礼拝宣教 ルカ1章39~56節 アドベントⅢ
主の御名を讃美いたします。アドベント第3週の礼拝を共に主に捧げておりますが、来週はいよいよクリスマスの礼拝を迎えます。
「マリアとエリサベトの出会い」
先週は、天使による「救い主イエス・キリスト誕生の知らせとその御計画」をマリアが我が身に受けていくの御言葉を聞いていきました。マリアは親類のエリサベトにも子どもを宿しているとの知らせを聞きますが。今日はそのマリアがエリサベトに会いにいったというところから御言葉に聞いていきたいと思います。
エリサベトは、主の御計画により、とても高齢になって子を宿すことになります。それは世間の噂の的となり、人々から興味本位の視線にさらされることになります。そうして5ヶ月間人目を避けて家に引きこもるのですが。まあ初めての出産であり、体力的にも相当な不安や恐れの中で、マリアのこの訪問は、エリサベトにとってどれ程大きな励ましになったことでしょう。
片やマリアも、10代半ばの年若く、自分も婚約者もあずかり知らぬ妊娠です。2人とも神の御計画によって、ユダヤ社会の道徳律から、人々の視線にさらされ続けねばならなかったのです。本当に大変な状況に彼女たちは放り込まれたのですね。
人は途方もないような出来事に遭遇したとき、「ああもう自分はダメだ、独りだ」と嘆き、悶える外ないような思いに支配されてしまうのではないでしょうか。
けれども先週ありましたとおり、マリアは天使から高齢のエリサベトも又神の御心によって子どもを宿したことを知らされ、大変勇気づけられるのですね。そうして彼女は、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と、神の御旨に応えていくことができたのです。
マリアは、この事態に信仰をもって立ち向かって行くために自分の身に起こっていることを分ち合い、理解し合えるのは、まさしくこのエリサベトの存在であると、そう確信したのでありましょう。
そうした思いをもってマリアは、急いでエリサベトの住むユダの町へ向かい、天使の予告どおり子を宿しているエリサベトと出会うのであります。
本日も先にSさんの証しを伺いました。共に祈っていてくださる友の存在の大きさ。こうして主にある兄弟姉妹の証を聞く時、大いに励まされ、救いの原点を思い起こすことができます。
さて、エリサベトがマリアからの挨拶を受けると、その胎内の子がおどって、彼女は聖霊に満たされ、声高らかにマリアにこう語りだします。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。
マリアはただ挨拶を交わしただけなのに、まだエリサベトに何も話していないのに、マリアが自分の胎内に子どもを宿していること、又、それがエリサベトにとって「わたしの主」であること、さらに自分の胎内の子も、それを知って喜びおどったことを告げるのです。
不思議なことに、マリアはエリサベトに会ったら聞いてみたいと思っていた以上のことを、彼女から知らされることになるのです。まさに聖霊によってこの事どもが起こるのであります。
主の御業がなることを受け入れていったマリアは、同じく主のご計画に導かれるエリサベトから、そのような大いなる祝福の言葉を受けるのです。
マリアもエリサベトも、そのおかれた状況を考えれば、決して手放しに「おめでとう」などとは言えないものをその身に負うことになった訳ですが。けれどそこで「まあ、あなたも大変ねえ」とか「お互い何とか頑張っていきましょう」などとは言わないんですね。むしろ二人の出会いから生じたものは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という神への信頼の確信や「身分の低い、このはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」という神の御計画に対する期待であったのです。
信仰者同志の関わりは、単なる労いや励ましに終始するものではなく、神への信頼を呼び覚ますもの、神の御計画に望みを、期待を寄せていくものであることをここから知らされるのであります。
私たちにとりましては、その幸いな出来事が直接的に起こっているのが、教会です。
計り知れない主の御計画によって呼び集められ、すべてが主なる神の御手のうちにあると信じる私たち。
イエスさまが「二人、三人がわたしの名によって集まるところに、わたしもそこにいる」とおっしゃる、その私たちの間に、聖霊がゆたかにお働きくださって、主への信頼と期待。賛美へと導かれるのです。
主に望みをおく信仰の兄弟姉妹の共なる祈り、とりなし、御言葉による励ましに、どれ程、神の力が働いているかということをみなさまお一人おひとりがすでに経験していらっしゃることでしょう。
マリアは神の力と働きを確認するため、エリサベトと直接顔を合わせました。一歩踏み出して、主が備えてくださった兄弟姉妹との主イエスにある関わりを頂いて、「祈ってください」。逆に「祈っていますよ」という関係を築いていくことが、神の祝福に与る大切な要素であると思います。
「マリアの信仰の賛歌」
さて、今日はもう一つ、「マリアの賛歌」(マニフィカート)と呼ばれる箇所から、御言葉を聞いてきたいと思います。
マリアは47節で「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と高らかに賛美していますが。この「あがめる」というギリシャ語の大本の意味は「大きくする」ということです。
わたしの魂は主を大きくします。自分を小さくして神さまを主、あるじとします、ということです。
先週、48節の「はしため」という言葉は「奴隷」「しもべ」という意味だと学びましたが、同じですね。自我に仕えるのではなく主に仕える。「主」を大きくし「わたし」を小さくするということです。
そのように50節を見ると、マリアのうちに「主を畏れる」思いが強くあったことがわかります。
