日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の約束を信じて待つ

2020-05-03 10:35:04 | メッセージ

礼拝宣教「神の約束を信じて待つ」使途言行録1・1-11
(神の国と聖霊降臨の約束、主イエスの証人としての使命)

七日の旅路を守り導いてくださった主に感謝と賛美を捧げます。

先日新聞のコラムの欄に、宗教学者で僧侶の釈撤宗さんという方が、新型コロナウイルス感染拡大で世の中が暗い雰囲気に包まれていることについて、「こういう事態になると不安と恐れで心がきゅっと委縮します。すると、どうしても攻撃的になったり、誤った情報に惑わされたり、排他的になったりしてしまう・・・・ウイルスもさることながら、そういった委縮した心が感染しないようにすることが今、とても大事だと思っています」とおっしゃっていました。
又、宗教は何ができるでしょうか?という問いに対して、「牧師の先生とお話しながら考えたのですが、「待つこと」と「許すこと」の大切さを発信することだと思います。現代人は待つことと許すことがどんどん苦手になっている。心が委縮するとますますそうなるでしょう」とも。
そして、早期終息のための祈りをささげる宗教者たちもいます。一方で、そうした行為に対して「意味がない」という人もいるようですとの問いに対して、「少なくとも、そこには個人を超えた祈りがあります。どれだけ誠実に暮らしていても、日常は簡単に壊れてしまう。問題を解決するしかないという枠を超え、ただ祈るしかできないという人間の限界を示す態度とも言えるでしょう。尊い行為だと僕は思います」とも、おっしゃっていたことに共感をおぼえました。
ローマの信徒への手紙8章24節に「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、霊(人称代名詞)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たち、つまり、御計画に従て召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
霊すなわち聖霊は、わたしたちの言葉にならないような思いまでも共にうめきをもって執り成してくださいます。人知を超えた神の御計画が実現されるようにと聖霊を求めつつ、本日より使徒言行録から御言葉を聞いてまいりましょう。

「序」
この書はルカ福音書の第2部ともいわれており、ルカ福音書の終わりの24章から続けて読んでいきますと、より事の次第が理解しやすくなっています。
ルカ福音書では救い主イエスの誕生、神の霊による病人のいやし、悪霊追い出し、神の国の福音を告げ知らせる主イエスの公生涯と十字架の苦難と死、そして復活の記述が取り上げられています。
一方、この使徒言行録では、その復活の主イエスが天に昇られ、聖霊を送り、その力強いお働きによってキリストの教会を立てあげ、弟子たちを主イエスの証人として、エルサレムからユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、神の国の福音を告げ知らせるために派遣されていく過程が生き生きと描かれています。
この書は使徒の働き、使徒行伝、使徒言行録などと表題がつけられてきましたけれども、主が送って下さった聖霊の力とお働きがなければ使徒の働きというものはなされなかったわけですから、この書は正しくは「聖霊行伝」と言うことができるわけであります。
ここから2000年を経た今私たちの生きているこの時代、この世界におきましても、聖霊は確かに脈々と生きてお働きくだっておられます。
私たち主イエスの十字架と復活によって罪ゆるされ、神との和解によって新生された者のうちにゆたかに働きかけ、その信仰と魂とが日々健やかであるように守り導いて下さいます。さらには、主イエスの証人として立たせ、福音の恵みを隣人と分かち合う力と喜びを与えてくださっているのです。

「神の国と聖霊降臨の約束」
3節「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数々の証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。
使徒たちが復活の主イエスと過ごしたのは40日間でした。
この40という数はイスラエルの民が荒れ野の険しい旅路から約束の地に辿り着くことになる40年とも重なるように思えます。
イスラエルの民はそこで神の民とされていくことにおいて試練を経験しますが、その40年を経て彼ら民は約束の地へ導かれたのです。
神の民との間にあって執り成し導く指導者モーセは、約束の地を前にして天に上げられました。復活の主イエスが天に上げられるまでの40日間を過した弟子たちもまた、弟子から福音の使徒とされていくためのそれは貴重な時となったことでしょう。
主イエスの苦難と死は、神の国が始まっていくための神の尊い御業であることに彼らは気づき、悔い改めと感謝を捧げる祈りの日々となったことでしょう。
私たちも今はこの40日を過ごしているのかも知れません。人間的には理解しがたい日常の変化や困難の中で、時に言い知れぬ不安や心配が起こってくることもあります。
けれどもその中で復活の主が「あなたがたに平和が、平安があるように」と語りかけてくださる。今、かつてないほど主の御言葉を心静めて、思い起こす時を過ごしている。そしてより一層他者のために執り成しの祈りをささげている。そのような方もいらっしゃるでしょう。
さて、主イエスは彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられました。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである。」
この「聖霊のバプテスマ」とは、まさに聖霊降臨のことであります。

