礼拝宣教 ルカ1章5~25節
10月からイザヤ書を丁寧に読んでまいりましたが、そこには罪深いイスラエルの民を一貫して愛し、救いへと導かれる主なる神さまの恵みが満ちていました。そしてその「喜びの約束」は、やがて全世界にもたらされる祝福であることを共におぼえました。それは私たちにとりまして、この「神の愛と救いの約束」が救い主イエス・キリストによってイスラエルの人々はもちろん、すべての人々のもとに時満ちて実現されている。その素晴らしい祝福をイザヤの預言に導かれながら、このクリスマスの月、ルカによる福音書から御言葉を聞いていきたいと思います。
さて、先程その救い主イエス・キリストの道備えをなしたバプテスマのヨハネの誕生にまつわる記事が読まれました。その19節で天使が祭司ザカリアにこう言っております。
「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話かけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」。この「喜ばしい知らせ」とはザカリアと妻エリサベトの夫婦に子供が与えられるという知らせでありますが。しかしそれは単にこの夫婦の喜びに留まるものではありません。聖書にございますとおり、「その子は多くの人を神のもとに立ち帰らせ、来るべき主、イエスの救いの時の道備えをする」という大きな使命をもって生まれてくるのです。
「主のご計画」
本日はそのバプテスマのヨハネの父となったザカリアのエピソードから、御言葉を味わっていきたいと思います。
まず聖書は、ザカリアが祭司であり、妻のエリサベトもまたアロンの家、つまりモーセの兄祭司アロンの血筋に生まれた女性ということで、二人とも幼い頃から神を愛し敬う心を培われてきたということでしょう。ここには「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と記されています。非の打ちどころないといえば、社会的地位や学歴があり教養豊かな人を指すことが多いでしょうが。しかし彼らは勿論そういった面も備えていたのでしょうが、神さまの前に正しく、偽りのない人であり、神と人に仕えていた人であったのでしょう。
ところで、この二人には長年に亘る切なる願いがありました。それは子どもです。聖書には「二人には子どもがなく、既に年をとっていた」とあります。当時のユダヤ社会においては、子どもがないことを「祝福されていない」とか「神から見放されている」などと考える心ない人たちがいたわけです。子どもを望んでいた二人にはそれがどんなにか寂しく、悔しく、時には肩身の狭い思いをしたでしょう。ザカリア夫妻は祭司の家の者という社会的立場もありましたから、そのような中で大きな葛藤を抱えて日々を送ってきたと想像することもできます。
さて、そのような折、「ザカリアは祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って、香をたくことになった」とあります。この神殿内で香をたくという務めはユダヤに2万人以上いたといわれる祭司にとってはあこがれであり、名誉なことでありますが、それに当るのはかなり難易度の高いものであったのです。まあ一生に一回当るか当らないか、そういう千載一遇の特権をザカリアは引き当てるのです。実はこのことは神さまのご計画のうちになされたことでありました。
しかし、ザカリアはどういう気持ちでこの当りの結果を聞いたのでしょうか。
恐らく自分の立場や現実を考えると単純に手放しで喜べるものではなく、その心境はきっと複雑であったことでしょう。
後で明らかになりますが、神さまはそんなザカリアとエリサベトをヨハネの両親として選ばれヨハネを育む重要な役割を託されたのであったのです。
「祈り、愛」
さて、その日が訪れザカリアは聖所で香をたきます。彼がそこで何を祈っていたのかについては分かりませんが、恐らくイスラエルとその民の守りと祝福を祈ったのではないでしょうか。ローマ帝国の圧政からの解放をイザヤが預言した救いの日の到来と重ねて祈っていたのではないでしょうか。しかしその祈りは又、ザカリア一人の祈りではなく、聖書は「ザカリアが聖所で香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」とありますように、それは多くのユダヤ民衆の願いであったのです。そういう執り成し、祈り合いによる関係がしっかりと築かれていたのです。
私たちは祈りを一人で捧げていると思いますが、見えませんが背後にあって自分のために執り成し祈ってくださっている方々が必ずいらっしゃいます。それがキリストの教会である所以ですが。教会はその意義があるのではなく、主イエスが言われたように「互いに愛し合い、足を洗い合う(祈り執り成し合う)ところにその存在意義があるのです。
「あなたの祈りは聞き入れられた」
聖書に戻りますが。
ザカリアが聖所で香をたいていますと、主の天使が現れ、不安と恐怖の念に襲われた彼にこう言います。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。そこ子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」。
