2018年1月1日(月)11:00より
2017年 歳晩礼拝宣教 ルカ2章22~38節
先週はクリスマス主日礼拝、キャンドルライトサービスと救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いする喜びのときを共に持つことが出来、まことに感謝でありました。初めてこの教会で礼拝に与ったという方、久しぶりに礼拝に出ることができて喜ぶ方々もおられ感謝でした。私が大阪教会に来て、こんなにクリスマスに礼拝堂がいっぱいになったのは初めてでしたが。それは何より主ご自身がお一人おひとりを知り、覚え、導き続けていらっしゃるということです。この主を心から賛美します。
さて本日は2018年12月31日と1年最後の日が主の日と重なり、まさに歳晩主日の礼拝として捧げております。1年の大阪教会のあゆみ、そして皆さまそれぞれのあゆみがありました。
今年の初めに願った事や期待した事で、叶えられた事もあるでしょうし、いまだ課題とされる事もあるでしょう。人生に悩みは尽きません。
けれど私たちは、すべてを御手におさめ、愛をもって導き続けてくださるお方がおられることを、知っているか、いないかでは本当に天と地の違いであります。
Ⅰコリント10章13節に「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えていてくださる」とございますように、一切は主の御手のうちにある。そこに世にはない平安の道があります。
教会においては、激しい激しい嵐の日も多かった中で、今年1年も不思議にすべての主の日の礼拝が一度も途切れることなく、今日の歳晩礼拝を捧げることができました。
それは主の救いを必要としてこの教会を訪れるお一人おひとりのために、主が守ってくださったゆえであると信じます。
主の恵みに感謝いたします。一つひとつの恵みのできごとをかぞえつつ、主に感謝と賛美を捧げてまいりましょう。
本日はルカ2章22節~38節の「幼子イエスに救いを見たシメオンとアンナ」のエピソードより御言葉を聞いていきます。
出産後の清めの期間を経た母マリアは幼子イエスを携えて夫とともにエルサレムにのぼります。それは、神殿で彼らの初子を神に献げるためでありました。
まあこのところを引用して、礼拝の中で献児式や幼児祝福式が行なわれている教会も多いのではないでしょうか。今日は第二子を無事ご出産されて韓国から戻ってこられた、Dさん、ご長男Tくん、そして第二子のSくんもTさん共々ファミリーで礼拝に集われています。感謝です。後で「祝福のお祈り」をさせていただきたいと思います。
さて当時のユダヤの律法では、母親のきよめの期間を経てから、その初子を神に献げるという儀式があったのですが、その時に通常1才の小羊をいけにえとして献げるということが慣例であったようです。それが難しい場合は鳩を献げることが許されていました。
マリアとヨセフは鳩を献げる用意をしてたことから、その生活は質素なものであった事が伺えます。
先週のクリスマスは救い主イエスさまの御降誕を共にお祝いする礼拝を捧げましたが。その大きな喜びの知らせが真っ先に伝えられたのは羊飼いたちでした。その羊飼いたちも名もしれぬ貧しい人たちでしたが、寄る辺なき彼らは、しかしだからこそ、人一倍神を畏れて生きていた。実は神の救いを待ち望んでいた人たちであったのです。
「聖霊に導かれて」
さて、両親が神殿で鳩をいけにえとして献げようと幼子を連れて来た時。
丁度そこにシメオンという老人が霊に導かれて神殿の境内に入ってくるのです。
彼については「正しい人で信仰があつく、ローマの支配下にあったイスラエルの慰められるのを待ち望んでいる人であった」とあります。彼も又、主が臨んでくださる救いを待望している人でした。彼には「聖霊がとどまっておられて、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」というのです。
シメオンは旧約聖書に記された救い主が現れるというその預言を、ずっと握りしめ、年を重ねていく中にも、その希望は決して色あせませんでした。それは神の霊・聖霊が彼に留まり続けていたからです。
メシアに会うまで死なないとお告げを受けていましたが、待っても待ってもその日は来ない。彼はそういう中でも、神殿に出向いては祈り続け、聖霊もそのようなシメオンに留まり続けておられたのです。そして時満ちて主の霊が遂にシメオンを神殿にいた幼子イエスのもとへ導くのであります。
私たちも又、主のもとに留まり続けたシメオンのように、遂に主の御業を拝する者とされたいと願うものです。
今日の箇所にもう一人アンナという女預言者が登場します。
彼女は若いときに結婚しましたが7年後に夫と死に別れ86才になっていました。彼女は「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」とございます。
このアンナも、シメオンと同様、主の救いをそれ程まで待ち望んでいた人であったのですね。
主の救いをいつも期待し、待ち望む信仰。主の名によって祈りの家と呼ばれる神殿を離れず、日々祈り続け、日常の中にも神に仕える思いをもって生きる。そういうライフスタイルをシメオンもアンナも長年守り続けていったんですね。そこに聖霊は留まり、神の栄光が確かに臨むのです。
私たちもそうです。聖霊の臨在、お働きに私たちは期待し、祈っているでしょうか。
主の家は祈りの家でありますから、神さまは本当に私たちが祈り備え、祈り心をもって礼拝に臨むことをどんなにか待っておられます。
「牧師が祈っていてくれる」。もちろん祈っていますが、みなさま自身が主に期待し、祈り備えていった時の礼拝とそうでない時の礼拝とは、大きく異なるでしょう。聖霊のお働きとお導きを期待し、信じて祈る。執り成して祈る。御言葉も。祝福も私に、私どもに与えてくださいと、祈って臨む。
そうしたところに主のゆたかな御業を見、その働きを体感することができるのです。
神殿には多くの人が来ていましたが、救い主イエスさまにお目にかかれたのは、このシメオンとアンナだけした。祈り続け、執り成し、仕え続ける人たちがいる。そこに教会の希望があり、主の御救いの証しが立てられていくんですね。
「幼子イエスに見た救い」