ヨハネのバプテスマは人が悔い改め神の前に立ち返って生きていきたい、と表明するきよめの儀式でしたが、聖霊のバプテスマではありませんでした。しかし主イエスはこのヨハネからバプテスマをお受けになった時、天から鳩のようなものが降り聖霊のバプテスマがなされて、父の神から「わたしの愛する子」という神の子としての認証をお受けになられるのであります。
ところで、主イエスがこのような重大なことを語られたのが、「弟子たちと一緒に食事をしていた時であった」ということがとても気になります。何か整列させていざ発表ということではなく。主と食卓をともにしている和やかな日常の時であったのです。
先週はヨハネ福音書21章から復活の主イエスが弟子たちのために食卓を整えてくださり、共に食卓に与った記事が読まれました。又、ルカ福音書24章のエマオ途上に向かう2人の弟子たちに復活の主イエスが出会われる記事も、この弟子たちが復活の主イエスに気がついたのは、主と食事を共にしていて主がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らにお渡しになった時であったということであります。
私たち今は教会に集まることができませんが、主は日ごと食事をするような日常の中に、ゆたかないのちの糧を用意され、それを裂き、与え、満たして下さるお方なのです。

話を戻しますが。
使徒たちは主イエスの言葉に対して、「主よ、イスラエルのために国を建てなおしてくださるのは、この時ですか」と尋ねます。
主イエスが建てあげられるのは、十字架の苦難と死を通してその救いの御業による「神の国」であることは、再三彼らにお語りになっていました。しかし弟子たちは依然としてその意味がわからず、「イスラエルの政治的再建」こそ、神の国と考えていたのです。
主イエスはそんな彼らに対して、「エルサレムから離れず・・・父の約束されたものを待ちなさい」と命じられました。
弟子たちはまだ聖霊降臨への備えと、その後使徒とされ主の福音の証人とされていく備えが十分にできていなかったのです。
主イエスが言われる神の国がわからないような状態で、思い思いの道を進んでいれば福音の力に与ることもなく、その群は崩壊してしまう可能性がありました。
だから、今は御業を成し遂げられたエルサレムから離れず、父の約束された聖霊が臨むのを待って備える必要があったのです。
主イエスは弟子たちに次のようにおっしゃいます。
7節以降「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(あまりにも有名で、あまりにも重要な宣教命令でありますが)こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」

主イエスの苦難と死という悲しみを経験した使徒たちは復活された主イエスと出会い、喜びにあふれていました。それが今度は、主イエスが天に上げられ、もはや肉眼で認めることができなくなってしまうのです。とり残された彼らはその有様をただ茫然と見つめて立ちつくす外なかったのであります。

復活された主イエスは、「主の証人として生きる」「地の果てまで伝える」というあまりにも大きな課題を託されたまま弟子たちから離れ去っていかれたのでしょうか?
けれどもヨハネによる福音書14章18節にはこうあります。
「わたしは、あなたがたをみなしごとはしておかない。あなたがたのところへ戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」またその16章7節以降でイエスさまは次のように言われました。
「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
イエスさまはこの弁護者とは真理の霊であり、父の神が主イエスの名によってお遣わしになる聖霊であると明言しておられます。
そのお方は弁護者でありますから、もはや罪に断罪されることがないように審きの座において主イエスの救いの御業による弁護をしてくださるお方です。
又「その方が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言っておられますから、私たちに救いの真理をさとらせ、日ごと主に心を向けさせてくださるお方なのです。
復活の主イエスは天に上げられてもはや彼らの目からは見えなくなりましたけれども、天に昇られることによって、聖霊が降り、その御救いと共に主イエスが以前にも増して時間や空間を超えて、どんなときにもどこにいても共に生きてお働きになられることを体験できるようになるのです。それは又、聖霊の助けに与かる私たちも同様なのです。
信仰は目に見える確証によって得られるものではありません。むしろ見えないものに目を注ぎ、そこに主のお働きを認めることによって生きた神を知る、体感するのであります。
聖霊を受けるとは、何か得体の知れない霊的高揚感に浸るようなことではなく、十字架と復活を通して罪と死に打ち勝たれ主イエスが今も、いつも、どこにいても、とこしえまでも共におられるという確信から来る勝利と喜び。その大いなる証の力であります。
主イエスはそのように聖霊によって力を受けた弟子たちに、「主イエスの証人となるように」との使徒としての尊い使命を与えられるのであります。