私たちは主への信仰をもっていると自認していても、主を畏れ敬う心で生きているかどうかは、主の御目に明らかで、主はすべてお見通しです。「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及ぶ」。この50節の御言葉は真理です。主はすべてご存じであることを畏れつつ、本物の平安を生きていきたいものです。
ところでマリアは、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と言っていますが。彼女は異邦人が住むところと境のガリラヤ、「ガリラヤから何のよいものがでようか」といわれるようなその地の、小さなのナザレの町で育ち、しかもまだ10代半ばでした。
当時のユダヤにおける社会的地位は低かったのです。けれどもそれだから卑しめられ、不当な扱いを受ける人の祈りを知っていたでしょう。そして唯、主にのみ頼る外ないわたしたちを主は受け入れ、憐れみ:これは腸がちぎれるほどの慈愛という元の意味ですが、そういう愛をもって「わたしたちを決してお忘れになりません」と賛美するのです。
51節からの「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」とある中の6つの動詞、「力を振るう」「打ち散らす」「引き降ろす」「高く上げる」「良い物で満たす」「追い返される」とあるのは、ギリシャ語原文では完全過去不定分詞の動詞形で、「すでに行なわれた過去のことを言っているのではなく、未来に期待されることをすでに起こったこと」として述べているのです。つまり「必ずそうなるでしょう」という彼女の確信と期待、それは主への信頼なのです。ここにマリアの信仰が表明されているのです。
ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあるとおりです。
そしてそれはクリスマス、救い主イエス・キリストの誕生によってその救いの御業がまさに開始されていくのです。そしてその十字架の苦難と死、復活によって救いの御業は実現するのです。神の愛と憐れみが私たち人間のお姿となってくださる。受肉してくださる。
その主の救いが現わされる日を待ち望み、互いに祈るマリアとエリサベト。
アドヴベントとはまさにこのように、祈る以外ない私たちの現実のただ中に、解放をもたらす神の恵みの出来事を待ち望む時なのです。
その御恵みは今も継続していることを聖霊が導き、明らかにしてくださるのです。
主は今日もインマヌエル、共におられる方として望みをおくものと共に、御計画と御救いを実現しておられます。
私どもも又、主に愛され守られている者として祝福の挨拶を互いに交わしつつ、来週の主のご降誕・クリスマスに備えてまいりましょう。
フィリピ2章6-8節
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。」
主の御名を讃美いたします。アドベント第3週の礼拝を共に主に捧げておりますが、来週はいよいよクリスマスの礼拝を迎えます。
「マリアとエリサベトの出会い」
先週は、天使による「救い主イエス・キリスト誕生の知らせとその御計画」をマリアが我が身に受けていくの御言葉を聞いていきました。マリアは親類のエリサベトにも子どもを宿しているとの知らせを聞きますが。今日はそのマリアがエリサベトに会いにいったというところから御言葉に聞いていきたいと思います。
エリサベトは、主の御計画により、とても高齢になって子を宿すことになります。それは世間の噂の的となり、人々から興味本位の視線にさらされることになります。そうして5ヶ月間人目を避けて家に引きこもるのですが。まあ初めての出産であり、体力的にも相当な不安や恐れの中で、マリアのこの訪問は、エリサベトにとってどれ程大きな励ましになったことでしょう。
片やマリアも、10代半ばの年若く、自分も婚約者もあずかり知らぬ妊娠です。2人とも神の御計画によって、ユダヤ社会の道徳律から、人々の視線にさらされ続けねばならなかったのです。本当に大変な状況に彼女たちは放り込まれたのですね。
人は途方もないような出来事に遭遇したとき、「ああもう自分はダメだ、独りだ」と嘆き、悶える外ないような思いに支配されてしまうのではないでしょうか。
けれども先週ありましたとおり、マリアは天使から高齢のエリサベトも又神の御心によって子どもを宿したことを知らされ、大変勇気づけられるのですね。そうして彼女は、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と、神の御旨に応えていくことができたのです。
マリアは、この事態に信仰をもって立ち向かって行くために自分の身に起こっていることを分ち合い、理解し合えるのは、まさしくこのエリサベトの存在であると、そう確信したのでありましょう。
そうした思いをもってマリアは、急いでエリサベトの住むユダの町へ向かい、天使の予告どおり子を宿しているエリサベトと出会うのであります。
本日も先にSさんの証しを伺いました。共に祈っていてくださる友の存在の大きさ。こうして主にある兄弟姉妹の証を聞く時、大いに励まされ、救いの原点を思い起こすことができます。
さて、エリサベトがマリアからの挨拶を受けると、その胎内の子がおどって、彼女は聖霊に満たされ、声高らかにマリアにこう語りだします。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。
マリアはただ挨拶を交わしただけなのに、まだエリサベトに何も話していないのに、マリアが自分の胎内に子どもを宿していること、又、それがエリサベトにとって「わたしの主」であること、さらに自分の胎内の子も、それを知って喜びおどったことを告げるのです。
不思議なことに、マリアはエリサベトに会ったら聞いてみたいと思っていた以上のことを、彼女から知らされることになるのです。まさに聖霊によってこの事どもが起こるのであります。
主の御業がなることを受け入れていったマリアは、同じく主のご計画に導かれるエリサベトから、そのような大いなる祝福の言葉を受けるのです。
マリアもエリサベトも、そのおかれた状況を考えれば、決して手放しに「おめでとう」などとは言えないものをその身に負うことになった訳ですが。けれどそこで「まあ、あなたも大変ねえ」とか「お互い何とか頑張っていきましょう」などとは言わないんですね。むしろ二人の出会いから生じたものは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という神への信頼の確信や「身分の低い、このはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」という神の御計画に対する期待であったのです。
信仰者同志の関わりは、単なる労いや励ましに終始するものではなく、神への信頼を呼び覚ますもの、神の御計画に望みを、期待を寄せていくものであることをここから知らされるのであります。
私たちにとりましては、その幸いな出来事が直接的に起こっているのが、教会です。
計り知れない主の御計画によって呼び集められ、すべてが主なる神の御手のうちにあると信じる私たち。
イエスさまが「二人、三人がわたしの名によって集まるところに、わたしもそこにいる」とおっしゃる、その私たちの間に、聖霊がゆたかにお働きくださって、主への信頼と期待。賛美へと導かれるのです。
主に望みをおく信仰の兄弟姉妹の共なる祈り、とりなし、御言葉による励ましに、どれ程、神の力が働いているかということをみなさまお一人おひとりがすでに経験していらっしゃることでしょう。
マリアは神の力と働きを確認するため、エリサベトと直接顔を合わせました。一歩踏み出して、主が備えてくださった兄弟姉妹との主イエスにある関わりを頂いて、「祈ってください」。逆に「祈っていますよ」という関係を築いていくことが、神の祝福に与る大切な要素であると思います。
「マリアの信仰の賛歌」
さて、今日はもう一つ、「マリアの賛歌」(マニフィカート)と呼ばれる箇所から、御言葉を聞いてきたいと思います。
マリアは47節で「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と高らかに賛美していますが。この「あがめる」というギリシャ語の大本の意味は「大きくする」ということです。
わたしの魂は主を大きくします。自分を小さくして神さまを主、あるじとします、ということです。
先週、48節の「はしため」という言葉は「奴隷」「しもべ」という意味だと学びましたが、同じですね。自我に仕えるのではなく主に仕える。「主」を大きくし「わたし」を小さくするということです。
そのように50節を見ると、マリアのうちに「主を畏れる」思いが強くあったことがわかります。
私たちは主への信仰をもっていると自認していても、主を畏れ敬う心で生きているかどうかは、主の御目に明らかで、主はすべてお見通しです。「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及ぶ」。この50節の御言葉は真理です。主はすべてご存じであることを畏れつつ、本物の平安を生きていきたいものです。
ところでマリアは、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と言っていますが。彼女は異邦人が住むところと境のガリラヤ、「ガリラヤから何のよいものがでようか」といわれるようなその地の、小さなのナザレの町で育ち、しかもまだ10代半ばでした。
当時のユダヤにおける社会的地位は低かったのです。けれどもそれだから卑しめられ、不当な扱いを受ける人の祈りを知っていたでしょう。そして唯、主にのみ頼る外ないわたしたちを主は受け入れ、憐れみ:これは腸がちぎれるほどの慈愛という元の意味ですが、そういう愛をもって「わたしたちを決してお忘れになりません」と賛美するのです。
51節からの「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」とある中の6つの動詞、「力を振るう」「打ち散らす」「引き降ろす」「高く上げる」「良い物で満たす」「追い返される」とあるのは、ギリシャ語原文では完全過去不定分詞の動詞形で、「すでに行なわれた過去のことを言っているのではなく、未来に期待されることをすでに起こったこと」として述べているのです。つまり「必ずそうなるでしょう」という彼女の確信と期待、それは主への信頼なのです。ここにマリアの信仰が表明されているのです。
ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあるとおりです。
そしてそれはクリスマス、救い主イエス・キリストの誕生によってその救いの御業がまさに開始されていくのです。そしてその十字架の苦難と死、復活によって救いの御業は実現するのです。神の愛と憐れみが私たち人間のお姿となってくださる。受肉してくださる。
その主の救いが現わされる日を待ち望み、互いに祈るマリアとエリサベト。
アドヴベントとはまさにこのように、祈る以外ない私たちの現実のただ中に、解放をもたらす神の恵みの出来事を待ち望む時なのです。
その御恵みは今も継続していることを聖霊が導き、明らかにしてくださるのです。
主は今日もインマヌエル、共におられる方として望みをおくものと共に、御計画と御救いを実現しておられます。
私どもも又、主に愛され守られている者として祝福の挨拶を互いに交わしつつ、来週の主のご降誕・クリスマスに備えてまいりましょう。
フィリピ2章6-8節
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。」