ここで天使は二つのことを告知します。
一つは、ザカリアと妻エリサベトに子が与えられる、という喜びと楽しみであります。
けれどもそれだけではありません。その子の誕生は多くの人にとっても喜びとなる、というのです。ここが一つの大事なポイントだと思うのですね。神さまの祝福というのは、受ける本人だけに決して留まらないのです。
天使の告知の二つ目は、「その幼子にヨハネと名付けなさい」というものです。
ヨハネという名前は「主はいつくしみ深い」という意味があり、名は体を表すと言われますように、彼は16節「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ、父なる神の心をその子であるイスラエルに向けさせ、逆らう者に正しい分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」という使命をもって生まれてくるのです。
その御業はまさしく父なる神のいつくしみそのものです。祝福の源は「神さまのいつくしみ」。それは豊かな拡がりをもって人々に分ち合われてゆくのです。
さて、ザカリアに話を戻しますが。彼は天使より「あなたの願い(祈り)は聞き入れられた」という言葉を聞くのでありますが。彼にとってそれは必ずしもよき知らせとは聞こえなかったようです。彼は天使に「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言っています。
ザカリアは年老いて、もはや子どもを欲していたことが過去の事となっていました。確かに心の願いは変りません。けれどももう口に出して祈ることはありません。現実とどこかで折り合いをつけねばと考えていたような折、唐突に「あなたの願いは聞き入れられた」と言われても、ザカリアは戸惑うばかりだったに違いありません。
そんなザカリアに天使は次のように語ります。
「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。
主イエスは「あなたは見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」とおっしゃいましたが。ザカリアは、直接神が語りかけておられるにも拘わらず、それを自分に実現することして聞き、受け入れることが難しかったのです。むろんこの状況は特殊ともいえるかも知れません。けれども私たちはどうでしょうか。「あなたの罪はイエス・キリストによってすべて赦されました。あなたは救われ神の子とされました。永遠のいのちの中に入れられました」との福音。受け入れる人には、たとえそれがどんな人でも無償で与えられるこの神の祝福を、しかし残念なことに多くの人が受け取ろうとしないのです。それは心の中に様々な考えや思いがひしめき合っているからです。
「信じる者へ変えられる時」
聖書は「ザカリアは聖所からやっと出てきたけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった」と伝えます。
ひしめく言葉を口にすればつぶやきになり、不信の言葉になったかも知れません。沈黙せざるを得ない状況の中でこそ、ザカリアは7日の務めの間様々なことを静かに思い巡らすことが出来たでしょう。旧約の預言の言葉。神のあわれみと約束。天使の知らせ。民の救い。そして妻エリサベトの思い。その沈黙の中で心を澄ませて神さまの御心を受けとっていったのではないでしょうか。
この「ザカリア」という名前ですけれども。それは「神は忘れない」「神は覚えている」との意味があるそうです。ザカリアはその願いがどんなに祈っても叶わないということで本当に悩み苦しみ、もはやその現実を受け入れる以外ないような状況の中で、彼はどこか心のうちに「自分は神に忘れられているのではないのか」「神は私を覚えては下さらないのか」という思いに苛まれ続けていたのではないでしょうか。けれども、人の思いの何たるかを知っておられる神は、その心の願いを、実は私たちが祈る前からご存じなのであります。ザカリアは天使ガブリエルの告知、そして神が与えられた沈黙の中で変えられてゆきます。「神は忘れない」「神は覚えておられる」。どんな状況の中でも。そう、神に信頼してゆく者へとザカリアはその名の示すとおりの者へと変えられるのです。
今日のこの箇所から「祈り合うこと」「信じること」「祈りは聞かれていること」についてメッセージを聞いてまいりました。その根幹のところには、熱しやすく冷めやすい信仰の弱い私たち、躓きやすい私たちを見放すことなく御目を注ぎ、「あなたを忘れない」「あなたを見捨てない」と励まし続け、共に歩んでいてくださる主がおられるということです。今日、主がザカリアにお示しになられたように心新たに宣言いたしましょう。「神はわたしを忘れてはおられません」「神はわたしを覚えておられます」。アドヴェントのこの時期、今日の御言葉を杖に、私たちも又、主の大いなるご計画の中へあゆみ出してまいりましょう。