そうして聖霊の降臨とそのお働きは、まず彼らが立っているところ、エルサレムから始まっていきます。
使徒たちにとってエルサレムは決して居心地のよい所ではありませんでした。そこは幾多の躓き、失敗、苦い経験の場であったからです。
しかし、そこが実に彼らの主イエスの証人としての始まりであるのです。
人格者だから、立派だから、知識や能力があるから、経験をもっているから用いられるのではないのです。むしろ自分の限界、弱さ、何より主に救われるほかないことを知る者だからこそ、おごることなく謙虚に神に聞き、神を頼みとし、神に仕え、真に神の恵みを知る証人とされるのです。
こうして主の証人として召し出された彼らはそのエルサレムから主イエスの証し人とされていくのでありますが。聖霊の導きによる出会いと働きはまさにそのエルサレムから始まって、それぞれに遣わされていく現場に用意されていくのです。
主イエスは確かに、「地の果てまでわたしの証人となる」とおっしゃるのでありますが。その一歩は、自分の遣わされる馳せ場、生活の場から始まるのです。
聖霊が降った後、使徒たちはエルサレムにおいて主の証しに集中いたしました。そしてそれがやがて、ユダヤとサマリア全土へ、そして小アジアへ、さらにローマへと拡がっていきます。
殊にエルサレムから見たサマリアは異質でユダヤ人はサマリア人を見下していました。
さらにローマもユダヤから見れば支配されてきた憎き敵国です。しかしそういった国々に神の国、神と人、人と人との和解の福音が告げ知らされていくのであります。それはまさに、使徒たちのうちに臨んだ聖霊を通しての圧倒的な力によるものでありました。
主イエスの証人を介して聖霊を受け、主の救いに与った人びとがさらに主の証人となり、遂には世界中に主イエスの福音、神の国の教えが拡がり、今こうして私たちのもとにも届けられているのであります。
始まりはごくわずかな力を失っていた主イエスの弟子たちでした。厳し迫害の時代も、戦争や紛争の時代も、疫病の時代も、主の福音が今日にまで持ち運ばれ続けて来た。何と力強い聖霊のお働きでしょうか。

「再臨の希望」
最後に、今日の終わりの箇所で、茫然と天を見つめていた使徒たちに、白い服を着た二人の人がそばに立ってこう言ったというのです。「なぜ天を見上げているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

この言葉は使徒たちにとって、大変力強い励ましとなったに違いありません。
主イエスの証人となっていく彼らの前途には様々な困難や問題、世の力が待ち受けています。それらを前にして、「聖霊を受け、主の証人として生きる力に満たされるとの約束」。そしてさらに、「再び主イエスが帰って来られる希望」が与えられるのです。
今もキリストの教会に注がれる聖霊によって私たちひとり一人も又、日々主にあって新しくされ、主イエスの救いの証人として立てられているのです。
その先には、主イエスと顔と顔とを合せる大いなる喜びの日が約束されているのです。
聖霊の力とお働きを切に祈り求めつつ、主イエスが再び来られる希望をもって、私たちのエルサレムから始まって、生活の場、それぞれの現場へと今週も遣わされてまいりましょう。

祈ります。主よ、今も、あなたは聖霊を遣わし、私たちを守り支えて下さっておられる事を感謝します。新しい週が始まりました、どうかあなたの御言葉に聴いて歩む祈りの日々を過ごすことができるよう導いてください。又、一日も早く疫病の収束がなされ、共に礼拝できる日が訪れますようお願い致します。主イエスの御名によって祈ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする