主日礼拝宣教 使徒言行録2章1~13節
七日の旅路を守り導いて下さった主の御名を賛美します。
4月12日から主日礼拝を休会してから約1か月が経過いたしました。
教会に集まって共に礼拝することができませんので、この間、週報、礼拝プログラム、礼拝宣教の原稿や礼拝の音声録音を送らせて頂いておりますが。
関西の諸教会・伝道所の多くも様々な対応がなされているようで、先日「祈りにおぼえ合うため」の現況報告が送られてきました。それぞれの教会の対応を興味深く読ませて頂きました。
そういった中、ある教会の方は「礼拝や祈祷会で集まれることのゆたかさを休止になってからしみじみと感じている」と、その思いを綴っておられました。が、私も幾度もそういったお声を大阪教会の方々からお聞きしています。それはきっと多くの教会の方々も同じ思いをされていることでしょう。
しかしそれは主にある交わりが断たれているわけではありません。なぜなら私たちの間に今この時も聖霊がゆたかにお働き下さっているからです。
本日は使徒言行録2章の聖霊降臨の記事より、「ゆたかな聖霊のお働き」と題し、御言葉に聞いていきます。
「主にあって祈り備える時」
先週は1章より御言葉を聞きましたが、その後半のところに、弟子たちは泊まっていた家の上の部屋に上がり、復活の主イエスが天に昇られるに際に「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父が約束されたもの(聖霊)を待ちなさい」と命じられたことを守り、泊まっていた2階の部屋で主に仕えていた婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合せて熱心に祈っていたのです。
捕らえられ十字架に引き渡されたイエスを見捨てて逃げた弟子たちとイエスの母やその家族たちとが一緒に祈るというのは、人間的に見れば考えづらいことですが。復活の主イエスによって、又その信仰によってイエスの母マリアもその家族も、そして弟子たちも、主にあって一つ心となって祈りを合せていたのであります。この祈りのうちに一同は、聖霊の降臨に備えたのです。
それは十字架の死の出来事から数えて50日という期間であったという事であります。その「一同が一つになって集まっている」ところにまさに聖霊がお降りになったというのが本日の2章始めの記述であります。
ところで私たちも状況は異なりますが、教会に足を運び共に礼拝を守ることができなくなってから30日が経とうとしていますが。いまだ世界全体が震撼するような状況が続いております。私も初めての経験ですが、教会の門が閉ざされるという考えもしなかった事態。主にある友や主の家族と顔と顔とを合すことができない。一緒に集まって仕え合って礼拝を捧げることができないという寂しさ。様々な諸集会が次々見送りになっていく度にやるせない思いがします。私自身この現況におかれ、「礼拝や祈祷会で集まれることのゆたかさを休止になってからしみじみと感じている」という一人でもあります。
「集まれることのゆたかさ」
主日礼拝を守るのはキリスト者なら当たり前、それが原理原則、当然とされていますけれども。キリスト者として生きるのに必ず教会に名を連ねて関わらなければならないとキリスト者じゃないというわけではないでしょう。それでも私たちは主の御言葉に聞いていくとき、やはり教会と信徒の交わりを通して、ゆたかに育まれ、信仰が守られていることを体験してきたのではないでしょうか。それが、今教会の門は閉ざされ、文書や音声、動画による礼拝がなされております。
今、「どうして主日礼拝に共に集まるのか。」改めて問われているように思えます。それは又、「教会とは何か」という問いでもあるでしょう。
忙しさや体力的な疲れをおぼえ礼拝に朝行く前にしんどい、きつかったけれども、実際に礼拝に足を運んでみると、そこに集っている方々との共なる賛美や祈り、聖書のお言葉によって不思議な平安が与えられ、元気を頂いた、そういう経験を少なからずお持ちではないでしょうか。それはまさに、そこに人知を超えたゆたかな聖霊のお働きがあるからに他なりません。
今は共に集まって礼拝できないこの時だからこそ、心を一つに主にとりなし、祈り合い、主の家族、主にある諸教会のことを覚え、祈り続けていくことを、今主は私たちに用意してくださっておられるのだと思うのです。
主イエスの告別説教の主たるメッセージは「目を覚まして祈っていなさい」でしたね。
それは、やがて礼拝再開が導かれた折に、共に集い主を礼拝する時に与えられるゆたかな聖霊の恵みの先取りであるのです。
「聖霊の降臨」
さて、2-3節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人のうえにとどまった。」
このように聖霊降臨の有様が記述されております。
激しい風とは神の息吹であります。創世記に神が人をお造りになられた際、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」との記事がございますが。
聖霊の降臨は、主イエスのあがないの業による罪のゆるしと神との和解がもたらされ
る「新生」、新しい命の息吹であります。
イエスさまは「人は水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3章)とおっしゃいました。まさにこれがイエスさまのおっしゃった第2の誕生、聖霊によるバプテスマを示しているのです。
ところで、「炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人のうえにとどまった」とあります。弟子たちはこの聖霊降臨によって、その一人ひとりに賜物として「神の偉大な業を語る」舌が与えられ神に遣わされる使徒とされていくのです。
4節に「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」のでありますが。新生した一人ひとりの主に呼び集められた群、キリストの教会、エクレシアは、まずこの聖霊によって「イエスこそ、主である」との信仰の告白をなす舌を与えられ、それはキリストの教会を形成する私たち一人ひとりによって形づくられています。はじめに組織や団体があったわけではありません。まず聖霊が、主に祈り求め続ける一人ひとりのうえに臨まれる。それが主体であります。
その私たち一人ひとりは小さな教会、主の宮であるということができるかと思います。
そうして1つの御霊によって形づくられたキリストの教会には、世に様々起こってくる信仰の戦いにおいて常に、聖霊なる神さまがその一同と共におられ、お働き下さいます。それは主の晩餐式において記念し覚えられていますように、私どもはそれぞれ「同じ一つの御霊」に与り、キリストにあって共に生きる兄弟姉妹、主の家族とされているという事です。それゆえに私たちは心一つにして、祈りを合わせていくよう常に招かれているのです。そこに聖霊のきよめがなされるのです。聖霊によるゆたかなお働きが起こされていくことを絶えず信じ求めてまいりましょう。
「福音宣教の時」
さて、5ー6節、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人たちが住んでいた。だれもかれも自分の故郷の言葉を話されているのを聞いて、あっけにとられた。」
この時ユダヤ教の五旬節の祭りでしたので、多くの国に散らされていたユダヤをルーツとしている人々がそれぞれの国や地域から巡礼のためにエルサレムを訪れていたのです。彼らは信仰の厚い人たちであったのです。
その彼らがそこで何よりも驚いたことがありました。それはガリラヤ出身のイエスの弟子たちから、神の偉大な業が語られていることを耳にした。それも様々な国の言葉によって神がどんな素晴らしいことを起こされたかを語り、また賛美しているのです。
エルサレムの祭司や律法の専門家ではなく、都の人たちから見れば無学で異邦人にも等しい者等と見下されていたガリラヤの人たちから「神の偉大な業」について自分たちの生まれた外国の国々の言葉によって聞かされたユダヤをルーツとする巡礼者たちは何よりも驚いたのです。
まあいわばそれは、長きに亘り散らされていたユダヤをルーツとしていた民が主にあって一つとされる時となったのではないでしょうか。
14節以降で、聖霊に満たされたペトロが救いの真理を語ります。そこで主イエスを
十字架に引き渡して殺害したユダヤの人たちの罪が説かれますが、しかし主はその罪をあがない、神との和解の福音を与えてくださったという救いのメッセージがなされるのであります。その日3000人もの人が罪を悔い改めて救われ、キリストの教会、エクレシアに加わったとあります。
まあ、このように聖霊のゆたかなお働きによって罪の悔い改めと救いの福音が語られる中で、ユダヤをルーツとしていた人たちが主にあって1つにつなぎ合わされていくのですね。まさに聖霊のお働きは、神の愛から引き離されていた者を神と和解させ、さらに主にあって結び合わせて下さる愛と平和の御業なのです。
そのお働きを聖霊は、まず言葉をもってなし遂げていかれます。
「炎のような舌が一人ひとりの上にとどまった」とありますが。
私ども一人ひとりも又、主の愛とゆるしによって新しく生かされた者とされた証しの言葉とその歩みをなすべく隣人と出会う者として日々世にあって遣わされているのです。
「神との交わりの回復」、また「人と人との交わりの回復」は聖霊のお働きによるものであり、そのあかしの言葉は福音に味付けされた言葉によって始められていくのです。
「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)と記されてあるとおりです。
しかしそんなことを申しますと、いや私は牧師ではないから聞く方であっても、話す方ではないとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。福音を伝えることは難しい、なかなかうまくできるものではない、とお思いになるかも知れません。その点について使徒パウロは非常によいヒントを私ども与えてくれています。
Ⅰコリント9:20ですが。「わたしはユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。・・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。」
それは何も使徒パウロがカメレオンのようにころころと変わったわけではありません。目の前にいる人に、主の大いなる御業を知って頂きたいと強く思っていたからです。
パウロはたくさんの知識をもった人でしたが。それで相手を説き伏せるようなことをしても相手に伝わらないことを知っていました。それよりも彼は自分が如何に救われ難い人間であったのか。その自分を唯救い出してくださった主の大いなる御業について体験したことを、相手が理解できるようにあかししたのです。
聖霊の降臨は、まず名も知れぬ、世の人々から無学と見下されていたガリラヤ出身のユダヤの人たちを通してあかしされていきました。
伝道とは自分の思いを相手に一方的に押し付け、相手の変化や回心を求めるものではありません。救いようもない自分が十字架の主イエスによって救い出された、そのゆるしと感謝の喜びにあふれ、主の愛の炎の舌をもってそのあかしが立てられていくのです。
聖霊は今も私たちの現実の世にあって混乱した言葉を結び直し、愛といのちの交わりを回復してくださる原動力となってお働きくださっているのです。
最後になりますが。
先日、私たちの連盟のS教会が地域に「感謝と祈りの言葉掲示板プロジェクト」というものを立ち上げ、拡げておられる動画を視聴させて頂き、大変励まされました。御覧になられた方もいらっしゃるかも知れませんが。
そのプロジェクトが立ち上がった背景と趣旨についてこう記されていました。
「4月12日イースター礼拝を行う予定でした。たくさんのチラシを刷っていたのですが、ウイルス対策のため集会を中止しました。無駄になったチラシを破棄しかけたところで、せっかくなのでチラシを使ってみなさんの感謝と祈りの言葉を集め、掲示したいと考えました。多くのことが「できなくなる」中、どうしても不平不満が口から出てしまいます。ウイルスと共に不安や不平不満が広がりそうになってしまう中だからこそ、みんなで感謝や祈りを具体的に言葉にしてみませんか。」
それは教会の掲示板から始まり、コラボで近所の教会やコンビニも賛同され加わっておられるとの事でした。今の現況下にあって「感謝と祈りを言葉にされているそのいわば協働の労作に、「神の偉大な業」があかしされている事を新鮮な思いで知らされました。
新たなる週を迎えた私たちも又、こういう時だからこそ今、感謝と祈りを言葉に表して日々を歩んでまいりたいと思います。
祈ります。主よ、今日も新しい朝と生きるいのちを与えてくださり感謝します。聖霊降臨の時を待ち望みつつ、心を一つにして祈り続ける人たちの姿を通して今あなたがわたしたちにメッセージを送ってくださいました。又、今のこの自粛の現状下にあっても、あなたの私たちへの恵みは尽きることはありません。主よ、「大いなるあなたの御業」をこれからも日々感謝し、世にあって発信し続けていく者として下さい。
又、それぞれにそのための信仰の霊性と健康と必要が備えられるよう守りお支え下さい。