10月からイザヤ書を丁寧に読んでまいりましたが、そこには罪深いイスラエルの民を一貫して愛し、救いへと導かれる主なる神さまの恵みが満ちていました。そしてその「喜びの約束」は、やがて全世界にもたらされる祝福であることを共におぼえました。それは私たちにとりまして、この「神の愛と救いの約束」が救い主イエス・キリストによってイスラエルの人々はもちろん、すべての人々のもとに時満ちて実現されている。その素晴らしい祝福をイザヤの預言に導かれながら、このクリスマスの月、ルカによる福音書から御言葉を聞いていきたいと思います。
さて、先程その救い主イエス・キリストの道備えをなしたバプテスマのヨハネの誕生にまつわる記事が読まれました。その19節で天使が祭司ザカリアにこう言っております。
「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話かけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」。この「喜ばしい知らせ」とはザカリアと妻エリサベトの夫婦に子供が与えられるという知らせでありますが。しかしそれは単にこの夫婦の喜びに留まるものではありません。聖書にございますとおり、「その子は多くの人を神のもとに立ち帰らせ、来るべき主、イエスの救いの時の道備えをする」という大きな使命をもって生まれてくるのです。
「主のご計画」
本日はそのバプテスマのヨハネの父となったザカリアのエピソードから、御言葉を味わっていきたいと思います。
まず聖書は、ザカリアが祭司であり、妻のエリサベトもまたアロンの家、つまりモーセの兄祭司アロンの血筋に生まれた女性ということで、二人とも幼い頃から神を愛し敬う心を培われてきたということでしょう。ここには「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と記されています。非の打ちどころないといえば、社会的地位や学歴があり教養豊かな人を指すことが多いでしょうが。しかし彼らは勿論そういった面も備えていたのでしょうが、神さまの前に正しく、偽りのない人であり、神と人に仕えていた人であったのでしょう。
ところで、この二人には長年に亘る切なる願いがありました。それは子どもです。聖書には「二人には子どもがなく、既に年をとっていた」とあります。当時のユダヤ社会においては、子どもがないことを「祝福されていない」とか「神から見放されている」などと考える心ない人たちがいたわけです。子どもを望んでいた二人にはそれがどんなにか寂しく、悔しく、時には肩身の狭い思いをしたでしょう。ザカリア夫妻は祭司の家の者という社会的立場もありましたから、そのような中で大きな葛藤を抱えて日々を送ってきたと想像することもできます。
さて、そのような折、「ザカリアは祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って、香をたくことになった」とあります。この神殿内で香をたくという務めはユダヤに2万人以上いたといわれる祭司にとってはあこがれであり、名誉なことでありますが、それに当るのはかなり難易度の高いものであったのです。まあ一生に一回当るか当らないか、そういう千載一遇の特権をザカリアは引き当てるのです。実はこのことは神さまのご計画のうちになされたことでありました。
しかし、ザカリアはどういう気持ちでこの当りの結果を聞いたのでしょうか。
恐らく自分の立場や現実を考えると単純に手放しで喜べるものではなく、その心境はきっと複雑であったことでしょう。
後で明らかになりますが、神さまはそんなザカリアとエリサベトをヨハネの両親として選ばれヨハネを育む重要な役割を託されたのであったのです。
「祈り、愛」
さて、その日が訪れザカリアは聖所で香をたきます。彼がそこで何を祈っていたのかについては分かりませんが、恐らくイスラエルとその民の守りと祝福を祈ったのではないでしょうか。ローマ帝国の圧政からの解放をイザヤが預言した救いの日の到来と重ねて祈っていたのではないでしょうか。しかしその祈りは又、ザカリア一人の祈りではなく、聖書は「ザカリアが聖所で香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」とありますように、それは多くのユダヤ民衆の願いであったのです。そういう執り成し、祈り合いによる関係がしっかりと築かれていたのです。
私たちは祈りを一人で捧げていると思いますが、見えませんが背後にあって自分のために執り成し祈ってくださっている方々が必ずいらっしゃいます。それがキリストの教会である所以ですが。教会はその意義があるのではなく、主イエスが言われたように「互いに愛し合い、足を洗い合う(祈り執り成し合う)ところにその存在意義があるのです。
「あなたの祈りは聞き入れられた」
聖書に戻りますが。
ザカリアが聖所で香をたいていますと、主の天使が現れ、不安と恐怖の念に襲われた彼にこう言います。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。そこ子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」。