さて、シメオンが霊に導かれて神殿で幼子イエスと出会った時、彼は、幼子を腕に抱き、神をたたえてこう言います。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。この目であなたの救いを見たからです」。
彼は幼子イエスに会っただけなのに、まだ主イエスさまのお働きを目にしたわけでもないのに、彼は「この目であなたの救いを見た」と言うのです。これが「主の霊に満たされ、主の救いを待ち望んで生きる信仰者の姿だ」と、聖書は私たちに示します。
もう何度も何度も引用して恐縮ですが、ヘブライ人への手紙11章1節の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」との御言葉はまさにそのようなことでありましょう。
シメオンはその信仰の目によって、まだ幼子のイエスさまの中に、主の御救いを見たのですね。
私たちはどうでしょうか。この信仰の目によって、生きているでしょうか。
目に見えるところの状況や世間の情勢にとらわれ左右されていると、神のご計画と祝福に気づくことができません。そこに不安や恐れ、悲観的な考えが渦巻いてしまい、せっかく用意されている恵みを台無しにしてしまうかも知れません。聖書はそのような虚しい生き方からの解放を私たちに提示します。
大切なのは「信仰の目をもって生きる道」です。まだそれを見ていないけれども、それを事実すでに成っている事として生きる。そうして生きる中に、たとえ困難な問題、八方ふさがりの状態に陥ったとしても、主の介在と解放、平安を私たちは体験するのです。
「シメオンの祝福」
さらにシメオンは信仰の目を通して、まず幼子イエスの救いについてこう語ります。
31節「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。
その救いはユダヤ人、イスラエルの民に限ったものではなく「万民の救い、異邦人
を照らす光である」というのです。
シメオンはイスラエルの民の救いを待ち望みつつ祈って来た人であったにも拘わらず、このように語るのです。
マタイの福音書には生まれたばかりの救い主イエスさまのもとを最初に訪れたのが、異邦人の学者たちだと記しています。ユダヤ人、イスラエルの民からすれば神の祝福の契約と何の関わりもない、隔ての壁の外側にいたそういう異邦人の学者たちが、救いの希望を見ることを切に望んでやって来て、幼子イエスさまにお目にかかるのですね。
私たちはこうして始められた、全世界の救いの啓示の光に照らされている者であります。その神の恵みを、この年の瀬に思い起こし唯、感謝であります。
さらに、シメオンは両親を祝福し、重大なことをマリアに告げます。
1つは、救い主イエスは「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められた」方だということです。
主イエスの到来によって、イスラエルの民の中には主を信じ受け入れて立ち返って救いを得る人もいる。その一方で、神の愛と救いを頑なに拒んで滅びに向かう人もいる。そのことを示しています。又、神が与えた律法の本質が見失われているようなユダヤ社会の中で、小さくされ、排除されていた人々を、主は立ち上がらせ、おごる者はいさめ、戒められましたが。彼らは悔い改めることなく、神の子を十字架にかけるという恐ろしい罪を犯してしまうのです。
シメオンは、幼子を見た時「今こそあなたの、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言いましたが。ここには「救いの到来、神の国の訪れを、確かにこの目で確認した」との平安を言い表わしているんですね。私どももそのような平安を日々確認する者でありたいと願います。
2つめの重大なことは、「あなた(マリア)自身も剣で心刺し貫かれます」と言っていることです。
主イエスが人類の罪の贖いを果たすために、十字架に引き渡された時。鞭打たれボロボロになった姿で苦しみながら息を引き取る我が子イエスの、そのお姿をマリアはその間近で見ることになるのですね。ほんとうに胸を刺し貫かれる思いで、その場に居合わせることとなったのです。シメオンは祝福して言ったとありますが、そのどこが祝福といえるのでしょう。
多くの人は祝福と言いますと、豊かで健康で、順調で円満でと考えます。
しかし聖書のいう祝福は自分だけが幸せだったらよいのとは違います。
ヘブライ語に「シャローム」という言葉がありますが。「こんにちは」とか挨拶で用いられる言葉ですが。それは「豊かであふれるほどの祝福があるように」ということです。このシャロームには個々人に留まらない社会全体の平和、和解、安全や健全性、そして救いまでもが、込められているのです。
シメオンは、主イエスが受けることになる苦難は「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と述べます。その真の救いがもたらされるためには、多くの人の心にある「罪」があらわにされる必要があるということです。
私たち、否私の中にある、神に逆らって自我をとおしていこうとする頑なな罪が、神の子の苦難と無残な死によってあらわになった。しかし、そのことをとおして、主の御救いは十全かたちで実現されていくのです。
キリスト者、クリスチャンはみんなそうです。十字架を見上げる時、自分から罪に気づかされ、神に立ち返って生きる者とされている。罪があらわになったからこそ、主の血による大いなる代償によって赦され、生かされている者とされている。それが私たちキリスト者であります。
主イエスの苦難のすべては「神の業があらわれるためであった」。イエス・キリストの苦難とその死によって、遂にイスラエルのみならず全世界、すべての人々を贖う救いの業が成し遂げられたのです。
このシメオンがマリアに語った祝福は、どんな苦難の中にあっても、主があなたと共におられるという約束です。それは十字架の苦難と死を通って復活された主イエスのいのちに与っているという約束でもございます。ハレルヤ。
明日は新年最初の元旦礼拝を献げます。
神の栄光の顕れ、神の国の到来とシャロームの実現を待ち望むシメオンとアンナのように来たる年2018年も、主イエスにある救いの道をここから歩み続けてまいりましょう。祈ります。