息絶えるのを彼女は一体どんな思いで目にしていたことでしょう。それは祝福という言葉とはあまりにかけ離れた現実でありました。
けれどもすべては「神の業があらわれるため」であったのです。イエス・キリストの苦難とその死によって、遂にイスラエルのみならず全世界、すべての人々を贖う救いの業が成し遂げられたのです。さらに主イエスはその真実を世に現すために3日の後に復活なさったのであります。マリアはそのすべての人を照らす光であるキリストの栄光を間近に見る者とされたのであります。
今日このシメオンの祝福は、幼子イエスの両親に向けられたものであります。しかし同時に主イエスによっての新しくされたキリスト者も又、地上における様々な苦難の中にあっても、この「主イエスが共におられる」という約束によって大きな祝福のうちに生かされているのであります。ヨハネ16章33節の「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」との主イエスの御言葉は真実です。
みなさまにおかれては、今年実現したこと、叶えられたことがございましたでしょうか。その一方で、目標や課題に対して道半ば、途上にあることもおありでしょうが、それぞれのあゆみに主が伴って下さった一年であることに変りありません。
最後になりますが、今年は世間では「税」に象徴されるように、生活がさらに重苦しさを増した年となりました。経済的な格差社会は拡大するばかりです。それはまた人の心をむしばんでもいます。又、巨大台風が猛威をふるい、白馬の地震、御嶽山の噴火災害、広島の土砂災害、大雪による災害が続き、ほんとうに人は自然の力を前になすすべもない者であることを思い知らされますが。それはまた、あくなき経済優先による開発や産業が異常気象や地球温暖化とも関わる私たち人間の側の問題でもございます。
天地創造の主が、「すべて造られたものを治めよ」と人間に託されたその使命について、人類が主の御前に悔改めをもって、応えていけるように私たちもまた、今日のシメオンやアンナのように約束されたキリストによる新しい天と地の出現をとりなし祈る者とされてまいりましょう。主は共におられます。
今年の主の恵みを数えあげ、感謝しつつ、すでに主によって新しいことが始まっていることに期待し祈りながら、2015年のあゆみを始めていきましょう。