ここで天使は二つのことを告知します。
一つは、ザカリアと妻エリサベトに子が与えられる、という喜びと楽しみであります。
けれどもそれだけではありません。その子の誕生は多くの人にとっても喜びとなる、というのです。ここが一つの大事なポイントだと思うのですね。神さまの祝福というのは、受ける本人だけに決して留まらないのです。
天使の告知の二つ目は、「その幼子にヨハネと名付けなさい」というものです。
ヨハネという名前は「主はいつくしみ深い」という意味があり、名は体を表すと言われますように、彼は16節「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ、父なる神の心をその子であるイスラエルに向けさせ、逆らう者に正しい分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」という使命をもって生まれてくるのです。
その御業はまさしく父なる神のいつくしみそのものです。祝福の源は「神さまのいつくしみ」。それは豊かな拡がりをもって人々に分ち合われてゆくのです。
さて、ザカリアに話を戻しますが。彼は天使より「あなたの願い(祈り)は聞き入れられた」という言葉を聞くのでありますが。彼にとってそれは必ずしもよき知らせとは聞こえなかったようです。彼は天使に「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言っています。
ザカリアは年老いて、もはや子どもを欲していたことが過去の事となっていました。確かに心の願いは変りません。けれどももう口に出して祈ることはありません。現実とどこかで折り合いをつけねばと考えていたような折、唐突に「あなたの願いは聞き入れられた」と言われても、ザカリアは戸惑うばかりだったに違いありません。
そんなザカリアに天使は次のように語ります。
「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。
主イエスは「あなたは見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」とおっしゃいましたが。ザカリアは、直接神が語りかけておられるにも拘わらず、それを自分に実現することして聞き、受け入れることが難しかったのです。むろんこの状況は特殊ともいえるかも知れません。けれども私たちはどうでしょうか。「あなたの罪はイエス・キリストによってすべて赦されました。あなたは救われ神の子とされました。永遠のいのちの中に入れられました」との福音。受け入れる人には、たとえそれがどんな人でも無償で与えられるこの神の祝福を、しかし残念なことに多くの人が受け取ろうとしないのです。それは心の中に様々な考えや思いがひしめき合っているからです。
「信じる者へ変えられる時」
聖書は「ザカリアは聖所からやっと出てきたけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった」と伝えます。
ひしめく言葉を口にすればつぶやきになり、不信の言葉になったかも知れません。沈黙せざるを得ない状況の中でこそ、ザカリアは7日の務めの間様々なことを静かに思い巡らすことが出来たでしょう。旧約の預言の言葉。神のあわれみと約束。天使の知らせ。民の救い。そして妻エリサベトの思い。その沈黙の中で心を澄ませて神さまの御心を受けとっていったのではないでしょうか。
この「ザカリア」という名前ですけれども。それは「神は忘れない」「神は覚えている」との意味があるそうです。ザカリアはその願いがどんなに祈っても叶わないということで本当に悩み苦しみ、もはやその現実を受け入れる以外ないような状況の中で、彼はどこか心のうちに「自分は神に忘れられているのではないのか」「神は私を覚えては下さらないのか」という思いに苛まれ続けていたのではないでしょうか。けれども、人の思いの何たるかを知っておられる神は、その心の願いを、実は私たちが祈る前からご存じなのであります。ザカリアは天使ガブリエルの告知、そして神が与えられた沈黙の中で変えられてゆきます。「神は忘れない」「神は覚えておられる」。どんな状況の中でも。そう、神に信頼してゆく者へとザカリアはその名の示すとおりの者へと変えられるのです。
今日のこの箇所から「祈り合うこと」「信じること」「祈りは聞かれていること」についてメッセージを聞いてまいりました。その根幹のところには、熱しやすく冷めやすい信仰の弱い私たち、躓きやすい私たちを見放すことなく御目を注ぎ、「あなたを忘れない」「あなたを見捨てない」と励まし続け、共に歩んでいてくださる主がおられるということです。今日、主がザカリアにお示しになられたように心新たに宣言いたしましょう。「神はわたしを忘れてはおられません」「神はわたしを覚えておられます」。アドヴェントのこの時期、今日の御言葉を杖に、私たちも又、主の大いなるご計画の中へあゆみ出してまいりましょう。